米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2007年9月16日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録21:17−26
 説教題:「律法を守る自由」
                説教リストに戻る

序.強い人と弱い人

・クリスチャンになることは窮屈なことだ、と考える人がいます。クリスチャンになると、せっかくの日曜日でも朝寝坊が出来ないし、遊びに出かけることもままならない。何かにつけて、生活が縛られる。自由奔放な生き方が出来なくて、人生の選択の幅が制限されるような気がする、というように思って、尻込みする人は案外多いのかもしれません。

・しかし、そのように思っている人が本当に自由かと言うと、決してそうではなくて、人は誰でも、この世の生活をしているうちに色々な束縛の中で、自由を奪われています。自分の過去に縛られています。人間関係に縛られています。習慣や制度の束縛があります。他人の目に縛られています。金や地位に縛られています。様々な縛りで、雁字搦(がんじがら)めになっていると言えるのではないでしょうか。そして、何よりも自分の思い通りにならないのは、私たちの内側にある欲望とか、利己心であります。更に言うならば、罪であります。罪が私たちを縛り付けています。

・自由と言うならば、この罪からの解放がなければなりません。

・神の民であるユダヤ人は、この罪の問題と向き合って来ました。神様はユダヤ人に十戒を初めとする律法を与えて、神様に従う、自由で喜ばしい生活を約束されました。ところが人々は、与えられた自由を自分勝手に用いて、神様の御心を蔑ろにし、悪に走り、神様の裁きを免れることが出来ないところまで行ってしまいました。しかも、ユダヤ人は、律法を誇りとし、割礼のないものを蔑み、細かい律法の規定を作って、自分たちはそれを守っている正しい者だと自負していたのであります。それは罪の奴隷となった、全く自由を失った状態でありました。
・そのような状態を神は憐れんで、主イエス・キリストを遣わして、

十字架と復活によって罪を赦し、罪の奴隷状態からの解放を実現して下さったのであります。

・この恵みの福音を受け入れて、イエス・キリストを信じる信仰による救いを与えられた者は、罪の奴隷から解放されて新しい自由な生き方を始めました。パウロは、生粋のユダヤ人としての教育を受けた者として、初めは、この新しい救いの福音を受け入れることができませんでしたが、劇的な主イエスとの出会いによって、律法に囚われない、信仰による新しい自由な生き方へと生まれ変わったのでありました。

・しかし、同じく福音を受け入れたユダヤ人クリスチャンの中には、かつての律法に縛られた生活から完全には抜け出すことが出来ず、割礼を誇りとして、古い習慣や儀式を続けている者もあったのであります。

・聖書の中に、「強い人」「弱い人」という表現があります。「強い人」というのは、パウロのように、キリストへの信仰を得て、律法による古い生活をきっぱりと捨てて、信仰による新しい自由な生き方を徹底できた人のことであります。一方、「弱い人」というのは、キリストの救いを受け入れながらも、それまでの習慣やこの世のものへの執着を捨てきれない人のことであります。

・異邦人で異教から改宗した人の中には、かつて拝んでいた偶像に供えられた肉が市場で売られていると、それを食べることにためらいがある人がいたことが、コリントの信徒への手紙(Tコリント10:25)に書かれていますが、ユダヤ人で福音を受け入れた人の中にも、律法に縛られていた時の生活習慣を捨てきれない人がいたのであります。そういう人を「弱い人」と呼んでいるようであります。

・私たちキリスト者の中にも、「強い人」と「弱い人」がいます。

 きっぱりとクリスチャンとしての信仰生活を徹底できる人と、異教的な習慣を捨て切れなかったり、困難な問題にぶつかった時に、神様に委ね切ることが出来ずに、この世的な力にも頼ってしまう人がいます。これは誰が「強い人」で、誰が「弱い人」であると仕分けをしようというのではありません。一人の信仰者の中にも、強い面と弱い面が同居していることを認めざるを得ません。救われたと言っても、本当の自由と解放を得ていない現実があります。

・今日の聖書の話に入る前に、なぜこんな話を長々としたかと言うと、今日の箇所の中で、パウロのとった態度を理解するのに、必要であるからであります。けれども、ここに書かれているようなことは、当時の特殊事情ということではなくて、今の私たちの群れの中にもあることであり、私たち自身の中にもあることですから、昔のこととしてではなく、私たち自身の問題として、聞いて行きたいと思うのであります。

1.エルサレムに上った目的と覚悟

パウロの第三次伝道旅行の終盤で、パウロたちはエルサレムに向かいました。エルサレムでは投獄と苦難が待ち受けているということを聖霊が何回も告げていて、命さえ奪われかねない危険が待っていましたが、パウロにはどうしてもエルサレムに行かなければならない使命がありました。

それは、具体的には、各地の異邦人教会から寄せられた献金をエルサレムの貧しい信徒たちのために届けるという使命でありました。それだけならば、何も危険を侵してまでパウロ自身が届ける必要もなかったかもしれませんが、先週もお話しましたが、当時、異邦人教会とユダヤ人中心のエルサレムの教会との間が、必ずしもしっくり行ってなかったので、この問題の解決がキリストの体なる教会の形成のために、非常に重要だとパウロは考えていたからであります。献金を届けるということは、その解決のための具体的な行為の一つに過ぎません。

17節を見ていただきますと、パウロたちの一行がエルサレムに着くと、兄弟たち(=教会の信徒たち)は喜んで迎えてくれたようであります。一行の中には各地の異邦人教会の代表もいたわけですので、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との集団的な出会いが初めて実現した瞬間でもあったと思われます。

翌日、パウロは一行を連れて、エルサレム教会の代表者であるヤコブを訪ねました。このヤコブというのは、主イエスのご兄弟のヤコブであります。主イエスが地上におられた間は、このヤコブは弟子の仲間には加わっていませんでしたが、主の復活の後は、ペトロやヨハネと共に初代教会の中心的な人物になっておりました。そこには、長老と呼ばれる指導者たちも皆集まっていました。この時は、ペトロやヨハネの名が出てきませんので、地方に出かけていて留守だったのではないかと推測されます。

パウロたちがヤコブを訪ねた直接の目的は、互いに顔を合わせて挨拶することと、預かって来た献金を届けることであったと思われますが、同席していた筈の筆者のルカは献金のことには触れておりません。当然のことなので書き漏らしたのか、この時は挨拶と報告が主な目的で、献金は後日届けたのかもしれません。いずれにしろ、エルサレム教会にはユダヤ人の迫害によって経済的に困っている信徒がたくさんいたようでありますから、献金は大いに役立ったと思いますし、異邦人教会が決して勝手気ままに歩んでいるのではなくて、エルサレム教会のことも覚えていることの証しとして、異邦人教会とエルサレムの教会を結びつける絆となった筈であります。

2.神が異邦人の間で行われたこと

パウロが挨拶を済ませてからしたことは、自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明することでした。

献金のことも大切なことでありましたが、何よりも福音が異邦人の間でどのように受け入れられ、各地の教会がどのように育っているかということは、神様の恵みを具体的に知ることのできる大切な事柄であります。ここにはたった一行しか書かれていませんが、これまでルカが記して来たようなことを縷々(るる)説明したことと思われます。各地でユダヤ人による迫害がありました。地元の異教の人々の抵抗もありました。コリントなどでは、教会の内部で困った問題が次々に発生しました。しかし、パウロをはじめ、いわば「強い人たち」が、そうした困難にひるむことなく立ち向かって、勝利を得たのであります。

これを聞いて、エルサレム教会の人々は皆神を賛美したと書かれています。主イエスが言われた「エルサレムばかりでなく、ユダとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)との約束が、着々と進められていて、福音が異邦人の間でも勝利しつつあることを確信して、神様への賛美が沸き起こったのでありましょう。

3.熱心に律法を守っているユダヤ人信者

・このような異邦人伝道の成果を聞いて、エルサレム教会の長老たちは率直に喜び、神様に感謝したのでありましょうが、一方、自分たちの内部の人々が、このことをどう受け止めるか、という心配がありました。そこで、すぐさまエルサレムの長老たちから一つの懸念が示されました。20節の後半からであります。

 「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。いったいどうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。」2022節)

・エルサレムには、ユダヤ人で信者になった人が数万人もいて、その人たちは皆、熱心に律法を守っている、というのであります。クリスチャンになっても、以前と全く同じように律法に縛られた生活をしていたということではないかもしれませんが、律法が生活習慣の中に染み付いていたでしょうから、そこから完全に決別するような生き方は出来ないでいたということでありましょう。先ほどの言葉で言えば、「弱い人」たちが多かったということであります。

パウロが異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して「子供に割礼を施すな」とか「慣習に従うな」と言ったというのは、明らかに誤解であります。パウロは、救いを受けるために割礼は必要でないということを主張し、異邦人に割礼を強制しないよう求めて、使徒会議でもそのことが認められました。しかし、ユダヤ人にも「割礼を施すな」とは言わなかった筈であります。また、モーセとは律法のことを指しますが、パウロは「律法を実行することによっては、義とされない」(ローマ3:20)とは言いましたが、決して律法から離れるように教えたことはありません。しかし、律法に拘りを持っているユダヤ人たちには、パウロがいかにも律法を軽んじているように受け取られたのでありましょう。

4.清めの儀式への協力
 ・そこで、そうしたパウロに対するユダヤ人たちの誤解を解くために、
 ヤコブや長老たちの方から一つの提案が出されたことが、
23節以下に
 記されています。

「だからわたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」2324節)

・この提案には少し解説が必要ですが、「誓願」と言われているのは、「ナジル人の誓願」と呼ばれるもののことだと思われますが、これは先ほど朗読しました民数記6章にありましたように、何事かの誓願をした場合に、短くても三十日の間、酒を断ち、不浄なものを避け、髪をそらないで伸ばしたままにするのであります。誓願の期間が終わりますと、神殿に行って、髪を切って、それを犠牲の献げ物とともに献げるのであります。身を清めるというのは、この人たちが律法上の汚れがあったので、清めの儀式を受けなければならなかったのだと思われます。儀式に要する費用については、貧しい人のためには、裕福な人が肩代わりするという慣習があったようであります。この儀式にパウロも一緒に行って、頭をそる費用を負担すれば、パウロも律法を軽んじていないということの証明になる、というわけです。

この提案にパウロは歯痒い思いをしたに違いありませんが、ここは忍耐と思って、提案を受けて、さっそく翌日に、パウロはその四人の誓願者を連れて行って、一緒に清めの儀式を受けて神殿に入ったのであります。

十字架による罪からの清めを信じている者には、神殿における清めの儀式や贖いの供え物は、もはや意味のないものであります。しかし、長らくこうした習慣を重んじて来た人たちを躓かせることはパウロの本意ではありません。これはパウロが妥協した、というようなことではなくて、信仰の弱い者への配慮であります。別に、異教の神を拝むわけではありません。かつてはパウロも行って来たことであります。誓願を立てるというようなことは、パウロ自身も第二次伝道旅行の際に行っていたことが記されていました。もはや、神殿での儀式には意味がありませんが、神に対して何らかの誓願を立てるということは、決して悪いことではありません。十字架による罪の清めということを強調するためには、神殿での儀式の無意味さを説くのが本筋ではありますが、十字架の贖罪ということも、神殿での動物の献げ物による贖罪の伝統の上に立って理解されるものであります。ですから、ユダヤの伝統がまったく意味がなかったというわけではなくて、それも神様の作られた伝統であったのであります。すでに、キリストの十字架と共に、その伝統は必要がなくなったのでありますが、ここはまだ信仰の弱い人たちがたくさんいるエルサレム教会のために、敢えて儀式を受けることに協力したのであります。教会の一致のためには、こうした配慮も必要だということであります。

パウロが神殿に行くということは、ユダヤ人キリスト者のためには、パウロが律法を否定しているのではないということを示す意味がありましたが、一方ではパウロの命を狙っているユダヤ人たちがいたわけですから、五旬祭のために大勢のユダヤ人が来ている神殿に行くことは危険なことでありました。事実、このあと来週に学ぶ27節以下では、パウロがユダヤ人たちに見つかって、捕らえられることになるのであります。そのような危険を承知の上で、敢えて弱い人たちへの配慮のために、またエルサレム教会との一致のために、パウロは神殿に入ったのであります。

結.弱い者と共に

・冒頭で申しましたように、私たちの教会の中には、信仰的に弱い人もいるわけであります。私たち自身の中にも、信仰に徹底できない弱さがあります。歯がゆい思いがいたします。時にはそうした生ぬるい信仰を厳しく弾劾する必要があるかもしれません。

・しかし、自分は正しい信仰をもっているからと言って、信仰の弱い者を蔑んだり、上から怒鳴りつけるだけでは、その人は救われないのであります。あるいは、強い者が上の方にいて、弱い者が自分で上がって来いと言って待つだけでは、救われないのであります。強い者は、自ら下っていって弱い人と共に歩むことも必要なのであります。

イエス・キリストも、天の上にいて、地上の私たちを見下ろしながら、あれこれ指示を出されたとのではなくて、御自身が私たちと同じ人間の姿をとって地上に来て下さり、人間と一緒になって弱さを担って下さったのであります。そして弱い者のために、御自身の身を削って、命を差し出して仕えて下さったのであります。

私たちが主イエスと同じことを出来るわけはないのですけれども、私たちも、自分の正しさを主張しているだけではなくて、また自分が信仰のゆえに何ものにも縛られない自由をもっていることを誇るだけでなく、弱い人のところまで降りて行って、その弱さや束縛を共に担い、自らを謙らせる自由、人に仕える自由も必要なのであります。

マルティン・ルターの書いた有名な「キリスト者の自由」という本があります。その冒頭に二つの命題が掲げられています。

 一つは、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」というものでありますが、もう一つの命題は、「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」というのであります。

 パウロもコリントの信徒への手紙一9章19節以下で、こう言っております。(p311)お開き下さい。

 「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」1923節)

 私たちもまた、強い人になるだけではなくて、弱い人にもなれる自由
 な信仰者でありたいと思います。みんながお互いのために弱
い人にな
 って、仕え合うときに、教会は強い教会に成長するので
ありましょう。
・祈ります。

祈  り

私たちを罪の奴隷から解放して自由な身として下さったイエス・キリストの父なる神様!この素晴らしい自由を感謝いたします。

しかしながら私たちは、しばしばこの世のしがらみの中に身を埋めてしまいがちであります。どうかあなたの与えて下さる自由な命に生きる者とならせて下さい

どうか、すべての人がこの自由に入れられますために、必要ならば私たちを用いて下さい。諸々の力に押さえつけられて、自由を失っている弱い人のために、自らの自由を捨てて仕えることの出来る者とならせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。