今日、お話しいたしますザアカイの物語、これは聖書の中でもきわだって印象的なお話だと思います。…ザアカイという人は、イスラエルのエルサレムの北東にあるエリコという町にいた人です。「徴税人の頭で金持ちであった」といいます。今で言えば税務署長です。こんにちでは税務署で仕事をする人は社会から尊敬を受けていますが、そういう感覚では当時の人々が徴税人に対して抱いていた気持ちはわかりません。ザアカイのいたユダヤの国は独立国ではなくローマ帝国の支配下にありました。ザアカイたちはユダヤ人から税金を集め、それをローマ帝国におさめる仕事をしていたのです。……ローマ帝国は税を集める仕事を直接自分たちではやらないで、その土地の人間を使ってやったのですが、これをユダヤ人の側から見ると、徴税人はにっくき敵のローマの手先となって、自分たちが汗水たらして蓄えた大切なお金を取り立ててゆくことになるので、けしからん奴だと思われていました。…徴税人への反感を裏付けるような事実もあったのです。たとえばローマから100万円取り立てるように言われると120万円、あるいは150万円を取り立てて、差額を自分のものにする、…こうして自分の資産を増やしてゆき、それをローマの方でも黙認する、そんな人がいたために、徴税人は強欲な人間だとして嫌われていました。…人々に嫌われているということが当人たちをどんなに傷つけ、いこじにしていたかは言うまでもありません。

この当時、人々からさげすまれた人たちの筆頭に徴税人がいました。ザアカイもその一員だったのです。7節でも、人々から罪深い男と言われています。…しかしザアカイがそのような境遇に至ったのは、なにも彼が初めからそう願っていたということではないでしょう。心ならずもそのような結果になってしまったのだと思います。だいたいザアカイという名前は「ただしい人」、「純な人」という意味があります。親は、彼の生涯が清く正しいものであるように願ってそう名付けたのでしょう。しかし、彼は両親の願いとは逆の人生を歩んでしまいました。いまザアカイは徴税人の頭としてある程度の財産と地位はあります。しかし、心の中は空しさにおおわれていたものと思われるのです。税金の不正な取り立てにも手を染めていたようです。本当の友だちもなく、その心に平安はありませんでした。

ザアカイは自分の仕事に対して心の痛みを持っていたのではないかと思います。このザアカイのことを皆さんと一緒にしてしまうのは気がひけますが、少しでも世の中で働いた経験のある方は、多かれ少なかれ不本意な生き方を余儀なくされたということがあると思います。つまり自分はそうしたくはないのに、どうしてもその場合そうせざるを得ないということがあるのです。その中には、自分の良心に反して、悪いとわかっていることでもしてしまうことがあるでしょう。ある大きな会社の課長の方が教会で証しをなさったとき「我々は社会の中で泥沼をはいまわるような生き方をしている」と言われました。泥沼とはどういうことなのか、具体的にはお話しになりませんでしたが、それが、生きるために不本意なことでもしてゆかなければならないということであるのは間違いないでしょう。もちろん社会の中で、素晴らしい人との出会いもあれば、心に残る出来事もありますが、そういうことだけで心が満たされているのはよほど恵まれた人でありましょう。ザアカイほど不幸な状況ではないにしろ、私たちの中で、自分のこれまでをふりかえってみたときに、自分は良心に恥じない生き方をしてきたと胸をはって言うことが出来る人が何人いるでしょうか。

さてザアカイは、聖書によると「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」とあります。……その頃イエス様は有名人になっておられました。たくさんの病人の病気を癒し、力強い説教をされ、貧しい人や苦しい人の味方になったことで評判が国中に広がっていたのです。ザアカイはイエスという人がどんな方か一目見たいと思いました。彼は群衆が前に立ちはだかっているのを見ると、イエス様の行かれる方に先回りしていって、いちじく桑の木に登ったわけです。…いちじく桑というのは、葉は桑に似ていますが、幹はいちじくに似た木で、幹が太く、枝が低い所から出ているので、登ってゆくには好都合でした。徴税人の頭をしていて、いい歳をした男性が木に登るというのは何となくユーモラスですね。私たち自身の歩んできた人生の一断面を見るような感じがします。こういう人を一目見たいと心は引かれるのに、自分の方から積極的に関わってゆくことはためらわれる、しかしある種の憧れと言うか心引かれるものがあって、自分とは別の世界を一目見たい、触れてみたいという気持ちです。

ザアカイは人々にまぎれて木に登り、イエス様を見つめました。すると思いがけなくも、下を通りかかったイエス様が上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声をかけたのです。ザアカイはたいへんに驚き、また喜びました。…ザアカイが驚いたのは、イエス様が自分の名前を知っていたことです。…喜んだのは、イエス様が自分のような、この世でまともな人間とは思われていない者に声をかけて下さったことです。「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」、こう呼びかけて下さるイエスという方の中に、ザアカイは全く新しい世界が開けてくるような感じがしたのです。

人生の中で人格と人格がめぐりあうことの喜びとはこのようなことだと思います。心で考えていたこととは違う、計算していただけではわからない、実際に触れ合って初めて心に響いてくる感動というものがあります。このイエス様とザアカイの出会いの中に、聖書が語ろうとしている福音の世界そのものが凝縮されています。

こうしてイエス様はザアカイの家の客となりました。二人の間にどんな会話がかわされたのかわかりませんが、このあとザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだましとっていたら、それを四倍にして返します」と言っています。……けちん坊のザアカイにとって、財産の半分を施すということは大変な勇気を要することで、まただまし取っていた財産を返すということには、自分の罪を悔い改めたということがあったのでしょう。これまで、命より大切であったかもしれないお金を差し出すというのは大変なことで、それは彼の中でイエス様と出会った喜びがどんなに大きかったかということを示しています。ではその喜びの内容とはいったい何だったのかということを考えてみましょう。

それはこのあとのイエスさまの言葉の中に表われています。「イエスは言われた。『きょう、救いがこの家を訪れた』」。……救いとは何でしょうか。…救いを求める時というのが人生にはあります。溺れる者はわらをもつかむとか、困ったときの神頼みという言葉がありますが、そんな状況の時、人が求めている救いというものは、病気が治るとか、うまくいかなくなった商売を立て直すなど、直面している難問を解決するということだと思います。それも大切です。…しかし、ここで言われている救いとは、それらを越えた、もっと深いことではないでしょうか。

イエス様は「この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言います。アブラハムは神様によって立てられたユダヤ人の先祖です。「アブラハムの子」というのは、神が選んだ民の一人であるということです。ザアカイも神の民の一員なのだ、ほかの人たちと同じく神様の救いにあずかる権利を持った兄弟なのだ、……イエス様はザアカイを神様の前における一人の人格として見て下さるのです。

ザアカイはこれまで、自分のような罪深い者は人々からさげすまれるだけでない、神様からもしりぞけられていると思っていました。しかし、そんな彼の前に現われたイエス様は、お前も神様の民の大切な一人なのだ、決して失われたままになっていい人なのではないと言われます。そのしるしとして彼のもとに来られたのです。イエス様からの呼びかけを、彼は神様からの呼びかけとして受け取りました。

私たちがいま集まっているところは教会です。教会はイエス様によって立てられ、神様の救いを語っているところです。神様の招きによって集まった者たちが、神様に出会う、そこから救いが始まります。……私たちにとって、病気が治ったり、財産が増えるのはありがたいことです。でも、病気が治ってもまた病気になることがあります。財産が増えても、またすっからかんになるかもしれません。この世の中はそんな理不尽なことでいっぱいです。しかし神様は永遠に変わりません。神様が私たちに出会って下さり、神様との交わりに入れられたならば、神様は決して崩れてなくなってしまうということはないわけです。神様の無限の人格の中に、自分の小さな人格が入ってゆく。誰よりも、何よりも偉大な神様から手をさし伸べられて1対1の交わりをすることが出来るという光栄を人間は授かっているのです。

ある少女がいました。おとなしい、どちらかと言えば暗い性格だったのですが、ある出来事を契機にたいへん明るくなったといいます。それは、クラスメイトの少年から「好きです」と言われた時からでした。

ザアカイの場合、好きですと言ってくれた相手は女性以上の存在、神様でありました。神様から手をさし伸べられて、ひとりの人間であり、友として認められる、それがこの日の体験で、彼の非情な喜びだったのです。これが全財産の半分を貧しい人々に施すといったことにつながってゆきます。…ここにザアカイの魂に変革が起こっています。彼は大切なお金を手放しても良いほどのものを手に入れたのです。…これは、ひとりザアカイばかりでなく、神様に出会ったすべての人が体験することなのです。

私たち人間にとって、世界の造り主であり、また私たちを創造し、私たちの人生を導く神様が出会って下さったとき、救いが訪れます。その時、それまで大事だと思っていたことが実はそうではなく、もっと大切なことがあるということに気がつくでしょう。財産をたくわえることはむろん大切ですが、やがて過ぎ去って行くものがどうして永遠なる神様にまさって大切だと言えるでしょう。皆さんが今ここに来ているのは、皆さん一人一人この世界の中で生きていながら、それだけでは満足できず、この世を越えた方に会うまでは決していやされない心の渇きを持っておられるからです。皆さんもいちじく桑の木に上ったザアカイのように、おそるおそる神様を拝見したいと思っていたのかもしれません。遠くからでもその方に会ってみたい……しかし、皆さんの中にも本当の神様が示されました。

ヨハネによる福音書の14章8節と9節の言葉を紹介してみます。イエス様の弟子がある時、「主よ、私たちに御父(神様)をお示しください。そうすれば満足します」と言いました。神様を見たい、会いたい、それはすべての人間の願望です。…このときイエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ」と答えられました。つまりイエス・キリストを見た者は、神様を見たのです。

ですから、ザアカイを訪れたイエス様の中に神様の訪れがあったのです。ザアカイはあんなにも喜び、人間として生まれ変わり、その喜びをさらに多くの貧しいと分かち合うほどになりました。ザアカイに現われたと同じ神様は、イエス様を通してさらに多くの人に、ご自分と会うよう呼びかけておられます。皆さんは、イエス様の呼びかけにどう答えられますか。

(祈り)

主イエス・キリストの父なる神様。米子伝道所に招かれて、教会の人たちと共に礼拝することの出来る幸せを感謝いたします。あなたがザアカイをご自分のみもとに招いて、愛のお手本を示して下さり、それによってきょう私たちにも大きな希望を与えて下さったことを思い、神様を賛美します。あなたは、社会の中でどんなに疎んじられている人でも、同じ目と目の高さであいたいされます。自分をいやしめるなと言って下さいます。そしてお金よりも何よりも大切な神様との出会いの場所を用意されるのです。神様、どうか私たち一人一人、心の深いところで会って下さい。神様にそむくいじけた心を、神様の愛で清めて下さい。そのとき、私たちの心もザアカイのように、神様に向かって燃え上がるでしょう。神様、どうか米子伝道所を神様のあふれる愛を伝えてゆく教会として強め、その伝道の上に御祝福を願います。これらの願いと祈りを、とうとき主イエス・キリストのみ名によって、み前におささげします。アーメン。

米子伝道所伝道礼拝説教 要 旨  2007年11月11日  出雲今市教会 井上豊牧師 

 聖  書:ルカによる福音書19:1−10
 説教題:「一番大事なものはなに?−あなたに伝えたいこと−」
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