序.礼拝とは――キリストとの出会いの場

・今日の集会のご案内をしたチラシには、この集会のことを「キリスト教伝道集会」と書きました。ところが、御手許の週報には「特別伝道礼拝」と書いてあります。よく似ているようですが、微妙に違います。実は、わざと違う表現を用いたのであります。

・というのは、まだキリスト教の信仰を持っていない方(特に、初めて教会へ行ってみようかと思われる方)は、恐らく「礼拝」という表現には抵抗を感じられるのではないか、と思ったからであります。「神を礼拝する」などということは神を信じてはじめて出来ることで、自分はまだ信じていないのだから、礼拝を押し付けられても困る、と思われる方がおられるのではないか、と考えました。その点、「集会」であれば、講演会のように、お話を聞けばよいので、気楽に行ける、と受け取ってもらえるのではないか、と考えたわけであります。

・けれども、今、私たちがしようとしていることは、実は単なる講演会のようなものではなくて、「礼拝」なのであります。「礼拝」というのは、辞書を見ますと<敬意を表わして神仏を拝すること>とか<神や仏などをうやうやしくおがむこと>などと書かれていますが、私たちは、単に私たちの方から神様を拝むということではなくて、神様の方からの語りかけや働きかけもあって、双方向の人格的な交わりがある、と考えています。別の言い方をすれば、礼拝とは<神様との出会いの場>、<キリストとの出会いが起こる場>であると考えているのであります。

・<看板に偽りあり>で、何か騙されたように思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、私たちが願っておりますことは、単に、頭の中で、知識としてキリスト教のことを知ってもらうということではなくて、キリストというお方との人格的な出会いが起こることを願っているということなのでございます。

・先ほど聖書を朗読していただきましたが、後で読んでいただいたマルコによる福音書1046節以下には、盲人のバルティマイという人とイエス・キリストの出会いの物語が書かれています。これは2000年前に起こった一つの出会いでありますが、私たちがこの物語を聞くことによって、私たちとキリストとの出会いが新たに起こると考えているのであります。

・というのは、聖書には色んな人物が登場して、キリストに出会って、生き方が変えられる物語がたくさん出て来るのですが、それらの人物は皆、私たちの姿を映し出していて、そこで交わされる人格的な交わりは、もはや、単なる過去の物語ではなくて、今、キリストが私たちと出会っていて下さるように思えるからであります。聖書がこのような人物の物語を書き残しているのは、単にイエスという人物が奇跡的なことを行った、ということを伝えたいとか、単に哀れな一人の人物がイエスによって助けられた、ということが言いたいのではなくて、このイエスという人物と出会うならば、これと同じようなことが、今も起こるということが言いたいからであります。盲人のバルティマイに語られた言葉は私たちに今も語られるキリストの言葉であり、バルティマイの目が開かれ、人生の大きな変革が起こったようなことは、私たちにも起こり得ることなのであります。

1.道端に座っていた盲人

さて、イエス・キリストと弟子たちの一行は、それまで伝道活動を続けておられたガリラヤ地方を出て、今、エルサレムの都へと向かっています。大勢の群衆も一緒でありました。それというのは、彼らがイエス様のお話を聞いたり、イエス様がなさる不思議な業を見たいということもあったかもしれませんが、この時期はちょうど過越しの祭という大きな宗教行事の時が近づいていたので、エルサレムへ巡礼する人たちが大勢いたのであります。けれども、イエス様がエルサレムに上られる目的は過越しの祭に参加することだけではありませんでした。今日の箇所の少し前の33,34節を見ていただきますと、イエス様はこんなことを言っておられます。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子(イエス自身のこと)は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人(当時ユダヤを支配していたローマの官憲)に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」――これはキリストが十字架に架かることの予告をなさっているのであります。しかしながら、群衆はもちろんのこと、同行の弟子たちも、イエス様のおっしゃることをまだよく理解しておりませんでしたし、エルサレムに行くことの本当の意味が分かっておりませんでした。

イエス様の一行がエリコという町を出て行こうとされたとき、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていました。恐らく巡礼を目当てに、何人かの物乞いがいたと思われますが、ここではバルティマイという男に焦点が当てられています。目が見えないために、普通の仕事に就くことが出来なくて、道端で物乞いをするしかない、哀れな境遇であります。これまでに、何とかこの境遇から脱しようとしたかもしれませんが、結局、物乞いをするしかなかったのかもしれません。或いは、盲人であることで、人の憐れみを受けることが出来るので、盲人であることに甘えた生活を続けていたのかもしれません。

この男の状態というのは、特別に不幸な状態であると見ることもできます。この男に比べると私たちは、身体的にも恵まれているし、私たちの生活は遥かに豊であるし、プライドを持って生きることができる状態にある、と見てしまうかもしれません。

しかし、聖書がこの哀れな盲人のことを取り上げているのは、先ほども申しましたように、この盲人のことが他人事とは思えないからであります。 私たちは目が見えているつもりであります。しかし、私たちには物事の真実が見えているのでしょうか。心の目は閉じていないでしょうか。物乞いなどしていないとしても、本当に自立した生き方が出来ていると言えるのでしょうか。道端に座わってはいませんが、自分の生活に安住して、そこから立ち上がろうとしていないのではないでしょうか。 いや、自分はそれほど落ちぶれていないし、他人からとやかく言われような生き方をしていないつもりだ、とおっしゃるかもしれません。自分はもっと高いレベルのものを目指して生きているのだ、こんな男と一緒にしてもらっては困る。このように教会に来たのも、もっと高尚なことを求めているからだ、と言われるかもしれません。しかし、この男は盲人の物乞いであったから、キリストに出会うことが出来たのであります。自分の哀れさを知っていたからこそ、救いを得ることが出来たのであります。私たちもこの男と大同小異であることを認めることが出来なければ、キリストとの喜ばしい出会いを経験することが出来ないのであります。

2.わたしを憐れんでください

この男は、ナザレのイエス様が通られると聞くと、叫んで言いました。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。彼は恐らくイエス様の評判を耳にしていたのでありましょう。そのイエスが今、自分の近くを通られるのであります。これは又とない機会であります。千載一遇のチャンスであります。他の物乞いがどう思ったか分かりませんが、バルティマイはそう捉えたのであります。イエス様が来ておられるのに、それをチャンスだと捉えてキリストに出会おうとしなければ、何も起こらなかったでしょう。

私たちもこの礼拝に来て、イエス・キリストに出会えるのであります。キリストは近づいておられるのであります。しかし、この時を絶好のチャンスだと捉えなければ、キリストとの出会いは起こりませんし、救いも起こりません。

バルティマイはしかし、悲しいかな目が見えませんから、イエス様の許へ走り寄ることが出来ません。何とか注目してもらおうと、大声で叫びます。

「ダビデの子イエス」という言い方は、よく言われていた呼び方ではありません。むしろ禁句でありました。というのは、「ダビデというのは、ユダヤの優れた王の名前で、このダビデ王の子孫から救い主が生まれる、と預言者たちが言って、ユダヤの人たちはその救い主が現われることを待ち望んでいたのであります。しかし、イエス様がその救い主であると公言することは、まだ差し障りのあることでありました。一人の人間を神様扱いにすることは、してはならないことでありましたし、キリストを妬んでいる人々を刺戟する、危険な発言でありました。ですから、弟子の一人がイエス様のことを「あなたはメシア(救い主)」と告白したときにも、誰にも話さないようにと戒められたくらいでした。

けれども、バルティマイはイエス様が何者であるかを直感的に見抜いて、敢然と「ダビデの子イエス」と言い放ったのであります。あまり重大なことを言ってしまったので、弟子たちをはじめ多くの人々は彼を叱りつけて黙らせようとしましたけれども、バルティマイは、そんなことはお構いなしに、ただイエス様に聞いてもらいたい一心で叫び続けたのであります。

・イエス様はこの叫びをお聞きになりました。この時はもう、この叫びをお止めにはなりませんでした。もう十字架の時が近づいていると考えておられたからでありましょう。むしろ、この叫びに込められた必死の思いに心を向けられたのであります。

3.あの男を呼んで来なさい

・イエス様はエルサレムに向かってまっしぐらに進もうとされていたのに、わざわざ立ち止まって「あの男を呼んで来なさい」と周りの人におっしゃいました。

イエス様は、私たちの叫びに、立ち止まって耳を傾け、私たちを御許に呼び寄せてくださるお方であります。私たちは本来、主の御前に立つことなど出来ない罪深い者であります。イエス様に無視されてもしょうがない者たちであります。しかし、イエス様は私たちが、このバルティマイと同じように、イエス様の助けなしには、まともに生きられないものであることを知っておられます。そして、私たちを憐れんで、御前に招いてくださいます。

バルティマイは人々を介して、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」という喜びの言葉を聞くことが出来ました。

イエスさまの召しは、いつも直接の呼びかけとは限りません。この場合のように、しばしば人に取り次がれて私たちの許に届きます。直接であれ、間接であれ、イエス様の招きであることに違いはありません。

イエス様に呼び出されたバルティマイの喜び様がどんなであったか、50節に記されています。盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た、とあります。「上着」というのは、上から羽織る長い布で、おそらく衣服としても使うし、寝具としても、また物乞いをするときに道に広げて、金銭や食べ物を置いてもらうのにも使っていたものでしょう。いわば商売道具であり、貴重な家財道具でもあり、自分の身を守るものでもあったと思われます。ユダヤの律法では、上着は借金の担保にしてはならないとされていたくらいです。その上着を脱ぎ捨てました。そして、それまで座り込んでいた道端から躍り上がってイエス様の許に来たのであります。

バルティマイはまだ目が見えたわけではありません。ただ、イエス様が自分の叫びを聞いて呼んでくださったというだけで、躍り上がるほどに喜んでいるのです。もう、既に、喜びの絶頂に達していると言ってもよいような有様です。この姿に、バルティマイのイエス様に対する信頼の心(信仰)が表れています。

4.何をしてほしいのか

このバルティマイに向かって、イエス様の方から、「何をしてほしいのか」と問われました。

今日の箇所のすぐ前の段落(35節以下)を見ると、イエス様の弟子の中のヤコブとヨハネという兄弟がイエス様のところにやって来て、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言いました。その時もイエス様は「何をしてほしいのか」と言われました。二人は、自分たちがイエス様の弟子にしてもらっているだけでは満足せずに、イエス様が王になられた時には、「一人を右に、もう一人を左に座らせてください」などという厚かましいお願いをいたしました。イエス様がこれから何をしようとされているのか、全く無理解な、身勝手なお願いでありました。

それに比べると、バルティマイは、ともかくイエス様が自分の声に耳を貸してくださったということだけで、喜びの絶頂に立っているのです。もちろんイエス様は、盲人にとって、目が見えるようになることが望みであることはご存知の上で問われているのであります。

イエス様はここで、<もう、あなたの信仰の目、霊の目が開かれたのだから、肉体の目は開かなくてもよいのではないか>とはおっしゃいません。イエス様は私たちの魂の主であるとともに、肉体の主でもあり給います。主イエスは私たちの霊と肉を共に顧みられるお方であります。

バルティマイは、問われるままに、思い出したかのように、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えます。

5.あなたの信仰があなたを救った

そこでイエス様はバルティマイに、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とおっしゃいます。イエス様はここで、「目が見えるようになりなさい」とはおっしゃっていません。「行きなさい」と言っておられます。そのお言葉の中に、目が開かれるということも含まれているのでしょうが、もはや目が見えるか見えないかよりも、新しい生き方を始める方が大事であるかのような言い方であります。じっと座って、人の慈悲に頼っているのではなくて、もう自分で立って行ける、だから新しい生き方を歩み出しなさい、とおっしゃっているようであります。そして、イエス様の御言葉に従って、盲人は、すぐ目が見えるようになりました。そして、イエス様に従う新しい生き方を始めるのであります。

ところで、「あなたの信仰があなたを救った」とは、どういう意味でしょうか。イエス様は、必死でイエス様を呼び求めた姿の中に、バルティマイの信仰を見出されました。しかし、そのバルティマイの信仰の力、信心の強さで、目が見えるようになった、ということでしょうか。

バルティマイはもちろん、自分を救ったのはイエス・キリストの力である、と考えたでしょう。私たちもそう考えます。ところが、イエス様はそうはおっしゃいません。「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるのであります。イエス様の力はどうでもよくて、人間の信仰の強さこそが大切だ、ということでしょうか。

もちろん、そうではありません。「信仰が救った」とは、信仰があればイエス・キリストは不要だ、などという意味ではありません。信仰とは、イエス・キリストに対する信仰であり、生きて働いて下さるキリストが、そこにおられたからこそ、救われたのであります。

イエス様は、バルティマイのなりふりかまわない叫びの中に、正にイエス・キリストに対する信仰を聞き取られました。バルティマイの叫びは、人混みの中でかき消されそうになりました。少々差し障りのある彼の言い方は、大勢の人々によって遮られそうになりました。しかし、それを聞き逃してしまわれなかったのはイエス様であります。

バルティマイの叫びというのは、何の希望も持てない状況の中から、ただ何とか脱出したい、という一心の叫びでありました。それは、立派な高い信仰からは程遠いものであったかもしれません。しかし、イエス様は、哀れなバルティマイの叫びを信仰だと認めて下さいました。イエス様は、バルティマイの熱心だがあぶなっかしい信仰を、きっちりと捉えて、この「あなたの信仰があなたを救った」というお言葉によって、確実なものに仕上げて下さったのであります。私たちは、バルティマイの声の大きさや求める思いの激しさによって癒されたと思ってはなりません。主が、バルティマイの叫び中に、信仰を創り出されたのであります。

信仰とは、私たち人間の側の求めの大きさや熱心さのことではありません。信仰とはキリストの力を感じ取って、それを自分のものとすることであります。バルティマイは、少々身勝手であったかもしれない、常識的な人からすれば少々乱暴であったかもしれないが、イエス様の力が自分を癒して下さる、自分の状態を変えて下さる、と捉えたのであります。だからこそ、人に叱られようと、遮られようと、叫び続けたのであります。しかし、そのバルティマイの叫びを聞き取り、取り上げて、確実な信仰へと導かれたのは、イエス・キリストであります。イエス様が「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言ってくださらなければ、彼は本物の信仰を持つことができなかったでしょうし、目が見えるようにはならなかったでしょう。このイエス様の言葉によって、彼の心の目を開かれたのであります。それによって、肉体の目も開かれたのであります。

私たちもまた、イエス様の目から見るならば、この盲人の哀れな男と少しも変わらないのではないでしょうか。私たちの周りには私たちがイエス様のもとへ近づくのを妨げる色々な障害があります。私たちの心の目が色々なものに遮られていて、キリストがどこにおられるのか、はっきり見えていないということもあるかもしれません。自分は、それほど哀れな存在ではないとか、自分なりに後ろ指を射されない人生を歩んでいるという自負が、キリストを求める思いを起させないでいるのかもしれません。また自分が抱えている困難な問題は、信仰などという不確かなものでは解決しない、あるいは自分の肉体に刺さった棘などは、高尚な信仰による癒しの対象からは外れている、などと思い込んでいるのかもしれません。

しかし、キリストは私たちの叫びや祈りを、決して聞き逃されるお方ではありません。私たちは大胆に声を上げるべきであります。祈るべきであります。いくら祈っても、聞き入れて下さらない、という嘆きがあるかもしれません。けれどもキリストは私たちの祈りを聞いておられないのではありません。ただ、今問題であると私たちが感じていることの解決だけが、本当の救いではないからであります。キリストは「信仰があなたを救った」と言えるときを、待っておられるのであります。というより、まず私たちの心の目を開くために、このように私たちを礼拝に導いて、キリストとの出会いの場を用意して下さっているのであります。私たちはまず、キリストときっちりと向かい合うべきなのであります。そしてイエス様の言葉に耳を傾けるべきなのであります。

結.イエスに従った

・今日の箇所の最後に、盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った、と書かれています。バルティマイは「行きなさい」というイエス様の言葉を聞いて、目が見えるようになったことを喜びながら、どこかへ行ってしまったのではありませんでした。これからエルサレムに向かわれるイエス様に従ったのであります。

おそらく、バルティマイはエルサレムで十字架にお架かりになるイエス様を見たのではないでしょうか。それは、バルティマイのこれまでの苦しみとは比べ物にならない、お苦しみでありました。それは全ての人の罪を一人で担っておられるお苦しみでありまいた。そのお苦しみを見て、バルティマイの心の目はもっとはっきりとイエス・キリストを見ることが出来たのではないでしょうか。

イエス様は、ただバルティマイの目を見えるようにして、平安な普通の生活ができるようにされただけではありません。イエス様の弟子となるという新しい生き方を備えて下さったのであります。聖書にこのように名前まで記して、この出来事が書き残されたのは、聖書が書かれた頃(紀元70年頃)まで、バルティマイの名が教会の中で知られていたからであろうと言われています。

・キリストは私たちに対しても、ただこの世における幸せを備えようとしておられるのではなくて、イエス様に従って行く新しい生き方のために、そして、やがて神の国に加えようとして、私たちと出会って下さっているのであります。このキリストの御心をしっかりと受け止めて、心の目を開かれ、信仰に生きる者とされ、真の救いに入れられる者とされたいと思います。
・祈りましょう。

祈  り
・憐れみ深いイエス・キリストの父なる神様!

今日、私たちを御許に呼び寄せて下さって、イエス・キリストの御心の一端に触れることが出来ましたことを感謝いたします。

私たちの思っていること、望んでいることを遥かに越えた御心をもって私たちに出会っていて下さるキリストの前で、私たちはただ跪くほかありません。

どうか、私たちのまどろみがちな目を、いつも目覚まして下さい。どうか、信仰をもって、あなたに付き従って行くものとならせてください。

今日の恵みの機会を得ることが出来なかった方々をも、憐れんで下さって、またの機会を備えて下さいますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所伝道礼拝説教 要 旨          2007年9月30日  山本 清牧師 

 聖  書:マルコによる福音書10:46−52
 説教題:「信仰があなたを救う」
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