米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2007年9月2日  山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録20:25−38
 説教題:「恵みの継承」

序.涙の別れにあたって

・使徒言行録によって御言葉を聴いて来ておりまして、今日は先ほど2025節からの箇所を朗読いたしましたが、これはパウロが第三次伝道旅行の終盤で、船が停泊したミレトスにおいて、エフェソの教会から長老たちを呼び寄せて行なった「別れの説教」の後半部分であります。

・説教の前半は18節から始まっておりまして、そこでは、パウロがアジア州に来た時からの働きを思い起こさせながら、「主に仕える」ということがどういうことであるかを教えたあと、これからエルサレムに向かうのだが、そこでは投獄や苦難が待ち受けているとの示しを受けているが、自分としては、神の恵みの福音を証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません、との心境を語っておりました。

・そして、今日の25節の前半を見ますと、そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています、と述べております。パウロはアジア州やマケドニア州で集めた献金をエルサレムの貧しい信徒たちに届けたあと、ローマに行きたいと思っていましたし、更には西の果てにありますイスパニア(スペイン)にまで行きたいと思っていました。だから再び、エフェソの教会を訪れることは出来ないということもありますし、それ以前に、待ち受けている投獄や苦難によって、自由を奪われたり、命を失うかもしれないということが十分に考えられたのでありましょう。

37,38節を見ますと、説教を聞いた人々の様子が書かれていますが、人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した、特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだと記されています。キリスト者には天国での再会の望みがあります。しかし地上の別れは悲しいのであります。

・このパウロの説教の中では、「涙」という言葉が二回出てきました。19節の「涙を流しながら・・・主にお仕えしてきた」という所と、31節の「夜も昼も涙を流して教えてきた」という所ですが、パウロは、自分が遭遇した試練や、信徒たちに襲いかかる間違った教えに涙することが多かったのであります。そして今は、もう地上では二度と会えないという悲しみの涙が流されています。

・このように、パウロの説教は大きな悲しみのうちに行われたのでありますが、パウロが語っております中身は、決して悲しみや恐れに捕らわれたものではなくて、むしろ喜び確信に満ちたものでありました。今日は、この別れの説教の中に貫かれている喜びと確信を聴き取って、私たちもまた、信仰の確信を与えられたいと思うのであります。

1.血の責任

まず、25節の後半からを御覧ください。こう言っております。  わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。25b〜27節)

ここでパウロは、「だれの血についても、わたしには責任がありません」と言っております。「血」というのは命を表すものであります。ですから「血が流される」ということは「死」を意味します。つまりパウロは「誰の死についても、わたしには責任がない」と言っているのであります。こう言うのには、旧約聖書の背景があると思われます。エゼキエル書331節以下(p1349)を御覧ください。

主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。わたしがある国に向かって剣を送るとき、その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣に臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。16節)つまり、角笛を鳴らして警告しても、それを受け入れずに剣を受けて死んだら、警告を受け入れなかった本人に責任があるのであって、警告を与えた者には責任がない、と言われています。

そのように、パウロは人々に対して十分に警告をして来たのだから、それを受け入れなかった人が死んでも、自分には責任がない、と言うのであります。エゼキエル書では肉体的な死の責任のことを言っているのでありますが、今パウロが「血の責任」ということで言おうとするのは、霊的な命の死の責任のことであります。

ここでパウロは、責任逃れをしようとしているのではありません。あるいは、自分がアジア州でしてきた伝道活動に自己満足しているということでもありません。パウロが言いたいことは、<自分が宣べ伝えて来た御国のこと、またひるむことなく伝えた神の御計画自体が、確実なことであり、決定的なことであるから、それを聞いた以上、受け入れないために救いに入れられないなら、それは聞いた者の責任である>、ということであります。

ここで「御国」とか「神の御計画」と言っているのは、24節で「神の恵みの福音」と言っていたことと同じであります。つまり、主イエスの十字架と復活の福音のことであります。

私たちはここで、パウロが「血の責任」というような血なまぐさい言い方をしていることに注意しなければなりません。私たちはイエス・キリストの福音を、自分の命に関わることとして聴いているか、生きるか死ぬかに関わることとして聴いているか、ということが問われているのではないでしょうか。礼拝に来て、御言葉を聴いても、講演会のお話しを聞くように、成る程と思うだけで、生き方や生活が変わらなければ、命の言葉を聴いたことにはなりません。

もっとも、御言葉を語ると言っても、理解できるように語ることが出来るか、心に響き魂に届くように語れるかどうかについては、語る者の責任がないわけではありません。しかし、イエス・キリストによって成された御業そのものには、何の修飾や飾りつけも必要ありません。それを自分自身のための御業であったと受け入れるかどうかが問われます。それは聴く本人の責任であります。

しかし、御言葉を受け入れるということは、ある意味で恐いことであります。それは悔い改めないでは聴けないからであります。生き方が変わらなければ、聴いたことにならないからであります。しかし、救いの御言葉を受け入れて、本気で御言葉に自分の一切を委ねることが出来るならば、そこには何ものにも揺るがされない平安が約束されています。

私たちは、教会の働きに不安になることがあります。こんな伝道の仕方でよいのだろうか、うまく語れていないのではないか、熱心さが足りないのであろうか、と恐れます。そういう反省をすることや、熱心に祈り・働くことも必要ではあります。しかし、パウロが言うように、福音が間違いなく語られてさえいるならば、誰の血についても、教会には責任がないのであります。御言葉を受け入れるかどうかは、本人の責任なのであります。あとは、御言葉自体が人を生かし、人を救うのであります。

2.神の教会

次に、28節を御覧ください。ここから勧めが語られます。

どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。

パウロは去って行きます。今後、エフェソやアジア州の群れを養うのは、残された長老たちであります。ここでは「監督者」と言われていますが、同じことです。この頃はまだ教会の職制の呼び方が確立していませんでした。どちらも、今の牧師や長老や執事に当たる、教会の指導者たち全般を指していたようであります。

しかし、ここでパウロが勧めていることは、牧師や長老・委員だけが聞いておけばよいということにはならないと思います。以前にも申しましたように、伝道所が独立教会になるための要件として、「日本キリスト教会憲法・規則」では二項が挙げられています。一つは経済的に自立できるか、ということですが、もう一つは長老を選挙し、小会を組織できるか、ということです。これは長老になれるような人が一人や二人いてもダメだ、ということでありまして、ここでパウロが勧めているようなことに合致する会員が少なくとも数名は必要だということになります。それは言い換えれば、ここでパウロが勧めているようなことは、会員の多数が自分たちのこととして受け止められるような教会でないと、独立教会にはなれないということでもあります。ですから、この伝道所が独立教会を目指すというなら、このパウロの勧めを自分の事として聴かなければならない、ということになります。牧師や一部の人が引っ張って行ってくれるだろうという、お客さんのような気分の人ばかりでは、しっかりとした教会形成は出来ないということであります。

パウロの最初の勧めは、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」ということであります。教会の指導者(中核的なメンバー)には、気配りが必要だというのです。気配りと言いましても、ただ、よく気が付くとか、面倒見が良いということではないでありましょう。原文では、「群れ」と言った後ですぐに、「群れ」である教会とはどういうものかが説明されています。それは、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」であります。教会は御子イエス・キリストの血によって、贖い取られて神のものとされた群れであります。だから教会には大牧者であるイエス・キリストがおられます。この大牧者のもとで、その御心に従って羊たちの面倒を見るのが、ここで長老とか監督者と言われている人たちであります。自分たちの考えや力量で会員を指導したり、育てていくというのとは違うのであります。

ですから、まず「あなた自身に気を配ってください」と勧められています。先ほど聴きましたように、まず、一人一人が神の恵みの前に責任を持って立っているか、福音を本気で受け入れているか、ということが問われます。それが自分に対する気配りです。

その上で、群れ全体が、神様の御計画、神の恵みの福音に立っているかどうかの気配りをするように、ということであります。

教会には様々な方がおられて、色々な悩みや問題を抱えた方もおられます。そうした方々の面倒を見るということも大切な働きであります。しかし、ただの面倒見と違うのは、その人の神様との関係がどうなっているのか、という気配りが根底にないといけない、ということであります。教会は福祉施設ではありませんし、人間的な温かさや思い遣りだけで癒しを与える所でもありません。神様の前で自らの罪を認め、イエス・キリストの血の贖いによる赦しによる、根底からの癒し(救い)を与える所であります。そのための気配りが皆に求められているということであります。

3.目を覚ましていなさい

・そのような意味で、最も気配りが必要な点が次の29節から31節にかけて勧められています。

 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現われます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

「残忍な狼ども」というのは、間違った教え(=邪説)を唱える人たちのことであります。当時は神学や教義が確立していなかったので、こういう危険は大きかったと思われますが、今はそういう危険は少ないかというと、決してそうではなくて、教理を曲げようとする誘惑は色々な所にあります。伝道が思うように進まない時が、一番危険であります。福音を受け入れやすいように曲げたり、自分たちの働きで見える成果が上がることを奨励したり、聖霊を強調して感情を鼓舞するようなやり方であります。そういう誘惑は、外からやって来るとは限りません。内部に不満がくすぶったり、恵みが覚えられなくなった時に、内側から起こって来ます。牧師が一番誘惑にかかりやすいとも言えます。その根本は、十字架の福音を本気で信じられなくなることから起こります。十字架の福音を語っているだけでは足りないのではないか、という疑問から崩れるのであります。

もし、教会に力がなく、伝道が進まないとしたら、本当は十字架の福音に力がないのではなくて、十字架の福音を信頼して、その約束にしっかりと耳を傾けていないからであります。自分の生活や生き方のすべてを、そこから聴き出そうとしていないからであります。

・パウロは言います。「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。」パウロは異なる教えになびいて行く人たちのために、涙を流しつつ手紙を書いたり、訪ねたりしたことは、これまでにも学んで来ました。教えた内容は、パウロの手紙として、聖書に残されていますが、一言で言えば、24節に書かれているように、「主イエスからいただいた、神の恵みの福音」であります。本当の救いはここからしか起こらないし、伝道の確実な進展はこれを伝えることによってしかない、ということに、いつも目覚めて、確信を持っていることが大切であります。

4.恵みの言葉に委ねる

次の32節の言葉は、この別れの説教の中でパウロが一番言いたかったことではないかと思います。

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。

・ここを間違っても、<神様の恵みの言葉をあなたがたに委ねます >と言っていると読んではなりません。御言葉を、教会の長老・監督者と言われる人たちが守って行かねばならないのではありません。逆であります。御言葉自体が、信徒や長老たちを造り上げ、聖なる者とするのであります。そして、御言葉自体が、教会の中に、また信徒の一人一人に、恵みを受け継がせることが出来るのであります。だから、パウロは今、「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」と語るのであります。

パウロは今、エフェソをはじめアジア州の諸教会の人々を置いて去らなければなりません。この先、教会がどうなるのか、狼どもに掻き回されるのではないか、心配の種は山ほどあります。

しかし、パウロたちが伝えた恵みの御言葉がある限り、そして、その恵みの言葉が思い起こされ、目覚めて聴かれている限り、神の恵みは受け継がれて行く、と確信しているのであります。だから、神と恵みの言葉とに委ねるならば、御言葉が教会を造り上げるのだから、何の心配もない、ということであります。

これは、私たちにとっても大きな慰めであり、励ましではないでしょうか。私たちも、この伝道所の行く末について、心配の種は尽きません。高齢化が進む中で、将来の独立教会を支える人材は育つのだろうか、という心配があります。一人一人の信仰生活の状態を見ても、まだ安定しているとは言えない人も多くいらっしゃいます。他人事ではなく、自分自身の信仰のあり方を見ても、これでやっていけるのかと、不安になることがあります。もし、サタンが教会を内側から、あるいは外側から揺るがしたならば、一溜まりもなく崩れてしまうのではないか、と思ってしまいます。

しかし、私たちの頼りない力で教会を支えるのではないのです。神の恵みの御言葉が、私たちと教会を造り上げるのであります。御言葉の力を信頼し、御言葉に委ねている限り、教会は崩れることはないし、むしろ造り上げられ、更に恵みの言葉が次の世代へと受け継がれて行くのであります。

結.受けるよりは与える方が幸い――十字架の人生

・パウロの説教の最後の部分、33節から35節までの部分は、主題 が急に変わっているように見えます。ここでは、パウロがテント造りの仕事をして、教会の人々に経済的な負担をかけないでやって来たことを述べた後、「受けるよりは与える方が幸いである」という主イエスの言葉を思い出すように勧めています。

・この主イエスの言葉は非常に有名で、この箇所だけでも一回の説教が出来るくらいであります。

しかし今日は、ここまでのパウロの説教との繋がりの中で、この説教の結論の勧めとして、この部分を聴きたいと思います。

「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉は、<人から何かを貰ったり、世話になるよりは、人に何かを与えたり、人の世話をする方が、幸せな気持ちになれる>、というような意味に受け取られて、親切運動や福祉活動を奨励する言葉のように受け止められ勝ちでありますが、主イエスが言わんとされたことは、そんな余裕の中から人助けするような事柄ではなくて、人のために自分の身を削って仕えるようなことを言っておられるのでありまして、主イエスの十字架を指し示す言葉であります。主イエスは正に、自分の誉れや栄光を受けるのではなくて、私たちのために自分の命を与えて下さったのであります。

パウロもまた、自分の身を削って、福音のため、教会のために仕えて来ましたし、これから行くエルサレムでは身の危険さえ待ち受けているのであります。24節の最後では、「この命すら決して惜しいとは思いません」とも語っておりました。人々から何かを受けるというよりも、福音を人々に与え、命さえ与えるばかりの生き方をして来たのでありますが、そのような、主に仕え、人に与える生き方が「幸いである」と言いたいのであります。そして、そのような生き方を、エフェソの長老・監督者たちにも勧めているのであります。

32節の終わりの「恵みを受け継がせる」という言葉の原語を直訳すれば、「恵みの言葉は遺産を与える」となります。つまり、これまではパウロが恵みの言葉をエフェソの人々に伝え、与えて来たのでありますが、これからは、エフェソの教会の人々が受けた恵みの言葉を、更に他の人々に与える立場になるわけであります。それも、身を削って与える役割を担うことになるのであります。そこに、本当の幸いがある、と言いたいのでありましょう。

私たちもまた、御言葉の恵みを受けた者(受けている者)たちであります。まず、そのこと自体、大きな「幸い」として感謝しなければなりません。しかし、私たちの周りには、この恵みをまだ受けていない人々が多くいらっしゃるのであります。また、35節に、「弱い者を助けるように」とありますが、これは、経済的に苦しい者とか、社会的に弱い立場にある者、あるいは身体的に弱い者も含みますが、それだけではなくて、信仰的に弱い者を指していると思います。御言葉を聞いていても、その恵みを受け取れないでいる人たちであります。その恵みを受けることが出来れば、経済的、社会的、身体的な弱さも乗り越えることが出来ます。そのような恵みの御言葉を、私たちが与えることが出来るとすれば、これに勝る幸いはないではないか、ということであります。

私たちは今日、パウロの別れの説教を通して、エフェソの長老たちと共に、そのような本当に幸いな生き方へと招かれているのであります。
・祈りましょう。

祈  り

 ・恵み深い父なる神様!

主イエス・キリストが御自身を私たちのために献げて下さった恵みを感謝いたします。

私たちは、人に与えることが出来るようなものは殆ど持ち合わせておりませんが、あなたからいただいた御言葉の絶大な恵みを人に与えることが出来ます。どうか、この大きな幸いに生きる者とならせて下さい。
重荷を負って喘いでいる方々もまた、御言葉の恵みを受け止めて、幸いな人生を歩むことが出来るように、お導き下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。