序.パウロの逮捕が意味すること

・先週学んだ、すぐ前の箇所にはこんなことが書かれていました。伝道先からエルサレムに着いたパウロがヤコブを訪ねたところ、<ユダヤ人のクリスチャンの中には、パウロが「律法を守るな」と教えているという者がいるので、その誤解を解くために、誓願を立てている者たちと一緒に神殿に行って、清めの儀式に参加して、彼らの頭をそる費用の負担をしてくれないか>、という提案がありました。パウロはその提案に従って、四人の誓願者と共に、神殿に行きました。

・パウロ自身は、かつては律法を厳格に守る人間でありましたが、キリストに出会って、律法から解放された、自由な生き方が出来る人間に生まれ変わったのでありますが、クリスチャンになっても律法に定めた習慣から離れられない人たちを躓かせないために、そして異邦人教会とエルサレムのユダヤ人教会の間のわだかまりを解消するために、パウロは敢えて、律法に従って神殿に行ったのでありました。

・しかしこれは、パウロにとっては大変危険なことでありました。というのは、クリスチャンでないユダヤ人たちが、パウロを捕えて殺そうと考えていたからであります。神殿には、そうしたパウロを憎しと思っている人たちが大勢いる筈であります。

・けれどもパウロは、自分の身の危険よりも、教会の中の一致を大切に考えて、神殿での儀式に参加したのであります。パウロは、教会のため、また、まだ弱い信者のために、自分の自由を犠牲に出来る自由を持っていました。

・ところが今日の箇所では、案の定、パウロを憎しと思うユダヤ人たちに見つけられ、捕えられてしまいます。自由を束縛されてしまうのであります。自由だけでなく、命までも奪われそうになるのであります。

・しかし騒ぎが大きくなって、エルサレムの治安に当たっておりましたローマの守備隊が出動して来て、パウロは兵士たちによって鎖で縛られることになります。これは、リンチを加えようとするユダヤ人の手から保護するということでもありますが、ローマ兵の兵営に連れて行かれるのであります。こうしてパウロは自由の身ではなくなるのであります。

・福音によって自由を与えられたパウロが、ここでは自由を奪われるという事態に立ち至ったわけでありますが、これは福音伝道の行き詰まり、或いは、福音の自由の敗北を意味するのでしょうか。――今日は、パウロの逮捕というこの事件に込められている神様の御心が何処にあるのかを聴き取りたいと思うのであります。

1.ユダヤ人たちの誤解

さて、誓願を立てている人たちの清めのための七日の期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけました。ちょうど五旬節の頃でしたから、各地から巡礼者が神殿に来ていたのでありますが、その中に「アジア州から来たユダヤ人たち」がおりました。これはおそらく、エフェソから来た人たちだと思われます。というのは、29節を見ますと、彼らはエフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのをみかけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである、と書かれていますようが、このトロフィモというのはパウロに同行して来た各教会の代表者の一人として、前に名前が挙がっていた人(20:4)で、同じエフェソの人なので顔に見覚えがあって、町でパウロと一緒にいるのを見かけたのですが、今パウロと一緒に清めの儀式をしている人を、そのトロフィモと思い込んで、異邦人を神殿の境内に連れ込んだのは怪しからん、と思ったのであります。

神殿にはユダヤ人しか入れない内庭と、その外側に、異邦人でも入れる外庭(「異邦人の庭」と呼ばれる)があって、その境目の柵には、「外国人が内庭に入ると、死刑に処せられる」ということを書いた掲示板が掲げられていたそうです。それなのに、パウロは、そういう律法を無視して、わざと異邦人を内庭に入れていると誤解して、群衆を扇動したのであります。

28節を見ると、彼らはこう言っております。「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシャ人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」

パウロは「律法を無視しろ」などと教えたことはないのですが、先週の箇所にありましたように、キリスト者のユダヤ人でさえ、そのように誤解したくらいですから、パウロを憎んでいるユダヤ人たちには、パウロがわざと律法に違反して、神殿を汚そうとしている、と見えてしまいました。このように、パウロを憎しと思う心から、憶測が生まれ、誤解を生じてしまったのであります。

2.捕えられたパウロ

彼らの呼びかけで、町中が大騒ぎになり、民衆は駆け寄ってきて、パウロを捕えてしまいます。群集心理というのは恐ろしいものであります。<パウロが本当に律法を無視するように教えたのか>、また、<パウロと一緒にいるのが本当にギリシャ人なのかどうか>を確かめもせずに、エフェソからやって来たユダヤ人たちに扇動されて、パウロを捕らえてしまいました。

私たちも人の噂や、声の大きい人の言うことに惑わされてしまうことがあります。新聞やテレビで報じられる見方は、一部の意見であるに過ぎないのに、皆がそう思っているかのように受け取ってしまうことがあります。冷静に客観的に物事の真実を見ないと、集団的に大きな過ちを犯してしまう例が、ここにもあります。

彼らはパウロを境内から引きずり出しました。これは彼らがパウロをリンチにかけて殺害しようとしたからで、神聖な神殿の境内を血で汚すことは避けようと思って、外へ引きずり出したのであります。門をどれもすぐに閉ざしたと書かれているのは、神殿の境内が群衆の乱入で汚されるのを恐れた神殿の警備に当たっていた者が門を閉鎖したのでありましょう。こうして、パウロはもう少しで民衆の手によって命を断たれかねない、危機一髪のところまで来ていました。

このように町中が混乱状態に陥っているという報告が、守備大隊の千人隊長のもとに届きました。当時、ローマの守備隊は神殿区域の西北に接したところにあるアントニア城砦と呼ばれている所に駐留していました。ちょうど五旬節の時でありましたから、警備のために千人隊長もそこで指揮を執っていたのであります。その城砦と神殿の外庭との間は、一旦騒ぎが起こったときにはすぐに対応できるように、階段で結ばれていたようであります。

知らせを受けた千人隊長は直ちに兵士と百人隊長を率いて、その場に駆けつけました。群衆は千人隊長と兵士を見ると、パウロを殴るのをやめました。自分たちが騒乱罪で捕らえられかねないからであります。千人隊長は近寄ってパウロを捕らえて、二本の鎖で縛るように命じました。これは、パウロが何か違反をしたと断定したからではなくて、騒ぎの原因になっているので、一旦身柄を確保したということであります。

そして、パウロが何者であるのか、また、何をしたのかと尋ねました。これはパウロ本人に尋ねたのではなくて、群衆に尋ねたのであります。しかし、群衆はあれやこれやと叫び立てていて、千人隊長は騒々しくて真相をつかむことができないので、パウロを兵営に連れて行くように命じました。

35節によると、パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担いで行かねばならなかった。大勢の民衆が、「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たからである、と書かれています。主イエスが総督ピラトの裁判を受けられたた時も、群衆は主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。その時と同じように、民衆はパウロを殺せと叫びます。しかし、この時は兵士たちがしっかりとガードしていました。

・こうして、パウロは鎖で縛られる身とはなりましたが、殺害されるのは免れることが出来ました。もしかすると、町の中の人通りのない少ない所で襲われて、消されてしまっていた可能性もあったのでありますが、たまたま神殿のすぐ外の公の場で襲われたので、ローマ兵の保護のもとに置かれて、ローマ皇帝の配下の裁判官のもとで裁きを受けることになったのでありまして、結局、最終的にはローマへ行くことになるわけであります。これは、神様の不思議な導きがあったと言わざるを得ません。

・パウロは、イエス・キリストによって律法から解放されて、自由な者となりました。しかし、エルサレムの信者たちを躓かせないために、律法に従う自由も持っていました。そしてそのために命を失ってもよいと思って、堂々と神殿に出向く自由も持っていました。自分たちの憎しみに囚われて自由を失っていたユダヤ人たちは、パウロを自分たちの自由で亡き者にしようとしましたが、神はそれをお許しにはなりませんでした。神様はローマの権威を用いて、救い出して、パウロをローマへと導かれるのであります。

3.パウロの弁明へ

・さて、37節以下を見ますと、パウロは兵営の中に連れ込まれる前に、千人隊長に「ひと言お話ししてもよいでしょうか」とギリシャ語で言いました。すると千人隊長は「ギリシャ語が話せるのか」と驚いて尋ねます。これはどういうことかと言うと、38節で千人隊長自身が言っているように、最近、エジプト人による反乱事件があって、パウロがその首謀者ではないかと疑っていたからであります。その事件というのは、この時から3年ほど前なのですが、あるエジプト人が預言者だと自称して、信奉者を集めてオリブ山に連れて行きました。そこで彼は、いずれエルサレムの城壁が崩れ落ちるので、その時まで、待っていて、崩れ落ちたら直ちに城内に進軍して、ローマの守備隊を打ち破って、エルサレムをローマの支配から奪還するのだ、と命じたのであります。そこで、ローマ総督は軍隊を派遣して、彼らの何人かを殺したのですが、首謀者のエジプト人は抜け目なく行方不明になったという事件であります。千人隊長は、この事件の首謀者が見つけ出されて、民衆によって吊るし上げを受けているのかと思ったのであります。だから、パウロがエジプト語を話すのではなくて、当時の教養ある知識人の言語であるギリシャ語を話すので驚いたのであります。

・そこでパウロは言います。「わたしは確かにユダヤ人です。キリキ  ア州のれっきとした町、タルソスの市民です。」――パウロの生まれたタルソスは小アジアとシリア地方を結ぶ通商路の拠点でありますし、学問的にもレベルの高い町であって、ローマの支配下にありましたが、自治を許された「れっきとした町」でありました。その町でパウロの家はローマ市民権を得ていたのですが、この時にそのことまで言ったとは書かれていませんが、千人隊長はパウロの出身地を聞いただけで、変な男ではないことが分かったのでありましょう。

・パウロが続けて、「どうか、この人たちに話をさせてください」と頼みますと、千人隊長は許可したので、パウロは階段の上に立って民衆を手で制しながら、すっかり静かになったところで、ヘブライ語で民衆に話し始めました

・このパウロの弁明の内容は次回に取り上げさせていただきますが、パウロはただ自分が間違ったことをしていないということを弁明したいために発言を求めたのではなくて、パウロはユダヤ人を愛しているのであります。自分も皆さんと同じく律法を大切にするユダヤ人であるのだけれども、イエス・キリストという方に出会って、律法の束縛から自由にされたのだ、ということを、どうしても同胞のユダヤ人たちに話したかったのであります。このようにしてパウロは、自分を敵視し、殺そうとしている人にも、何とかして福音を知ってもらいたいと、話し始めるのであります。ここには、自分の命を失うことに対しても自由であり、ローマの権力者からも自由であって、ただ福音にのみ捕らわれたキリスト者の姿があります。

私たちはどうでしょうか。私たちは、自分を憎んだり、敵視する者に対して、憎しみから自由になって、その人のためにも何とか福音を伝えたいと思えるでしょうか。自分を持ち上げてくれたり、自分が支配できる者に対しては、気持ちよく付き合えますが、自分の意に従わない者、自分の思い通りにならない者に対しては、心を自由に開いて、その人のためになることをすることが、なかなか出来ないというのが正直なところであります。

しかし、キリスト者は、自分が神様にさんざん楯突いて、神様の御心に反抗して、神様を苦しめた者であるのに、神様はそのような自分を裁き去らずに、愛し抜いて赦して下さる、自由なお方であることを知っています。だから、そのことを思い起こす時には、憎しみや妬みから、私たちも自由にされます。本当の自由とは、自分の思い通りに人を支配することではありません。自分を殺し、人のために自分を捨てることの出来る自由さのことであります。それは、福音にしっかりと捕らえられている時にのみ、可能となることであります。

結.人間の計画を越えて

・しかし、パウロの逮捕という事件によって私たちが今日聞かなければならないことは、パウロの自由な信仰の態度だけではありません。この出来事の中には、神様の大きな御計画と導きの御手があることに気付かなければなりません。

・その第一は、エルサレムの教会のユダヤ人信者たちは、パウロが神殿に行って命がけで、律法に沿った清めの儀式に参加したことがわかって、パウロに対する疑いの心が解けただけでなく、異邦人教会との間の確執についても、また、律法に対する頑なな態度からも自由にされるきっかけとなったのではないでしょうか。

第二は、律法に拘わって福音を受け入れることが出来ないユダヤ人の誤りが、一層明らかになったことであります。パウロが神殿の境内から引きずり出されて、神殿の門が閉ざされたということは、そのことを象徴的に示しているように思われます。もはや、神殿に行って動物の犠牲を献げることによって罪が赦される時代がキリストの十字架によって終わって、神殿のこれまでの役割が閉じた、ということであります。パウロは神殿の外の、兵営につながる階段で人々に福音を語ることになります。もはや、罪の赦しの福音はどこででも語られる時代になったのであります。エルサレムだけではなく、世界の教会で福音が語られる時代へと変えられたのであります。

そのことは既に、パウロを初め、多くの伝道者たちの働きによって始まっておりましたが、パウロにとっては、この時の出来事がきっかけとなって、念願のローマ行きの道が開かれることになるのであります。これは、正に逆境の中で主によって備えられた道であります。この頃既に、福音はローマにまで達していましたが、パウロが行くことによって、ローマがやがてキリスト教会の中心地となる基礎が固められることになるのであります。

このように、人間の目には逆風と見えたり、行き詰まりと見えたり、敗北と見えたりすることの中にも、神様は御自分の計画を進めておられるのであります。このことはパウロの時代だけではありません。今の教会の困難な歩みの中にも、神様は着々と救いの御計画を進めておられることを信じたいと思います。また、私たち一人一人の歩みも然りであります。神様は、私たちが詮方尽きたと思われる時に、私たちが思いもしなかった新しい道を開いて下さるのであります。そのことを信じて、たとえ解決困難な問題が山積しているように見える中にあっても、主に全てを託し、希望を持って歩みたいと思うのであります。
・祈りましょう。

祈  り

・愛と力に満ち給う父なる神様!

今日も私たちのために、パウロの出来事を通して、何ものにも遮られることのないあなたの愛と力を仰ぎ、あなたの救いの御計画が着々と進められていることを信じることが許されて感謝いたします。

どうか、この米子伝道所の歩みも、神様の大きな御計画の中にあることを信じて、私たちの小さな力を捧げて仕える者とならせて下さい。

・どうか、この所において、御名が崇められ、御国が来たらされますように。救いの出来事が次々と起されますように。

・弱さを覚えている者、あなたをまだ信じられないでいる者を顧みてくださり、あなたを見上げて、力と希望を与えられますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨               2007年9月23日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録21:27−40
 説教題:「主の備え給う道」
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