序.信仰者のレースのゴールに向けて

・今日はヘブライ人への手紙の1214節以下の箇所から御言葉を聴きたいと思いますが、その前の12章1節から13節までの段落では、信仰者の生き様が競走(マラソンレース)に譬えられていました。

・これは、競走と申しましても、一緒に走る人の中で誰が早く走って先に着くかというような競走ではなくて、本人が最後まで走り抜けるかどうかが問われるレースであります。マラソンのコースに起伏があるように、信仰者が走るコースにも難儀な場面があったり、長いレースで疲れ果てて、気力を失いそうになることもあるかもしれないけれど、最後まで忍耐強く走りぬこう、と勧められていました。また、苦しいことがたくさんあるかもしれないけれど、それは主が愛する者のためにお与えになる鍛錬なのだ、ということも言われていました。

・そして、そのような主の鍛錬の目的は何かと言えば、10節では、肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです、と語っています。「神聖」とは、神様の本質を表すものであります。神様以外に持つことが許されないものであります。しかし、その神様の聖さを映し出すことが出来る者にするという目的で、信仰者を鍛えられるのだ、というのであります。

・主が信仰者を鍛えられるもう一つの目的は、11節にこう書かれています。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。「義」というのは正しさであります。神様の御心に沿うことであります。神様の御心に沿うところにこそ、本当の平和・平安があります。苦しみや悲しみの中で、神様の御心に沿い続けることによって鍛え上げられた人には、本当の平安が実を結ぶ、ということです。

・ところで信仰者としての皆さんのレースは、足取りも軽く快調に進んでいるでしょうか。そうであれば幸いであります。しかし、信仰生活を続けることに重荷を感じてしまうことがあります。礼拝に行って癒されるよりも、しんどい思いをしたり、幻滅を感じてしまうことがあります。他のことの方がもっと簡単に楽しみや慰めを得られるように思えることがあります。また、周りを見ても、心に傷を負った人たちが、福音を聴く機会がありながら、喜んで福音に耳を傾けようとしないし、従って目に見えて癒されるということが見えてこないという現実があります。若い人たちも、この厳しい社会で生きて行くのに、色々なストレスがあるに違いないのだけれども、福音がそうした人たちに慰めや力を与えていない、という現実があります。

・そうした中で、私たちは、何を目指していたのか、どこに向かって走っていたのか、信仰者としての歩みのゴールは何だったのかが見えにくくなってしまい勝ちであります。そして、信仰者のレースから脱落してしまわないとも限りません。

・そういう私たちに、ヘブライ人への手紙の筆者は、先ほど見ましたように、信仰者の目的は、神の聖さにあずかることと、義という本当の平和の実を結ぶことにあって、その目的のために、今、鍛錬を受けさせていただいているのだ、と語ったのでありますが、今日の箇所ではそれを受けて、そのような信仰者の歩みを過まらせるもの(脱落させるもの)に対して注意を喚起するとともに、信仰者が最終的に近づこうとしているゴールは何なのか、どのようにしてそこに達することができるのかを語っています。今日はこの箇所を通して、目指すゴールへの確かな歩み(走り)へと導かれたいと思います。

1.平和と聖なる生活を追い求めよ

14節を見ていただくと、こう言っております。すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。

ここには、先ほど見た10節と11節で挙げられていた主の鍛錬の二つの目的が(順序は逆になっていますが)再び語られていて、それらを追い求めるように勧められています。

一つは、すべての人との平和を追い求めるということであります。好きな人、気の合う人とだけの平和ではありません。気に入らない人、自分に合わない人も含めて全ての人との平和であります。私たちは主イエスが話された「善いサマリア人」の譬えをよく知っています。イエス様のところに質問に来た人は、「隣人を愛せよ」という律法の教えが大切であることを知っていました。しかし、イエス様から「それを実行しなさい」と言われたときに、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言って、隣人の範囲を限定してもらおうとしました。それに対してイエス様は「善いサマリア人の譬え」をお話になって、ユダヤ人が嫌っていたサマリア人こそ隣人であることを示されました。憎いと思う人、あんな奴は相手にしたくないと思う人、その人との間にも平和を追い求めなさいと勧められているのであります。

先ほどは「義という平和」と言われていて、「義」すなわち神様の御心に沿うことが義であり、そこに本当の平和がある、と申しました。「義」とは、自分の正しさを主張して相手を裁き、自分の意に沿わない者と交わりを絶つことではありません。神様の御心は、憎いと思う人、自分には正しいと思えない人を愛すること、赦すことであります。この御心に従う時、そこに本当の平和が訪れます。赦すことなしには、私たちの心に平和が訪れることがありません。そして、目指すゴールに着くことも出来ません。

ところが、私たちは赦すということが苦手であります。最も困難なことであります。しかしこれも、主が与えて下さった鍛錬であります。では、どうすれば赦すことが出来るのでしょうか。エフェソの信徒への手紙では、こう教えられています。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたちの両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェソ21418

さて、今一つの勧めは、聖なる生活を追い求めることであります。「平和」が他人との関係であるのに対して、「聖なる生活」とは、自分自身の問題であります。「聖」とは、<分離する><区別する>という意味です。悪や罪から自分を分離するということです。「聖」とは本来、神様のものであると言いました。ですから、聖なる生活とは、神様との交わりの中にある生活であります。礼拝生活と言い換えることが出来るでしょう。この世の営みやこの世的な楽しみから自分を分離して神様を礼拝する生活を追い求めることが勧められているのであります。

そしてここでは、人との平和と神との聖なる生活が並べてセットで勧められています。人を愛することと、神を愛することは切り離すことができません。イエス様も、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」という質問に対して、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ223740)と言われました。この二つの掟は一体として私たちに求められていることであります。

そして、14節後半では、こう言われています。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。信仰者のレースのゴールは主にお会いすることであります。再臨の主と出会うことであります。しかし、聖なる生活を抜きにしては、主にお会いすることは出来ないと断定されています。礼拝生活を続けることなしに、終わりの日に主にお会いすることは出来ないのであります。

2.苦い根と一杯の食物――罪の誘惑

ところが、私たちの信仰生活には、常に罪の誘惑が待ち受けています。私たちを神様の恵みから遠ざけようとする危険に曝されています。15から17節はそのような危険に対する注意が呼びかけられています。

15節では、神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい、と言われています。「苦い根」というのは申命記2917節からの引用ですが、そこにはこう書かれています。「今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない。」つまり、「苦い根」とは、あちこちに毒を生じさせる根のことで、イスラエルの中にいる偶像礼拝者のことを指しています。この日本でも、日常生活の中に偶像礼拝の根が至る所に蔓延っています。町内会の行事という形で、「とんどさん」のような神道の習慣が地域の中に根付いています。先祖を尊び、亡くなった近親者を思う心情から、仏壇が家庭生活の中に入り込んでいます。そうした偶像礼拝の根が、私たちの信仰を汚していないか、警告しています。

16節に書かれている、ただ一杯の食物のために長子の権利を渡したエサウの話は、皆様もよく御存知でありましょう。イサクに二人の息子、エサウとヤコブがありました。ある日、長男エサウは狩に出かけて、腹をすかせ疲れきって帰って来ました。そのとき弟のヤコブはスープを煮ていました。エサウは「お願いだ、その赤いスープを食べさせてほしい」と言います。するとヤコブは、「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」と言います。エサウは「長子の権利などどうでもよい」と言って、一杯の食物のために、長子の権利を譲り渡して、神様から与えられた自分の召しを、棒に振ったのであります。

一時的な楽しみ、目先の享楽に身を委ねて、長子の権利を失ったエサウの姿を、ヘブライ人への手紙の著者は私たちに前に突きつけて、あなたたちも一時的な楽しみのために、信仰生活に召されていることを蔑ろにしているのではないか、と問うているのです。

エサウのその後のことは、先ほど創世記2730節から40節までを朗読いたしました。エサウは後に、父の祝福を受けようと思いましたが、それも弟ヤコブの計略によって、奪われてしまいます。エサウは涙ながらに父に訴えるのですが、既に手遅れでありました。ついにエサウは長子の権利も、父の祝福も受けることが出来なかったのであります。彼は後悔をいたします。けれども、その後悔は、真の悔い改めには結びつきませんでした。彼は弟ヤコブを殺そうと考えるようになるのであります。目先の楽しみに心を奪われて、本当に大切なものを放棄した者の結末はこのようであると、聖書は私たちに厳しく警告しているのであります。

3.シナイ山とシオンの山

18節以下では、いよいよ私たちのレースの最終目標、一歩一歩近づきつつあるゴールについて述べています。私たちが目指すゴールは22節にあります「シオンの山」「生ける神の都」「天のエルサレム」であります。

・しかしここでは、私たちの目指すゴールをより鮮明にするために、イスラエルがシナイ山でモーセによって受けた旧い契約と、私たちがシオンの山(即ちエルサレム)でイエス・キリストによって与えられた新しい契約が対比されています。

まず、1821節は、シナイ山において旧い契約(即ち律法=十戒)を与えられた体験を振り返りながら、私たちが近づいているシオンの山との違いを述べています。

・シナイ山において十戒を与えられた出来事は、旧約聖書の出エジプト記(19)と申命記(45)に記されています。そこでは、燃える火や、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音によって神様の尊厳が示されました。

しかし神様は、イスラエルの民のリーダーであるモーセに対して、シナイ山の周囲に境を設けて、民が山に近づかないようにすることを命じておられるのであります。神様は言われます。「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。・・・石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。」(出エジプト191213

・この御言葉に、民は恐れをなして、山から遠く離れて立ち、直接神様の声を聞くことに対して極度の恐怖感を抱きました。モーセすら、おびえ、震えざるを得ませんでした。そのような中でモーセはシナイ山に登って、十戒を与えられました。

シナイ山で与えられた十戒は、本来は神の民が神の前に正しく、幸いであるために与えられた戒めであります。この戒めに従っているならば、神の前に平安であり得た筈であります。しかし、罪ある者、神の御旨に従っていない者には恐怖の言葉となりました。シナイ山でイスラエルに与えられた旧い契約は神の恵みの約束でありつつも、私たちの罪を暴きだす、恐ろしい神の裁きの言葉でありました。

このような旧い契約に対して、22節以下では私たちに与えられている新しい契約について、また、その新しい契約によって約束されており、私たちが近づきつつあるものについて述べています。

まず、「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム」と言われています。「シオンの山」は、明らかに十戒が与えられた「シナイ山」と対比して語られています。シオンの山というのは、最初はエルサレムの南東部にある丘を指していたようでありますが、あのダビデが、そこの要害(シオン)を占領して「ダビデの町」としました。それで、初めはそこを「シオンの丘」と呼んでいましたが、後にソロモン王が、ダビデの町の北方の高い丘に神殿を建てて以来、この神殿の丘のことを「シオンの丘」と呼ぶようになったのであります。

「シオン」という言葉は旧約聖書に152回出てくるのですが、<シオンは神様が基を置かれたところ>とか<主の住まい>であると言われていて、<シオンから主はご自身をあらわされ><そこから救いを送り><そこから祝福される>というように考えられていました。また更に、先ほど説教前に歌いました讃美歌に<シオンの娘、主の民よ>とありましたように、シオンは全エルサレムとそこに住む住民を表す言葉ともなるのであります。

そのシオンすなわちエルサレムで、イエス・キリストが十字架にお架かりになって、新しい救いの約束をして下さったわけですから、まさに、シオンは新しい救いが送られるところとなったのであります。

更に、シオンは新しい救いが始まったところというだけでなく、イエス・キリストを信じる者に約束される新しい国(=神の国)の都の象徴ともされるようになりました。「生ける神の都」「天のエルサレム」と言われているのは、そういう意味であります。私たちもまた、その都の住民になることが約束されているのであります。「無数の天使たち」とか「天に登録されている長子たち」というのは、初代教会以来、イエス・キリストを信じて仕えて来た地上の教会の先輩たちと、私たち信徒のことを指しています。

「長子」という言い方は、他の箇所ではイエス・キリスト御自身にあてはめて用いられている言葉でありますが、ここでは人類の中から選ばれ、救いに入れられた地上の教会のメンバーという意味であります。私たちは、地上の教会のメンバーでありつつ、天上の教会のメンバーになることが約束されている、ということであります。

23節後半には「すべての人の審判者である神」という言葉が出て来ます。キリスト者への恵みの約束が語られているところで、審きについても語られています。私たちが目指している新しい国では、私たちが審判者である神と和解し、その御心にかなうようになることこそが、福音の賜物として与えられることであります。そこでは不義が取り除かれ、義が全うされるのであります。

「完全なものとされた正しい人たちの霊」とあります。もちろん私たちの力で完全なものとなるのではありません。イエス・キリストの十字架によって、罪人である私たちも完全な者と扱われるのであります。

ですから最後に24節で、再び私たちの目をイエス・キリストに向けさせます。イエス・キリストは御自身の血によって、新しい契約をして下さいました。アベルの血のように、復讐を呼び寄せる血ではなくて、私たちのために贖いをもたらす血であります。

そのようなイエス・キリストに向かって、近づきつつあるのが私たちのレースなのであります。

4.揺り動かされない御国

5節以下のところでは、イエス・キリストによる新しい契約を拒むことの罪の重さを説いて、キリストの血による救いを受け入れることの恵みと喜びとを教えて、この章の締め括りとしています。

25節で、あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか、と言っております。「語っている方」とは、天にある復活のイエス・キリストを指しています。私たちはイエス・キリストからのメッセージを聴いています。今日も、ヘブライ人への手紙を通して聴きました。それを「拒む」というのは、何も積極的にキリストを拒否するとか、キリスト教から離れていくことだけではありません。私たちが御言葉を、真剣に心から受け入れて、それに従って歩もうとしているかどうかが問われているのであります。

「地上で神の御旨を告げる人」とはモーセのことを指しています。モーセは律法を通して、神の御旨を告げました。しかし、イスラエルの民は主を恐れて、神の御告げを聞くことから逃れようとしました。そして、モーセの語る言葉に聞く耳を失ったとき、不平に満ちた集団と化してしまいました。そして、聞くべきことを聞かなくなったとき、聞かずともよいことを聞くようになってしまいました。そのような人間の姿は、今も同様であります。

まして、「天から御旨を告げる方」すなわちイエス・キリストに背を向けるならば、その罪は、なおさら大きいのであります。

26節にはこう書かれています。あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」――「あのとき」とは、神がモーセを通して語られた時であります。あのとき、シナイ山は全山煙って、激しく震えました。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう」という言葉はハガイ書からの引用であります。バビロンから帰還を許された人々が、喜びと感謝をもって神殿の再建に着手するのでありますが、これらの帰還者とユダに住み続けた人たちとの間に摩擦が生じまして、工事を中断せざるを得なくなります。その時に預言者ハガイは主の言葉として「わたしは、間もなくもう一度、天と地を、海と陸地を揺り動かす」(ハガイ25)と告げました。ヘブライ人への手紙の著者は、そのハガイの預言を、終末の時に当てはめて語ろうとするのであります。終わりの日に、もう一度、厳しい審きを経験しなければならない、ということであります。

27節を見ますと、この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています、とあります。世界を創造された主は、この世界を揺り動かす力を持っておられて、揺り動かされない御国を建てられるとともに、壊すべきものを壊して、御旨を行われるのであります。

その中で、28節には、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けている、と言われています。私たちの信仰はぐらつき易く、危なっかしいように思えます。私たちの教会は脆弱で、社会の大波の中で揺り動かされているように見えます。しかし、御言葉は、「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けている」と断言しています。

最後の29節には、実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です、と記されています。主はどのような敵も、どのような罪も焼き尽くすお方であります。その方のお守りと約束の中にある限り、私たちのレースは御国へのゴールインで終わることが約束されているのであります。

今日は宗教改革のことを覚えつつ礼拝を守る日であります。宗教改革は、教会が御国へのレースから脱落しそうになった時に、もう一度御言葉に立ち返って、御言葉によって改革されて、御国への確かな道に引き戻された出来事でありました。そのような御言葉による改革は、今も礼拝のたびに起されていることであります。

結.感謝をもって仕える
 ・最後に28節の言葉をもう一度聴きましょう。

 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
・祈ります。

祈  り
 ・天地を治め給う父なる神様!

くずおれがちな私たちを、今日も御言葉をもって励まし、警告し、約束を与えて下さいましたことを感謝いたします。

どうか、シオンの山において、イエス・キリストによってなして下さった恵みを覚え、主イエスを仰ぎ見つつ、この地上の歩みを続ける者とならせて下さい。
どうか、この伝道所の教会員と求道中の方々が、一人残らず御国を受ける者とならせて下さい。
どうか御言葉のために仕える献身者を起して下さい。どうか神学校の働きを祝し、導き、多くの伝道者を送り出させて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨               2007年10月28日 山本 清牧師 

 聖  書:ヘブライ人への手紙12:14−29
 説教題:「聖なる生活」
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