「わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」            (使徒言行録212324

 パウロたち一行がエルサレムに着いて、エルサレム教会の代表であるヤコブや長老たちに、パウロたちの伝道旅行を通して、神が異邦人の間で行われた目覚しい御業を説明すると、これを聞いて、人々は皆神を賛美した。だが、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者の中には、パウロが律法を守らないように勧めているとの誤解が広がっていたので、長老たちから標記のような提案がなされた。
 キリスト者になるということは、イエス・キリストの十字架の赦しによって、かつての律法に縛られた生活から自由にされることであるが、そのような新しい生き方を徹底できない「弱い人」がユダヤ人キリスト者の中にいたからである。パウロのような「強い人」にとって、誓願の際の清めの儀式はもはや意味のないものであり、パウロが神殿に出かけることは、パウロの命を狙っているユダヤ人たちに襲われる危険が待っていたが、パウロは「弱い人」を躓かせないために、敢えてこの提案に従うことにした。
 私たちの教会の中にも、信仰的に「弱い人」もいる。私たち自身の中にも、信仰に徹底できない弱さがある。そうした生ぬるい信仰を厳しく弾劾するのが必要なこともある。しかし、信仰の弱い人を軽蔑したり、上から叱りつけるだけでは、その人は救われない。主イエスも、天上から地上の私たちを見下ろしておられただけでなく、私たちと同じ人間となって地上に来られ、人間の弱さを担い、御自身の命まで差し出して下さった。私たちも、自分の正しさを主張し、何ものにも縛られない自由を誇るだけでなく、弱い人のところまで降りて行って、その弱さや束縛を共に担い、自らをへりくだらせる自由も必要なのである。パウロは言う、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」(Tコリント9:19)と。

 米子伝道所主日礼拝説教 要 旨           2007年9月16日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録21:17−26
 説教題:「律法を守る自由」                 
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