すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。                        (ヘブライ人への手紙1214

 ヘブライ人への手紙12章の前半では、キリスト者の生き様が競走(マラソンレース)に譬えられていたが、そこでは主による厳しい鍛錬を受けねばならない。その目的は、「神聖にあずかる」こと(10)と「義という平和の実を結ぶ」こと(11)とされている。それを受けて標記では勧めを語っている。「義という平和」とは、自分の正しさを主張して相手を裁いたり、交わりを断つことではなく、主が罪人を赦されたように(エフェソ21418参照)、憎い人、正しいと思えない人を愛することであり、そこから「すべての人との平和」が実現する。また、「神聖」とは神のほか持つことの許されないものであるが、「聖なる生活」とは、この世の営みや楽しみから自分を分離して神と交わる生活であり、礼拝生活が勧められているのである。礼拝を怠ることは、一杯のスープのために長子の特権を譲り渡したエサウのように、信仰者のレースのゴールにおいて、主を見ることが出来ない。
 信仰者が目指すゴールは、「シオンの山」であって、そこはかつてイスラエルの民が十戒を与えられた「シナイ山」のような、黒雲・暗闇・暴風・ラッパの音に満ちた恐怖の場所ではなくて、イエス・キリストの十字架の血によって救いを約束して下さった「生ける神の都」「天のエルサレム」である。かつてシナイ山で神がモーセを通して語られた時は、全山が煙って、激しく震えた。主は終わりの日に「もう一度」地だけでなく天をも揺り動かして審きを行われる。しかし、信仰者は揺り動かされることのない神の国にゴールインして、主を見ることが約束されているのである。
 わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。(28) 

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2007年10月28 日 山本 清牧師 

 聖  書:ヘブライ人への手紙12:14−29
 説教題:「聖なる生活」                   
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