序.キリスト者の良心とは

・エルサレムの神殿で、ユダヤ人たちに捕らえられそうになって、ローマ軍の千人隊長のもとで保護されたパウロでありますが、その後、ユダヤ人たちがパウロを暗殺しようと陰謀をたくらんでいることが判明したため、千人隊長はもう自分の手に負えなくなったと判断して、パウロの身柄をカイサリアに駐在しているローマ帝国のユダヤ地方総督フェリクスのもとに護送いたしました。

・パウロの暗殺に失敗したユダヤ人たちは、今度はローマ帝国の裁判によって死刑に追い込もうとして、パウロをローマ総督に訴えることにしました。パウロがカイサリアに護送されてから、わずか五日の後、大祭司アナニアと長老たちが弁護士テルティロという者を連れて、カイサリアにやって来て、訴え出ました。今日の使徒言行録24章は、総督フェリクスのもとで行われた裁判の模様が書かれております。

・ここには、弁護士テルティロによる告発の言葉と、それに対するパウロの弁明が記されていますが、パウロは16節でこう言っております。「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。」ここには、キリスト者としてのパウロの生き方が鮮明に語られているように思います。いや、パウロのみならず、この世に生きるキリスト者がとるべき基本的な態度が示されているように思います。ここでパウロは「良心」という言葉を使っています。キリスト者の「良心」とは何か。キリスト者が良心に従って生きるとはどういうことか。――今日は、そうしたことについて、カイサリアでの裁判と、その後カイサリアでの監禁中にフェリクス夫妻がパウロから話を聞きにやって来たことを通して、教えられたいと思います。

1.ユダヤ人たちによる告発

まず、弁護士テルティロによる告発(これは原告側の論告ということになります)ですが、その内容は2節から9節に記されています。はじめに、2節から4節にかけて長い前置きが述べられています。ここにはフェリクスのご機嫌をとるような美辞麗句が並べられていますが、こういうことは、この時代の弁論でよくある方法であったようであります。フェリクス総督のもとでの「平和」とか「改革」とかが称賛されていますが、実際にはフェリクスの在任中に治安の悪化が進み、ローマ帝国とユダヤ人との関係は悪くなって行ったようであります。そういう中で、フェリクスとしては、何とかこの裁判を穏便に進めなければならないという背景があったのであります。

テルティロのパウロに対する告発は三点でありました。第一は、5節で言っておりますように、「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている」ということであります。確かにパウロが伝道した先々でユダヤ人との間がうまく行かなかったり、エルサレムでも騒動が起こったのでありますが、それはパウロが福音を述べたことに対してユダヤ人たちが反発して騒いだだけで、パウロが騒ぎを起したわけではないのですが、テルティロは、パウロを疫病のような人間という表現を使いました。ローマ総督にとって、騒ぎが起こることは責任問題でありますから、テルティロはパウロが総督の立場を揺るがす元凶ですよと訴えているわけであります。

次に、テルティロはパウロのことを「ナザレ人の分派の首謀者」と呼んでいます。「ナザレ人」という言い方は最初、ナザレ出身の主イエス自身に対して言われたことですが、この頃にはそれがキリスト者を指す言い方になっていたようであります。それを「分派」と呼ぶことによって、ローマ帝国が公認しているユダヤ教とは違う異端であって、その教えを広めようとする極めて危険な集団であって、パウロはその首謀者であるから、ローマの平和を揺るがす問題の人物だというわけであります。

訴えの第三点目は、「神殿さえも汚そうとした」という点であります。これはパウロがエルサレム教会のユダヤ人と一緒に神殿の儀式に参加していたのに、ユダヤ人たちは異邦人であるギリシャ人を神殿の内庭に連れ込んでいると誤解しただけでありましたから、訴えの証拠が不十分であることを訴える方も分かっていて、「神殿を汚した」とは言わずに、「汚そうとした」と言って、パウロを捕らえたのは騒ぎを予防するためであったのだと、正当化しようとしているわけであります。

2.パウロの弁明

こうしたユダヤ人側の告発に対するパウロの弁明が、10節から21節に記されています。パウロはまず第一に11節で、「私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私が誰かと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。」と言っております。十二日という日数は、パウロがエルサレムに到着した日から数えると、翌日エルサレム教会の長老たちを訪問した日、清めに参加した七日間、最高法院で取調べを受けた日、ユダヤ人たちの陰謀が発覚した日、カイサリアへの護送の日までで十二日となります。その間に騒ぎを起す時間はなかったし、群衆を扇動した証拠もない筈だ、と言うのであります。

第二の弁明は「ナザレ人の分派」と言われたことに対してですが、14節でパウロは「分派と呼んでいるこの道」と言い換えています。「この道」という言い方は使徒言行録の中に6回出て来ますが、キリスト者たちの生き方を指す言い方であります。キリスト者たちはイエス・キリストを救い主と信じるという点で、確かにユダヤ教とは別の信仰の道を歩み始めていましたが、彼らはユダヤ教とは異なる神様を拝んでいるつもりはありませんし、ユダヤ教の分派とか異端とは考えていなかったのでありましょう。そこでパウロも、「先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています」と言っております。唯一の真の神を礼拝することと、聖書に記された神の言葉を信じるという点ではユダヤ教と何ら変わることはないので、公認のユダヤ教とは異なる宗教ではない、という弁明であります。

更に15節では、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております」と言います。前に最高法院で復活のことを語った時には、復活を認めないサドカイ派もいたので、論争になりましたが、この時はファリサイ派の人たちだけであったのでしょう。つまり、「この道」の者たちが盛んに宣べ伝えている復活のことは、ユダヤ人も信じていることであって、別に分派とか異端と言われる筋合いはない、と言いたいのであります。

第三の、神殿を汚そうとしたという告発に対しては、17節以下で弁明しています。そもそも自分がエルサレムに来たのは、「同胞のユダヤ人に救援金を渡すため、また、供え物を献げるため」であったと言っております。ユダヤ人に敵対するためではなく、ユダヤ人を援助するためであったし、また何年ぶりかで礼拝をするためであったと言うのです。そして、神殿で「清めの式にあずかってから、神殿で供え物を献げているところを、人に見られたのですが、・・・アジア州から来た数人のユダヤ人がいた」だけで、異邦人を連れ込んだのではない、と言いたいわけであります。 もし異邦人を連れ込んだという理由で訴えたいのであれば、そこにいたユダヤ人たちが出頭して告発すべきだし、最高法院に出頭して取調べを受けた時にも、ユダヤ人たちはパウロの不正について何も言えなかったではないか、と言うのです。そして、あの最高法院で大騒ぎになったのも、パウロが死者の復活のことを言っただけで、何も自分が騒ぎを起したわけではないと弁明します。

このようなパウロの弁明は、極めて冷静な反論で、ユダヤ人たちが<パウロ憎し>という思いから感情的に何の根拠もなく訴えているのとは違います。

22節によれば、総督フェリクスもキリスト教のことはある程度知っていたようで、ユダヤ人の訴えには根拠が乏しいことも分かっていたと思われますが、エルサレムでの当時の事情を直接知っているのは現場の指揮官である千人隊長ですから、「千人隊長リシアが下ってくるのを待ってから判決を下すことにする」と言って、裁判を延期いたしました。そこには、ユダヤ人を怒らせたくないという判断も働いていたと思われます。

パウロは引続き監禁されることになりますが、自由をある程度与えられ、「友人たち」すなわちキリスト教の信者たちが彼の世話をするのを妨げないようにと命じました。

・ここまでのパウロの弁明に見られるキリスト者としての態度については、後ほど考えることにしまして、カイサリアでのその後の様子について、先に見ておきたいと思います。

3.フェリクスと妻のドルシラ

24節以下には、裁判から数日の後、総督フェリクスが妻のドルシ   ラと一緒にパウロのところにやって来たことが書かれています。

・フェリクスがどういう意図でパウロのところにやって来たのか、詳しくは分かりませんが、22節に「この道についてかなり詳しく知っていた」と書かれていること、24節に「キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた」と書かれていることからして、キリスト教について、並々ならぬ関心を持っていたことが伺えますが、妻のドルシラと一緒に来たということは、彼女にパウロの話を聞かせたかったということが考えられます。

・というのは、ドルシラという人には暗い過去がありました。彼女はヘロデ・アグリッパ一世の娘で、幼い時に、小アジアのある国の王子と婚約させられたのですが、相手が割礼を受けてユダヤ教徒になることを拒否したために破談になりました。そこで彼女の兄のアグリッパ二世がシリアの小さな国の王と結婚させました。しかし、彼女が美人であったため、フェリクスがユダヤの総督に就任すると、彼女をみそめて、自分の妻にしたいと思って、魔術師を使って離婚をそそのかして、結婚したのであります。フェリクスの三番目の妻でありました。こういう彼女の悩みを和らげようとして、パウロのところに連れてきたのではないかという想像が昔からされております。

パウロはもちろん、イエス・キリストの十字架や復活のことを語ったと思われますが、福音は当然、倫理的問題にも及んで参ります。パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなって、話を打ち切りにしてしまいました。信仰の話しというのは、自分の罪の問題と向き合うのでなければ、受け入れることが出来ません。フェリクスは自分の過去の罪と向き合うことが恐ろしかったのでありましょう。

それでもフェリクスは、その後もパウロを度々呼び出しては話し合ったようですが、それはパウロから金をもらおうとする下心があったからだと書かれています。金を出せば釈放してやる、ということだったのかもしれませんが、パウロがそんな誘いに乗る筈がありません。

こうして、二年が経過いたしました。彼は千人隊長が下って来るのを待って判決を下すと言っておりましたが、遂に、彼の任期中に裁判は行われなかったようであります。それはパウロから金をもらおうとする下心があったかもしれませんが、27節に書いてあるように、ユダヤ人に気に入られようとしたからであります。判決でパウロが無罪であることがはっきりすれば、ユダヤ人との折り合いが悪くなるでしょうし、またパウロとユダヤ人との間で騒動が起こることを恐れたということもあったでありましょう。このように、フェリクスは正しい裁判を行うべき立場にありながら、自分の思惑を優先しています。これが人間の罪の実相であります。

4.信仰による良心

このようなフェリクスの醜い思惑や、ユダヤ人たちの頑なな思いに対して、信仰者としてのパウロの姿勢はどうでしょうか。

15節でパウロは、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」と語っていました。これは、先ほど見ましたように、<自分たちもユダヤ人と同じように復活を信じていて、決して異端なんかではない>という弁明の意図で語られた言葉でありますが、ここにはキリスト者が何を目指して生きているのかということが示されているように思います。正しい者も正しくない者も、終わりの日には体が甦らされて、イエス・キリストの前に立つことになります。罪を犯した者も悔い改めた者も、救われた者も、救いにあずからなかった者も、主の前に出なければなりません。救われたキリスト者は、キリストの購いによって罪赦された者でありますから、天国が約束されていますが、正しくない者は永遠の審きを受けなければなりません。キリスト者は、天国が約束されていますから、終わりの日に復活してイエス・キリストに出会うことが希望になります。その希望によって、今のこの世を生きるのであります。救われた者にふさわしい生き方をしようとするのであります。これは、終わりの日からの生き方と言ってよいでしょう。今の自分の立場がよくなることや、今の楽しみのために生きるのではなくて、終わりの日にキリストと出会うという希望から、今の自分のあり方を考えますから、目先の利害に捕らわれませんし、困難な目に遭っても動じない生き方が出来るのであります。

16節を見ますと、パウロは続けて、「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」と述べております。これは、<終わりの日に復活してキリストの前に出るのだから、そのときに、責められて厳しい審きを受けることのないように、今、良心に従って絶えず努力している>、と言っているように受け取れます。確かにその通りなのです。けれども、「良心」とは何でしょう。良心とは普通は「自分が正しいと信じる所に従って行動しようとする心」のことであります。しかし、自分が正しいと信じる所も単なる思い込みの可能性もありますし、いつの間にか自分の利益になることが正しいと信じることに置き換わってしまうことがあります。本当に正しいかどうかは、私たちが決めることではなくて、神様がお決めになることであります。

ギリシャ語で「良心」という言葉は、「共に」という言葉と「知る」という言葉が合成されて出来た言葉です。誰と共に知るのでしょうか。神様と共に知るということであります。つまり、神様の思いを知り、それを自分の思いとすることが「良心」ということであります。従って、パウロが「良心を絶えず保つ」と言っているのは、神様の思いに絶えず耳を傾け、その思いに従うということであります。自分の確信や思い込みや、自分の善意ではなくて、神様の御心に聴くことが、良心を保つということであります。

パウロは自分の主義主張に拘った生き方をしているのではありません。回心前のパウロはそうでありました。ユダヤ人たちもそうであります。自分たちは正しいと思って、それと違う者を審こうとします。しかし、キリストに出会ったパウロは、正しい者だけでなくて、正しくない者も、異邦人も、キリストの贖いの故に救われることを知ったのであります。キリストによる救いを知った以上、あとは神に全てを委ねて、神の御心を絶えず聴きつつそれに従って生きることが、キリスト者の生き方であります。それは復活の希望に満ちた生き方であります。

結.神に知られて

・「良心」という言葉は「共に知る」という意味の言葉であると申しました。「共に知る」ということは神様の御心を私たちも共に知るということであります。しかし、よく考えてみますと、私たちの方から神様を知る前に、神様の方が私たちを知っていて下さるのであります。私たちが神様を知る前から神様は私たちを知っていて下さるのであります。私たちが探求して神様に出会うのではありません。私たちが精進努力して神様の御心に到達するのではありません。逆に、神様が何処に向かって行ったらよいかも分からない私たちを捉えて下さったのであります。神様が私たちのことを知って下さったのであります。キリスト者の人生は神に知られた人生であります。

パウロは神様に見出され知られて、今、ローマへの道を歩み始めています。パウロ自身にはまだ確実にローマへ行けるかどうかは分かっていないかもしれませんが、神様はユダヤ人たちやフェリクスというこの世の思いでしか物事を考えられないような者をも用いて、パウロをローマへ送り、福音の世界宣教に仕えさせようとされているのであります。

私たちもまた、神に知られた者として、神様の御心に絶えず耳を傾け、神様の御心を私たちの中に絶えず保ちつつ、残された地上の命を歩んで行きたいと思います。そして、復活の希望を抱き続けたいと思うのであります。
・祈りましょう。

祈  り
 ・イエス・キリストの父なる神様!

あなたが私たちの全てを知っていて下さり、私たちを御心に沿う者へと導こうとしていて下さることを覚えて感謝いたします。

どうか、あなたの恵みに応えて、御心を知る者とならせて下さい。

どうか、人の思惑が渦巻くこの世にあって、あなたを見失うことのないようにさせて下さい。

どうか、絶えず御心に耳を傾ける者とならせて下さい。そして、勇気をもって、冷静に、御心に従って行く者とならせて下さい。

・どうか、この世の思惑の中で苦しんでいる方々、行く先が見えないで不安の中にある者に、あなたが出会って下さいますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2007年11月4日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録24:1−27
 説教題:「信仰による良心」
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