序.ユダヤ人に対する弁明

・新約聖書に出て来るユダヤ人というのは、非常に誇り高い人たちであります。彼らは神様に選ばれた特別な民であるという誇りがあります。神様が与えて下さった律法を大切にしなければならないという伝統が生活の中に染み付いていました。

・パウロも典型的なユダヤ人でありました。そして、律法について高い教育を受けた、誇り高きユダヤ人でありました。

・そのパウロが、キリストに出会って回心しました。そして、律法を守ろうとすることによっては救われず、ただキリストの十字架によってのみ救われるということを知りました。

・このことを知ったパウロは、この十字架の福音を、ユダヤ人をはじめ異邦人にも伝えようと、各地に伝道旅行しました。

・このようなパウロの働きを知ったユダヤ人たちは、パウロがユダヤの伝統を破壊し、神を冒涜する者であるとして敵視し、殺害する機会を狙っておりました。

・そうした中で、パウロがエルサレムの神殿に来ていた時、同行していたユダヤ人のクリスチャンのことをギリシャ人だと誤解したユダヤ人たちは、異邦人が入ったら死刑にされるとされている神殿の境内に異邦人を連れ込んだとして、パウロを引きずり出して殺害しようとしたのであります。

・このことで騒ぎが大きくなったため、ローマ兵の千人隊長が出て来て、パウロを保護して、兵営に連れて行こうとしました。そのとき、パウロは千人隊長の許しを得て、ユダヤ人たちに向かって弁明を始めました。――今日は、このパウロの弁明を通して、神様の御言葉を聴こうとしております。

・このパウロの話は、パウロ自身も「弁明」と言っておりますが、その話の内容は、生粋のユダヤ人であった自分がキリストによって捉えられたということを語っている「証し」であります。

・この中でパウロは自分が回心した時のことを語っておりますが、使徒言行録の中には、パウロの回心の物語が三回出て来ます。物語の大要はもちろん同じですが、それぞれに特徴があります。最初は9章に出て来ておりましたが、これは回心した時のことを、筆者のルカの報告として記述しているのでありますが、今日の箇所ではパウロ自身の証しとして書かれております。そして、今日の箇所の特徴は、パウロを迫害しているユダヤ人に対して語られているということであります。元々は同じ立場にあったユダヤ人に対して、自分がどのようにして回心したかを語っているのであります。そこには、何とかしてユダヤ人たちが、自分と同じようにキリストに出会ってほしいという願いが込められています。

・私たちは、ユダヤ人から見れば異邦人であります。それならば、今日の箇所は我々異邦人にとっては関係がないかというと、そうではありません。ユダヤ人たちは自分たちの伝統の中で、自分たちの生き方を変えることが出来ないでいました。私たちも、それぞれ自分流の生き方をしてきております。その中で、キリストに出会って、生き方を変えられたということがあったかもしれません。しかし、信仰生活を続けるうちに、自分流の信仰生活が出来上がってしまって、御言葉によって変えられるということが、なくなってしまい勝ちであります。いつの間にか、自分のあり方を正当化して、神様に打ち砕かれるということが乏しくなってしまいます。それは、自分たちの生き方に固執していたユダヤ人の状態と似ていると言えるのではないでしょうか。

・パウロはユダヤ人の自分が、キリストに出会うことによって如何に変えられたかを語ります。そこには、自分の思いを越えて働き給う主の導きが語られています。このパウロの証しを通して、私たちも、主によって変えられる者となりたいと思います。

1.回心前のパウロ

1節を見ていただきますと、パウロは「兄弟であり父である皆さ ん」と語りかけています。これは、あの殉教者ステファノが最高法院で大祭司や議員たちの前で弁明したときの語りかけと同じであります。最高の敬意を込めた呼びかけであります。パウロはユダヤ人たちを軽蔑したり、憎いと思っているのではありません。彼らの思いがよく分かるのであります。だからこそ、何とか自分の回心の体験を分かってほしいと願っているのであります。

パウロはヘブライ語で話し始めました。ここでヘブライ語と言っているのは、多分、当時の日常語であるアラム語のことであります。千人隊長にはギリシャ語で話しましたが、ユダヤ人にはユダヤ人の言葉で話したのであります。これを聞いて、人々はますます静かになった、と書かれています。

パウロはまず、回心以前の自分の姿を語ります。パウロは「キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人」であります。いわば外国生れのユダヤ人であります。しかし、すぐ続いて述べておりますように、「この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていた」のであります。律法を大切にするという点では誰にも引け劣らないということを強調しています。また、「わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。」とも述べています。皆さんが私たちキリスト信者にしていることを、かつては私自身もしていたのだ、と言っているわけです。「このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます」と言っているように、エルサレムの宗教界あげて、かつてのパウロの働きを認めていたのであります。パウロがキリストと出会うことになるダマスコに行く時も、大祭司からダマスコのユダヤ人たち宛の手紙を貰っていました。その手紙には、ダマスコにいるキリスト者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するようにと書かれていたのであります。

こう話すパウロには、かつての自分が、如何に皆さん方と同じ事を考え、同じ事をしていたかを、何とか理解してほしいという気持ちが表れています。

2.光に照らされて

このように、パウロを迫害するユダヤ人たちと同じ立場であった者が、どうして一転してキリスト者になったのか、――その回心の出来事が6節以下で述べられています。

それは以前9章で聴いたのと同じでありますが、一つは、突然、天から強い光が周りを照らしたということであります。それは暗い闇の夜に見た雷の光のようなものではありません。真昼の太陽よりも強い光でありました。これは、パウロの頭の中で考えあぐねていたことに一つの結論がひらめいたとか、心の中で悩んでいた問題に解決の光が見えたとかいうようなことではなくて、思いがけず、天から射し込んだ(=神様から与えられた)出来事であったということを示しています。

今一つは、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」という主イエスの言葉であります。パウロたち厳格なユダヤ人は、ナザレという一介の村から出た男が、救い主だなどと主張することは、神を冒涜することであり、放置できない、と思って、キリスト者を迫害しておりました。ところが、迫害している相手は、なんとその張本人であるイエスだというのです。パウロは、神のためと思ってキリスト者を迫害していたのですが、なんと神そのものを迫害していたということを知らされたのであります。これはパウロが気づいたというようなことではありません。キリスト自身がパウロに出会って示されなければ分らなかったことであります。

パウロは主イエスに「主よ、どうしたらよいでしょうか」と申します。これまでは、自分の考えを主張するパウロでありましたが、もはや、なすべきことを主イエスに問う者へと変えられています。すると主は、「立ち上がってダマスコへ行け。しなければならないことは、すべてそこで知らされる」と言われます。パウロはもう、その言葉に素直に従う者に変えられていました。しかし、光の輝きのために目が見えなくなっていましたので、一緒にいた人たちに手を引かれて、ダマスコに入りました。一緒にいた人たちを指図する立場にあったパウロですが、この時は手を引かれなければ一歩も歩けません。神様はこうして、パウロの誇りを木っ端微塵に砕かれたのであります。

回心とか悔い改めというのは、こういうものであります。悔い改めとは、あの事この事が悪かったと反省することではありません。それまでの自分が木っ端微塵に砕かれることであります。自分が正しいと思っていたことが覆されて、ただ神様の御心のままに従う者へと造り変えられることであります。それは自分の中から出て来るものではなくて、上から与えられるものであります。

3.神の選び――主の証人となる

・ダマスコにはアナニアという人が用意されていました。この人のことを「律法に従って生活する信仰深い人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした」と紹介しています。ここでもパウロは、ユダヤ人のことを気遣いつつ、アナニアが律法を軽んずるような人ではなく、むしろ律法を重んじ、ユダヤ人の中でも評判の良い人であって、その人が、神様の御心に従って、パウロのこれからの役割を伝えたのだと言おうとしているのであります。

・アナニアは見えなくなっていたパウロの目を見えるようにした後、こう告げます。(1416節)「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。」

・この中でまず、「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった」と言っております。「先祖の神」といういい方は、ユダヤ人が旧約の歴史の中で信じ続けてきた神、という意味であります。その神がパウロをお選びになった、ということであります。パウロは回心の出来事によって全く新しい神に出会ったのではないのです。回心の前と後とでパウロの生き方は大きく変わります。そこにはいわば断絶があります。しかし、ユダヤ人が信じてきた神が、新しいパウロの生き方を与えたのであって、そこには連続性があるのであります。けれども、パウロを選んで新しい務めを与えたのは、あくまでも神様であって、パウロが新しい務めを選んだのではありません。神様がパウロに御心を悟らせ、神様が「あの正しい方」つまりイエス・キリストの声を聞かせたのであります。

・パウロが与えられた新しい務めは、「その方の証人となる」ことでありました。誰に対して証人となるのでしょうか。「すべての人に対して」であります。ユダヤ人に対してだけではなくて、異邦人も含めた「すべての人」に対してであります。証人として何を証しするのでしょうか。それは「見聞きしたこと」であります。パウロは十二弟子のように復活後、顕現された主イエスには会っておりません。しかし、この回心の出来事を復活の主イエスとの出会いであったと受け止めていることがコリントの信徒への手紙に記されています。そしてこのとき、主イエスの御声も聞きました。ですから、パウロにとっては、自分の回心の経験を語ることが、主イエスの証人となることでありました。

続いてアナニアは「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい」と言います。パウロに出会われた主イエスも、「立ち上がってダマスコへ行け」(10節)と命じられました。これまでの生き方にストップをかけられたパウロは、そこでじっと座り込んで、考え込んだり、立ち止まって反省するのではなくて、すぐに立ち上がらなければならないのであります。これが悔い改めた者のすべきことであります。すぐに洗礼を受けて罪を清めていただいて、証人としての働きに就かなければならないのであります。

私たちの悔い改めも同様であります。キリストに出会って、それまでの私たちの思い上がりや独り善がりが打ち砕かれます。自分の愚かさ、過ちを知らされます。しかしそこで、私には何もする資格はありませんと言って座り込むのは間違いなのであります。すぐにキリストに出会った喜びや、知らされた自分の愚かさを語るために立ち上がらなければならないのであります。

4.行け、異邦人のために――二度目の回心

さて、ここでパウロのダマスコでの回心の話は終わるのでありますが、今日はその次の17節から21節の段落までを含めました。パウロの弁明はそこまで続いています。ここでは、エルサレムに帰って来たパウロが、再び主イエスに出会ったことを語っています。

・パウロはエルサレムの神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になって、主にお会いしました。そのとき主が言われたことは、「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである」ということでありました。

これはパウロの思いとは違っておりました。パウロはあくまでもユダヤ人を愛しておりました。回心してこれまでと生き方が変わったとしても、その自分の姿を通して、ユダヤ人にキリストを証しするのが使命だと考えていました。

しかし主イエスは、「あなたが証しすることを、人々は受け入れない」とおっしゃいます。これまでパウロはエルサレムでも多くのキリスト者を迫害しておりました。そのことは多くのユダヤ人が知るところであります。また、突然に変節したパウロに対して、ユダヤ人は命を狙うことも考えられます。主イエスは、そんなパウロがエルサレムで証人として働くのは相応しくないと考えられました。

これに対してパウロは、自分がキリスト者に対してどれほどひどい迫害を加えたかを語って、そんな自分がキリスト者になったことを語ることによって、ユダヤ人も耳を傾けるのではないか、と反論いたします。

すると21節にあるように、主イエスはこう言われました。「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」

 主イエスは、パウロを異邦人に福音を伝える器として選んでおられたのであります。それはすでに、15節にある「すべての人に対してその方の証人となる」という言葉でほのめかされていたことでありました。

パウロは回心をいたしましたが、またしても自分の考えを主張し始めておりました。主イエスに対しても、自分の考えを主張いたしました。そんなパウロが、もう一度主イエスによって砕かれなければなりませんでした。

主イエスは、「わたしがあなたを…遣わす」とおっしゃいます。パウロの使命を決めるのは、あくまでも主イエスであります。パウロはこうして二度目の回心を経験したのであります。

結.主に与えられる生き方

・私たちもまた、主イエスに出会うまでは、自分なりの考えをもって生きていたものでありました。それが、キリストとの出会いによって、自分というものが打ち砕かれて、大きく変えられることになりました。もし、キリストとの出会いがなく、キリストを知らないままに過ごしていたら、どんな人生になっていたかと思うと、神様の恵みを感謝せずにはおれません。

・しかし、私たちはクリスチャンになってからも、やはり自分流の信仰生活をしてしまっていないでしょうか。神様が<あっちへ行け>とおっしゃっているのに、<自分はこっちがいいと思う>とか、<こうするのが正しいと思う>と自分の主張をして、神様の御心に従わないことがあるのではないでしょうか。

・この前の伝道礼拝でも申しましたが、礼拝というのはキリストとの出会いの場であります。そこではキリストによって自分の思いが打ち砕かれて、主イエスの前にひれ伏して、主イエスが指し示される新しい生き方・新しい場所へ遣わされるのであります。

もし礼拝の場が、自分のやりかたを正当化する場になっていたり、いくらキリストの御言葉を聞いても、自分の思いから抜け出そうとしないなら、表面的にはキリストと出会っているように見えて、キリストを迫害していることになりかねないのであります。

私たちは、キリストに捕えられた者たちであります。大きな過ちを赦された者たちであります。それなら、キリストの御指示に素直に従うべきであります。私たちは、キリストのご指示がどこにあるのか、よく聞こえない場合もあります。しかし、たいていの場合は自分でも分かっているのであります。しかし、何とかかんとか理屈をつけて、従わないでおこうとします。しかし、主の御指示に素直に従う時に、心からの喜びが湧き上がって来ます。私たちの礼拝が、そのような礼拝になることを心から願います。
・祈りましょう。

祈  り

・憐れみ深い父なる神様!

私たちは、あなたによって選ばれて、救われて、このように礼拝の場に導き出されております。しかるになお、自分流の信仰生活から離れられない部分を持っていることを告白せざるを得ません。

どうか、あなたの御意志を明解にお示し下さい。そしてどうか、その御意志に素直に従う者とならせて下さい。どうか、自分で自分を救おうとするのでなく、あなたに全てを委ねて、お仕えする者とならせて下さい。

どうか、まだキリストとの出会いを経験していない方が、一日も早く、このところで救いの喜びに与ることが出来ますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2007年10月7日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録22:1−21
 説教題:「行け、わたしが遣わす」
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