主はアモツの子イザヤを通して、命じられた。「腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け。」彼はそのとおりにして、裸、はだしで歩き回った。            (イザヤ書20:2)

 預言者イザヤは、主から標記のように命じられて、裸、はだしで三年間歩き回った。これは戦いに敗れて捕虜になった者の姿を表す「象徴行為」であり、具体的には、強固に見えたエジプトやクシュ(エチオピア)がアッシリアの支配を受けて、恥をさらすことになることを暗示するものであった。そのエジプトやクシュに望みをかけていたユダの民も、「恐れと恥をこうむるであろう」5節)と、主は告げられた。
 この警告の真意は、この世で頼り甲斐がありそうに見えるものに心を寄せるのではなく、<神にこそ助けを求め、望みをかけよ>ということである。詩編の詩人も、「あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません」(詩編25:3)と歌っている。
 では、なぜ神は私たちに恥を負わされないのか。それは、「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び・・・」(ヘブライ12:2)とあるように、キリストが私たちの受けるべき恥を負って下さったからである。
 更に主は、イザヤに命じられたように、私たちキリスト者にも、「裸、はだしで歩き回る」ことを命じておられるのではないか。自分に誇るべきもの、飾るべきものは何も持たず、ただ主を誇り、ただ主に頼る生き方こそ、この世に生きるキリスト者に相応しい預言者的な生き方ではないだろうか。     

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2007年8月26日  山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書20:1−6
 説教題:「何に望みをかけるか」           
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