「私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」      (使徒言行録2416

 パウロはローマ総督フェリクスの前で、ユダヤ人たちが連れて来た弁護士テルティロによって訴えられた(2419)。告発の内容は、@ユダヤ人の間に騒動を引き起こしている疫病のような人間であること、Aローマによって公認されているユダヤ教とは異なる分派の主謀者であること、B神殿を汚そうとしていること、であった。これに対してパウロは、@エルサレムに来てまだ12日で、その間に論争したり群衆を扇動した証拠はない、Aユダヤ人たちと同じく、先祖の神を礼拝し、律法と預言書に書かれたことを信じ、復活の希望を抱いている、B神殿ではユダヤ人と共に儀式に参加していただけで何の騒動も起していないことを弁明した(1021)。
 総督フェリクスは、パウロの冷静な弁明を聞いて、罪のないことが分かったと思われるし、彼自身キリスト教に対する関心を持っていて、悩み事を抱えていた妻にパウロの話を聞かせたりもしたが、一方ではパウロから金をもらおうと考えたり、ユダヤ人に気に入られようとして、結局、任期中に判決を下さず、軟禁を続けた。
 このようなフェリクスの醜い思惑や、ユダヤ人たちの頑なな思いに対して、標記のパウロの言葉には、キリスト者がとるべき基本的な態度が示されている。ここで「良心」とは、単に自分が正しいと思う所に従って行動しようとする心のことではなく、原語は「共に知る」という言葉であり、神の御心に耳を傾け、その心を共有することが、パウロの言う「良心」である。更に言えば、私たちが神の御心を知る前に、神が私たちを知っていて下さるのである。キリスト者の人生とは、神に知られていることを知り、終わりの日における復活の希望を抱きつつ、絶えず主の御心に耳を傾けて、その御心を自分の中に保ちつつ、地上の命を歩む生き方のことである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2007年11月4日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録24:1−27
 説教題:「信仰による良心」                 
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