序.地上の賜物をどう生かすか

・先週は、パウロが自分を殺そうとするユダヤ人たちの前で語った、弁明の言葉を聞きました。その中でパウロは、自分の生い立ちを述べておりました(2234)。パウロはタルソスという、文化度の高い「れっきとした町」で生まれ、エルサレムの都で育ち、ガマリエルというファリサイ派の律法学者のもとで最高の教育を受け、神に仕えるという点では、非常に熱心で、行動力もありました。また、前にも出てきたし(1637)、今日の箇所でも自ら明らかにするのですが、パウロは生まれながらローマの市民権を持っていました。

・このように、パウロは生まれながらの特権と、教育で身に着けた高い教養や能力を持っていたのでありますが、今日の箇所では、命を狙われるというギリギリの状況の中で、キリスト者として、それらの賜物が遺憾なく発揮されているのを見るのであります。

・皆さんもまた、生まれながら与えられた境遇とか、教育や人生の経験の中で培われてきた様々なものを、それぞれに持っておられる筈であります。問題はそれらの賜物をどう生かすかであります。それらの賜物を、自分の楽しみのためや、他人よりよい生活をするためにだけ用いればよいということではない筈であります。

・私たちはそれぞれ、与えられた賜物によって、この世に生きて行くためのいわば「市民権」を持って、日々生活しているのでありますが、その上に私たち信仰者は、ただこの世の市民権を持っているだけではなくて、「神の国の市民権」を与えられている者であります。私たちは、神の国の市民として、この世の市民権をどう生かすかが問われているのであります。

・今日は、パウロが自分に与えられたローマの市民権を初めとする賜物を生かしながら、神の国の市民として果敢に戦う姿を通して、私たちのあり方を考えて見たいと思うのであります。

1.ユダヤ人たちの怒り

さて、パウロは先の弁明の中で、21節に至って、こう言いました。「すると、主は言われました。『行け、わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」

こう言うと、これまで静まって聞いていたユダヤ人たちが、22節以下のように、声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしてはおけない」と、わめき始めたのであります。彼らがわめき立てて上着を投げつけ、砂埃を空中にまき散らした、というのは、彼らの激しい怒りを表わしています。

ユダヤ人は、自分たちこそ神に選ばれた特別な民であるという誇りを持っていますし、神の恵みはまず自分たちに与えられるのが、神の決められた順序であると思い込んでいました。もちろん彼らとて、神の恵みはユダヤ人だけが独占するのではなくて、異邦人にも及ぶということは考えておりまして、異邦人で神を敬う人がいることを否定しているわけではありませんでした。現に、以前に学びましたように、神殿では、異邦人は内庭には入れないと決めていましたが、その外側には「異邦人の庭」というのもちゃんと設けていたのであります。しかし今、パウロが、<エルサレムの人々は自分についての証しを受け入れないので、異邦人のところに遣わすと主は言われた>と語ったことで、頭に来たのであります。ユダヤ人たちは、パウロが異邦人たちに律法を守らなくてもよいと教えている、と誤解しておりました。その上、パウロがキリストを持ち出して、ユダヤ人よりも異邦人を優先するようなことを言うとは、ユダヤ人の風上にも置けない、怪しからぬ奴だ、というわけであります。

ユダヤ人は、神から選びを受けたことを感謝して、更に異邦人へと神の恵みを広げるという使命を思わなければならないのに、その使命を忘れて、異邦人を差別しているのであります。

私たちも、神様から多くの賜物を与えられています。それは私たちが優秀だったからとか、立派だったからではありません。神様の特別な憐れみを受けたからであります。そうであるのに、私たちが与えられている賜物を自分の幸せのためだけに用いて、人に分け与えることをしないならば、ユダヤ人たちと同じだということになります。

2.ローマ帝国の市民権

ユダヤ人たちは声を張り上げてわめき立てるのですが、千人隊長は彼らがパウロの何処が悪いと言って訴えているのか理解できないものですから、パウロを鞭で打ちたたいて調べるように命じました。これは皮の先に金属などを結びつけた鞭で打つもので、時には命を失うこともあったようで、厳しい拷問の手段でありました。何か悪いことをしているなら、吐かせようとしたのです。

パウロの両手を広げて縛って、鞭で打とうとした時に、パウロはそばに立っていた百人隊長にこう言いました。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」。当時のローマの法律では、ローマ市民は鞭打ちのような不面目な刑罰を受けないという権利が保証されていました。パウロはそのことを知っていて、申し立てたわけであります。

これを聞いた百人隊長は驚きました。パウロが本当にローマ市民であるなら法律違反をすることになるからであります。そこで、千人隊長のところへ行って報告しますと、千人隊長も驚いてやって来て、パウロに「あなたはローマ市民なのか。わたしに言いなさい」と言って確かめます。パウロが「そうです」と答えると、千人隊長は「わたしは、多額の金を出してこの市民権を得たのだ」と言いました。これは、<自分でさえ多額の金を必要としたのに、お前などに買えるわけがない>という意味なのか、<お前にも市民権があるとすれば、このごろはローマ市民権も安っぽくなったものだ>という意味なのか、分かりませんが、本当に市民権を持っているのかどうかを疑ったのでありましょう。それに対してパウロは、「わたしは生まれながらローマ帝国の市民です」と言いました。こうなると、手荒なことは出来ませんので、兵士たちは手を引いたのであります。

パウロがなぜ、この時になってローマの市民権のことを持ち出したのか、ということですが、そういうことを初めから言うことによってローマの世話になるということを潔しとしなかったのかもしれません。しかし、ここに来て、法律違反は許せないという正義感から口にしたということもあったかもしれませんが、やはりパウロはここで命を失いたくなかったのではないでしょうか。それは、自分の命が惜しいということではありません。以前にこう言っておりました。「神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」2024)。パウロは福音の宣教のためには命を惜しまないのであります。しかし、今ここで命を失うことは、ローマで福音の宣教に仕えるという務めが出来なくなります。ですから、ローマの市民権というこの世の特権を利用してでも、ここは生き延びたいと考えたのではないでしょうか。

千人隊長のように、ローマの市民権をお金で買って、それでもって自分の名誉や地位を保つとか、自分の利益や保身のために使うのが普通であったでしょうが、パウロはその特権を自分のためではなくて、福音のために用いたのであります。

私たちも、生まれつき賜物として与えられているものや、これまでの生涯の中で獲得して来た立場や能力や財産があります。それらを利用して、更に自分の社会的な立場をよくしたり、自分の楽しみや利益のために使ったとしても、誰も批判出来ません。

逆に、そんなこの世的な立場とか能力とか財産といったものの上に乗っかって、自分の利益のためだけに生きるのは潔しとしない、という考えで、地位や財産を追い求めず、それらを棄てて、世のため、人のために仕えるという高潔な生き方もあるでしょう。

しかし、パウロの生き方は、そのどちらでもありません。パウロの生き方は、ただ福音の宣教のために仕えるという生き方であります。福音ためには、最終的には自分の命すら惜しくないと考えるのですが、自分の持っているもので使えるものならば、たとえこの世的なものであっても利用しよう、という生き方であります。ここに私たちが見習うべき点があります。私たちは与えられた賜物や特権を眠らせたり、放棄する必要はありません。福音のため、宣教のために、最大限に生かすことが大切なのであります。

3.良心と律法に従って

・さて、千人隊長は、法律を犯すことを恐れて、パウロを鎖からも解放するのでありますが、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、理解することが出来ません。そこで、ユダヤの最高法院の召集を命じました。これは正式の議会ではなかったと思われますが、祭司長たちや議員たちが召集されて、パウロは彼らの前に立たされました。23章にはその様子が書かれています。

1節には、いきなりパウロの弁明が記されています。実際はその前に議員たちからの訴えがあったと思われますが、ここには記されていません。パウロは議員たちを見つめながら、「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました」と語り始めました。「神の前で良心に従って生きる」ということは、ユダヤ人としてあるべき生き方であります。間違った生き方ではありません。ところが、この言葉を聞いた大祭司アナニアは、パウロの口を打つように命じました。

・それは、<そんな口先だけのことを言うな>ということでしょうか。或いは、パウロの勢いからして、自分や議員たちに向けての批判の言葉が飛び出すのを察知して恐れたのでしょうか。このアナニアという人物は祭司の風上にも置けない芳しからぬ人物でありまして、税を着服するとか、流血事件に関わったとか言われています。おそらくパウロもそういう人物であることを見抜いていたのでありましょう。

パウロは大祭司に向かって言いました。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか」。ここで「白く塗った壁」と言っているのは、イエス様が律法学者やファリサイ派の人たちに言われた「白く塗った墓」というのとは少し意味が違います。イエス様が言われたのは、「白く塗った墓」が外側は美しく見えるけれども、墓の中には死者の骨や汚れで満ちているように、律法学者たちも上辺の行いを繕っても、心の中は偽善に満ちているという意味でありました。ここでパウロが言っているのは、エゼキエル書1310節以下で言われていることによっておりまして、預言者たちが神様から何も示されないのに、自分勝手なことを語ることに対して、崩れ落ちそうな壁に漆喰を上塗りしても、大雨が降ったり、暴風が吹けば崩れてしまうのと同じで危険だ、という意味であります。大祭司が立派な席に座って権威を振りかざしても、自ら律法を犯しているようでは、そんな権威はすぐに崩れ去る、ということを言おうとしたのでありましょう。

このパウロの厳しい発言に、近くに立っていた者たちが驚いて、「神の大祭司をののしる気か」と言いますが、パウロは「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています」と言いました。

これはパウロが本当に大祭司を知らなかったということではなくて、「こんな間違ったことをする人が大祭司とは思えない」と、皮肉ったのでありましょう。

パウロは厳格に律法を学んできた人間であります。だからアナニヤの律法を破った発言に我慢がならなかったということもあるでしょうが、パウロは律法を破っているという彼らの訴えに対して、あなたがたこそ律法を破っているではないかと、先制攻撃を仕掛けたのではないでしょうか。こういうパウロの態度を、少し行き過ぎではないか、という見方もあるかもしれませんが、パウロの律法に対する真摯な姿勢を表わしているのではないでしょうか。ここでもパウロは、律法に対する厳格な教育を受けたという自分の賜物を生かして、権力者の罪を告発しているのであります。

キリスト者は罪に対して厳しくなければなりません。それは、他人の罪を厳しく指弾すればよいということではありません。他人のことを言う前に、まず自分の罪に対して厳しくあらねばなりません。キリスト者は、自他(自分と他人)の罪と真正面から向き合わなければなりません。

4.死者が復活する望み

パウロは大祭司の罪を指弾するだけではありませんでした。続いて6節以下で、パウロは復活の望みのことを語り始めます。これは唐突な発言のようでありますが、罪の問題を解決するのが、キリストの十字架と復活であります。ここでは十字架のことは言葉としては出てきませんが、十字架だけでは罪の問題の最終的な解決はないわけで、主イエスの復活こそ、罪に対する勝利であり、私たちの望みであります。パウロはコリントの信徒への手紙の中で「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1513)と言っております。パウロが言いたいことの本音はこの事であります。

しかし、ここではもう一つ、パウロのしたたかな読みがありました。議員の中には、祭司たちを中心とするサドカイ派と律法学者を中心とするファリサイ派がいました。サドカイ派は復活ということを認めておりません。それに対してファリサイ派は死者の復活を認めております。パウロが「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と言いますと、案の定、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂してしまいました。

確かに、福音はイエス・キリストの復活の出来事から始まったのであります。そしてキリスト者は、キリストの十字架によって罪が赦されて、終わりの日に復活するという望みを抱いているのであります。そのことを宣べ伝えていることで、パウロが訴えられているのであります。

しかし、復活のことになると、議員たちはパウロのことをそっちのけで、論争が始まって、騒ぎが大きくなりました。ファリサイ派の律法学者の中には、「この人には何の悪い点も見出せない」と言い出す者も現われました。こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた、のであります。

こうしてパウロは悪意に満ちたユダヤ人たちの手から逃れることが出来たのであります。パウロは確かに議場の状況を読んで、この世的な知恵を働かせたのであります。しかし、それは単なる知恵ではありません。福音の望みの核心部分を語ったのであります。そのことが救いへの道を開いたのであります。

ここでもパウロは、彼の身に付いたこの世的な知恵を働かせて、ユダヤ人たちの攻撃をかわすことが出来たのであります。

結.神の国の市民権

11節は次週取り上げる部分でありますが、そこにはこう書かれています。その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」――ここで主は、「エルサレムでわたしのことを力強く証しした」と評価しておられるのであります。パウロはこの日、ただ自己保身のためにローマの市民権を乱用したり、自己弁護のために議会を撹乱したのではないのであります。イエス・キリストを証ししたのであります。

冒頭で申しましたように、私たちは、復活を約束され、「神の国の市民権」を与えられた者であります。神の国の市民がこの世でなすべきことは、主イエス・キリストを証しすることであります。

私たちはこの世で様々な賜物を与えられています。ここ世で生きて行くために必要な、権利や知恵や立場や健康を与えられています。それは、私たちがこの世で楽をしたり、自分を楽しませたりするためのものではありません。それは、神の国の市民として、なすべきことをするためであります。

私たちは自分に与えられているものに、不満を抱き勝ちであります。なぜこんな欠点だらけの、劣ったものしか与えられていないのだろうか、もっと素晴らしいものがほしいと、不平を言うことが多い者であります。しかし、神様はこの世で生きるに十分な市民権を与えて下さっているばかりか、神の国の市民権まで与えて下さっているのであります。そして、今与えられているこの世の市民権でもって、神の国の市民としての役割を存分に果たすこともできるようにして下さっているのであります。
・祈りましょう。

祈  り
・恵みに富み給う父なる神様!

あなたを蔑ろにする私たちのような者にも、多くの豊かな賜物を与えて下さっているばかりか、神の国の市民権まで与えられていることを覚えて感謝いたします。

どうか、神の国の市民に相応しく、主イエス・キリストを証しするものとならせて下さい。どうか与えられている賜物を、自分のために用いるのではなく、福音のために最大限に生かす者とならせて下さい。

・この伝道所に関わるすべての者が、持てる賜物を互いに出し合い、補い合って、福音のために、よい働きをなさせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2007年10月14日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録22:22−23:10
 説教題:「神の国の市民権」
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