序.挫折と見えることのなかに

・パウロは異邦人への伝道という使命を与えられて、三回にわたって伝道旅行をいたしました。そして小アジア地方一帯からマケドニア、ギリシャ地方に多くの異邦人教会を建てたのでありますが、パウロは同胞であるユダヤ人の救いということを片時も忘れることが出来ませんでした。

・パウロがエルサレムに戻って来たのは、各地の教会からエルサレムの貧しい信徒たちのために献げられた献金を届けるという役目がありましたが、それと共に、パウロの心の中には、何とかしてユダヤ人の救いのために役に立ちたいという思いがあったに違いないのであります。エルサレムには、パウロの命を狙うユダヤ人たちがいて、身の危険が予想されたのでありますが、パウロは「主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と言って、エルサレムにやって来たのでありました。

・案の定、パウロがエルサレムの神殿を訪れていた時、同行していたエルサレム教会の信者をギリシャ人だと誤解したユダヤ人たちが、異邦人を神殿の内庭に連れ込んだと思って、パウロを捕らえて殺そうとしたことから、大混乱が起こって、パウロはローマ兵によって保護されて、取調べを受けることになりました。

・パウロはしかし、何とかユダヤ人たちに自分の思いを分かってもらいたいと思って、千人隊長の許しをもらって、ユダヤ人たちに弁明をいたしましたが、パウロが自分は異邦人のために遣わされたと語り始めると、ユダヤ人たちは怒り狂って、わめき立てたので、ローマ兵によって鞭の拷問を受けそうになりました。

・その時、パウロは自分がローマの市民権を持っていることを告げたので、鞭は免れましたが、ローマ兵の千人隊長はユダヤ人たちが訴える理由を知ろうとして、ユダヤの最高法院が召集され、パウロはそこで弁明をすることになりました。

・そこでパウロは、大祭司に向かって、先手を打って律法違反を指摘すると共に、自分は復活について望みを抱いていることで裁判にかけられているのだ、と言うと、復活を認めていないサドカイ派の議員と、復活を認めているファリサイ派の議員の間で激しい論争になって最高法院は収拾がつかない状態になってしまいました。そういうわけで、パウロは結局、伝えようとしたことを十分に語れないままに、ローマ軍の兵営に連行されたのであります。

・パウロは何とかしてユダヤ人たちにも、キリストの福音を理解してもらいたいと思いましたが、それは果たされませんでした。パウロは命がけでエルサレムにやって来ましたが、一番願っていたことが出来ないまま、囚われの身となってしまったのであります。パウロはどれほど落胆していたことでありましょうか。

・そのあと、今日の箇所では、ユダヤ人たちが、パウロを最高法院にもう一度引っ張り出して、その折に殺害してしまおうという陰謀をたくらんでいることが発覚して、千人隊長は手に負えなくなって、カイサリアにいる総督のもとで尋問してもらうことにしたので、パウロはエルサレムを離れ、カイサリアに護送されることになります。これは、パウロが願っていたエルサレムのユダヤ人たちへの福音の証しが、もはや出来なくなったということであり、囚われの身となることによって、異邦人への伝道というパウロの使命も、ここで終わったかに見える事柄であります。

・けれども、実はそこに、神様の深い御計画と導きが隠されているのであります。今日はそのことを聴いて行きたいと思います。

・先週は、私たちキリスト者は、神の国の市民権を与えられた者として、日々神の国に向かって歩んでいる者であることを覚えさせられたのでありますが、その道は決して平坦ではないし、様々な失敗や挫折が待ち受けています。

・しかし、パウロに対する神様の導きを知ることによって、私たちの歩みに対しても神様の深い御配慮や導きがあることも、覚えさせられるのであります。今日は、挫折とも見えるパウロを導き給う神様の深い御心を知ることによって、私たちに対しても神様の大きな御心があることを聴き取りたいと思うのでございます。

1.ローマでも証しを

11節を見ていただきますと、パウロが兵営に連れて行かれた夜、主がパウロのそばに立って、こう言われました。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

ここで主は、すっかり落胆していたであろうパウロに対して「勇気を出せ」とおっしゃいます。これはエルサレムで思い通りの成果を挙げられず、失意の中にあったパウロに対する単なる言葉の上での励ましではありません。「勇気を出せ」と言われた言葉の後に、パウロに勇気を出させる二つの根拠が語られています。

一つは、「エルサレムでわたしのことを力強く証しした」と言われています。エルサレムでパウロのしたことは、決して失敗ではなかった、ということであります。パウロはエルサレムに着くとすぐ、ヤコブたちを訪ね、彼らの勧めによって、ユダヤ人キリスト者でパウロに疑いを持っている者たちの誤解を解くために、誓願を立てている人たちと一緒に神殿に行って、儀式に参加して、彼らが頭を剃る費用を負担しました。それは、その行為によって、パウロが決して律法を疎かにしていないことを示すためでありました。その結果、ユダヤ人キリスト者の誤解が解けたのかどうかは聖書に記されていませんが、この主の言葉からすると、誤解が解けただけではなく、彼らが更に深く福音を理解するようになったと受け取ることが出来ます。      

また、パウロに敵対するユダヤ人たちは、神殿にいたパウロを捕らえて殺そうとしましたが、ローマ兵の千人隊長に保護されて、ユダヤ人に対して弁明する機会が与えられましたが、そこでパウロは自分の回心の出来事を通して、生けるキリストの働きと自分に与えられた使命のことについて語りました。これは結果的には、ユダヤ人たちを怒らせることになったのでありますが、主はこのパウロの証しも、「わたしのことを力強く証しした」と評価しておられるのであります。決して失敗なんかではなくて、そこに十字架と復活の主イエスが証しされている、ということであります。

更に、最高法院で大祭司や議員たちに語ったことは、大祭司を怒らせ、議場を混乱に陥れただけのようにも見えますが、主はこのことをも「わたしのことを力強く証しした」と言っておられるのであります。パウロが大祭司の罪を告発し、復活のことを語ったことを、主はおそらく、罪からの救いである主イエスの十字架と復活を証ししたと評価なさったのでありましょう。

・このように、表面的には失敗と見えるエルサレムでのパウロの言動を、主は力強い証しであったと言っておられるのであります。これは、単に主が温かい解釈をして下さったということではなくて、パウロのしたことを主御自身がちゃんとフォロウして下さるということであります。人の目には失敗と見えることも、主はよい結果へと導いて下さるということであります。私たちのまずい証しや躓きを与えるような言動も、失敗と思える伝道活動も、主は力強い証しに変えて下さるということであります。何と慰めに満ちた主のお言葉でありましょうか。

・パウロや私たちに勇気を与えて下さる主のお言葉は更に続きます。主は続いて、「ローマでも証しをしなければならない」とおっしゃいます。これは単なる命令ではありません。元のギリシャ語では<必ずそうなる>という必然を表す言葉が用いられています。「必ずローマに行け」という命令ではなくて、むしろ「必ずローマで証しをさせる」という主の御意志を示すお言葉であります。

2.ユダヤ人たちの陰謀の失敗

さて、次の12節からの段落には、パウロを暗殺しようとするユダヤ人たちの陰謀のことが記されています。四十人以上のユダヤ人が、<パウロを殺すまでは飲食を断つ>と祭司長や長老たちの前で固く誓ったのであります。彼らのたくらみというのは、パウロを詳しく調べるという口実で、千人隊長に働きかけて、もう一度パウロを最高法院に連れ出して、その途中で暗殺しようということでありました。

ところが、この陰謀をパウロの姉妹の子、つまり甥に当たる者が聞き込んで、パウロに知らせに来るのであります。この甥に当たる若者がどういう人物なのか、聖書は何も語っていないのですが、主はそのような人物をちゃんと備えておられたとしか言い様がありません。

その若者から陰謀のことを聞いたパウロは、百人隊長に言って、その若者を千人隊長のところへ連れて行ってもらいます。千人隊長は若者から話を聞くと、事態を了解して、「このことをわたしに知らせたことは、だれにも言うな」と命じます。

ユダヤ人たちの陰謀が千人隊長に知れたことで、彼らのたくらみは完全に失敗であります。四十人がいくら固く誓っても、神様の御計画に沿わない誓いは脆くも崩れ去ります。旧約聖書の箴言にこういう言葉があります。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言1921)。口語訳聖書の方が力があります。「人の心には多くの計画がある。しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」。――人間の綿密な計画も、固い誓いも、神の御旨を揺るがすことは決して出来ないのであります。

3.総督のもとへ護送

・さて、若者からパウロの暗殺計画を聞いた千人隊長はすぐさま決断いたしました。それは、もう自分の手に負えないということで、パウロの扱いをローマ総督フェリクスの裁きに委ねようということでありました。これは役人らしい判断であります。ユダヤ人の間の訳の分からない争いに関わって、治安維持の責任が果たされなくなって、自分の責任が問われるような事態になることを避けたということであります。千人隊長の心の中には、パウロを何とか守りたいというような気持ちは毛頭ありません。ただ自分の立場を危うくされないという自己保身の思いが第一であります。

・もう一つの思いは、この一件を自分の手柄にしたいということであります。それは、総督に宛てた手紙の中に表れています。27節でこう言っております。「この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。」――ここでは、自分が鞭打ちを命じたことには触れられていません。ローマの市民権のことはパウロが言ったので始めて分かったことであります。そんなことには触れずに、あたかも自分がローマ市民を守ったかのように、手柄を誇っています。

・このように、千人隊長は自分の責任逃れの保身と総督に対して手柄を誇ることに関心があるだけであります。しかし、その背後には主の御心が働いています。主は千人隊長の利己的な心をも用いて、パウロを生かされたのであります。

・千人隊長はパウロに十分な警護兵をつけて、カイサリアに駐在している総督のもとへ送ります。エルサレムを出発する時には、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備させました。一人の囚人の警備としては多すぎるように思えますが、四十人以上のユダヤ人たちが決死で襲ってくることも考えたのでありましょう。

その日のうちに途中のアンティパトリスまで行き、翌日は襲撃の危険が薄れたと判断したのか、騎兵たちだけになって、カイサリアまで護送されました。

23節から32節までの間に、新共同訳では「護送」という言葉が三回も出てきております(25,30,32節)。原典では三つとも違う言葉で、口語訳では前の二つは、単に「連れて行く」とか「送る」と訳されていました。けれども、これだけ厳重に警備兵をつけて連行したのですから、「護送」と言った方が相応しいと言えます。パウロを護送したのはローマ軍の兵士たちでありました。しかし、本日の説教の題は「主による護送」といたしました。主がパウロをユダヤ人から守ろうとされ、主がパウロをカイサリアまで連れ出し、更にローマまで護送しようとされているのであります。

カイサリアと言えば、パウロが第三次伝道旅行で最後に立寄った 所であります。その時の様子は21章の8節以下に記されていましたが、そこではアガポという預言者が、パウロの帯を取って自分の手足を縛って、「エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す」と預言したので、同行者や土地の人々は泣きながらパウロを引き止めましたが、パウロは「主イエスのためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」と言って、皆の勧めを聞き入れませんでした。

今パウロは、アガポの預言の通りに、異邦人であるロ−マ兵の手によって縛られてエルサレムからカイサリアに戻って来ました。幸い、パウロの命が奪われることはありませんでしたが、カイサリアの人たちが、このパウロの様子を見たとしたら、どれほど悔しい思いを抱いたことでありましょう。あの時、パウロが人々の勧めを聞き入れようとしないので、皆が「主の御心が行なわれますように」と言って口をつぐんだことを悔いたかもしれません。

・しかし、この時はまだ明らかではありませんが、結局はパウロがローマに行き着くことになり、「主の御心」が行なわれることになるのであります。アガポの預言も的中するのでありますが、「主の御心が行なわれますように」という祈りも聞かれるのであります。そこに人間の思いを遥かに越えた主の御計画の深遠さがあります。

結.主による護送

・私たちキリスト者の人生というのは、神の国の市民権を与えられた者として、神の国を目指す歩みである筈ですが、この世の中のドロドロとした人間の思惑や、自分自身の勝手気ままな思いに左右されて、神様の御心からはどんどん遠退いているのではないかと思わされることがあります。世界の動きを見ても、各国や各民族の利害がからんで、争いは絶えませんし、豊な国と貧しい国、富める者と貧しい者の格差はますます広まっているように思えます。歴史を導く神様の御心はどこにあるのだろうか、もはや神様の手に負えない所まで来てしまったのではないか、とさえ思わされます。

教会の歩みの現状を見ても、このたび開かれた第57回日本キリスト教会大会で報告された数字で見ますと、現住陪餐会員の減少は63人で、このところ毎年60人から80人の減少が続いていて、毎年大きな教会が一つずつ無くなっている勘定になります。日曜学校に至っては、1960年代には4千人台あった出席者数が、今では800人を割る状態になっています。今回の大会では、日本のプロテスタント教会の創設に関わってくれたアメリカの長老教会と改革教会の代表を来賓としてお招きしたのでありますが、かつてアメリカで主流のプロテスタント教会であったそれらの教会も、1965年以降、会員数が46%も減少して、もはや主流ではなくなっているという現実があるそうであります。  

そうした教会の現状を知らされても、正当な教会がこの世の力に押されて、もはや影響力を行使できない状態になっていて、神様は私たちの教会の働きをもはや認めておられないのではないか、とさえ思ってしまいかねません。

しかし、パウロの時代の世界の状況も、教会を取り巻く状況も、今日とは比べものにならないほど、困難な状況であって、パウロ自身もユダヤ人からは命を狙われるし、異邦人はただ自分たちの利害のために動く状況の中にあったわけであります。世の中の殆どの人はイエス・キリストの名前さえ知らないし、キリスト教会の存在など意識されることはなかったでありましょう。

そうした中でローマ兵に護送されるパウロの姿は、命を狙っていたユダヤ人たちからは守られたとは言え、福音の宣教とか、教会の伝道とかいうことからすれば、誰の目にも挫折としか見えない姿であります。しかし、神様は今、パウロをローマの伝道に仕えさせるために、ローマ兵に護送させておられるのであります。

 主はパウロに、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」とおっしゃって、どんな障害があろうと、パウロをローマに連れて行こうとされているのであります。

私たちの人生も、世界の歴史も、そして教会の歩みも、実は神様の御計画の中にあるのであります。そして福音はエルサレムから始まって、地の果てまで伝えられるし、神様に選ばれた者は一人残らず救われて、神の国に入れられるのであります。神様はあらゆる手段を用いて、私たち一人一人を神の国まで護送して下さるし、終わりの時に至るまで、教会の働きを通して、ご自身を明らかにし、救いの御業を完成されるのであります。私たちの伝道所も、その主の働きの一翼を担わされているのであります。

先ほど朗読しましたイザヤ書の御言葉をもう一度聴きましょう。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。
雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。

それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。   (イザヤ55811
・祈ります。

祈  り
・世界と教会の歴史を導いておられる父なる神様!

あなたの救いの御業が着々と進められていることを覚えて御名を賛美いたします。また私たちのような者をも御国へと守り導いて下さっていることを信じて感謝いたします。

どうか、変わらぬあなたの恵みを忘れることなく、あなたと教会に仕え続ける者とならせて下さい。

・どうか、あなたの約束のもとにある者たちが皆、あなたを見失うことなく、信仰の生涯を全うすることが出来るようにして下さい。
また、一人でも多くの者が、あなたの救いに加えられますように。この伝道所が貴い救いの御業の一端を担うことが出来ますように、お願いいたします。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2007年10月21日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録23:11−35
 説教題:「主による護送」
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