米子伝道所主日礼拝説教 要 旨               2007年8月26日 山本 清牧師 

 聖  書:イザヤ書20:1−6
 説教題:「何に望みをかけるか」

序.不安の中で

・私たちの人生には、不安がつきものであります。大きな可能性を持っている若い頃であっても、自分なりの人生を築いて来た壮年の時でも、行く先が見えてきた老年になっても、不安と恐れは私たちに付きまとっています。

・健康にも恵まれ、経済的にも安定し、仕事も順調、家庭もうまく行っているということであっても、それがいつまでも続く保証はないわけで、不安から免れることは出来ません。

・まして、体や心に弱さがあったり、経済的に不安定であったり、仕事や家庭がうまく行っていないと、心配事はどんどん拡大して不安は募ります。

・社会全体も上り調子の時は、色々な希望や夢が語られますが、最近のように、諸々の歪が顕在化し、周辺諸国との間にも軋轢があり、地球環境も悪化の一途を辿っているというようなことになると、将来に夢を描くことが出来ないで、不安が増して参ります。

・そんな中で、私たちは何とか不安を解消し、安心を得ようと努力いたします。自分の体を鍛える努力、自分の知識や能力を高める努力、コツコツと働く努力、人間関係や国際関係を改善する努力、環境を守る努力など、様々な努力を試みます。更には、楽しみを求めて、趣味や娯楽の道に没頭したり、精神的な安定を求めて、宗教の道に精進するということもあるでしょう。

・しかし、私たちが不安や恐れの中に埋没している時には、何が本当に頼り甲斐があるのかを見極めることが難しくなります。手軽な手段や見た目で力強いものに頼り勝ちであります。人の噂や反乱する情報にも流されてしまいます。

・預言者イザヤの時代も、これまでも学んで来ましたように、強国アッシリアの脅威のもとで、不安な時代でありました。その中で何を頼りとするのかが問われました。

・今日の箇所には、イザヤが神様から奇妙な命令を与えられたこと が記されています。それは、「腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け」という命令でした。今日はこの箇所を通して、私たちが不安な中で、本当に頼り甲斐があるものは何なのかということを聴き取りたいと思うのであります。

1.アッシリアの脅威の下で

さて、時代はアッシリアの王サルゴンに派遣された将軍がアシュドドを襲った年のことであります。既に北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされておりました。ここに出て来るサルゴン王というのは、その北王国滅亡直後の紀元前722年から705年まで王位にあったサルゴン二世のことでありまして、当時の南王国ユダの王はヒゼキヤでありました。

アシュドドというのは、聖書の後ろの「4統一王国時代」の地図を見ていただきますと、下の方の地中海寄りの所にあります。これはペリシテの五つの都市の一つであります。ここをアッシリアのサルゴン二世によって派遣された将軍(軍司令官)が襲って、占領したのであります。それは紀元前711年のことであります。

なぜアシュドドが滅ぼされたかというと、アシュドドは西の大国エジプトの支援を受けて、モアブやエドムと共に反アッシリア同盟を組んだためであります。ところが頼みのエジプトは助けに来てくれなかったばかりか、エジプトに逃げたアシュドドの王をアッシリアのサルゴン王に引き渡してしまうのであります。

南王国ユダはどうしていたかと言うと、大きな不安の中で、反アッシリア同盟に加わるか、アッシリアの支配下に入るか、心が揺れたのでありますが、結局ユダはアッシリアに貢ぎ物を贈って、表面上は忠誠を誓っていましたので、アシュドドと同じように滅ぼされることは免れたのであります。

しかし、アシュドドが滅ぼされ、エジプトも頼みとならないという現実の中で、不安は去りません。ヒゼキヤ王は何とかアッシリアの影響力から独立したいという願いを持って、ユダの内部の改革に取り組んだり、エルサレムの水路整備を行ったりして、好機を伺っておりました。

2.裸、はだしで

さて、2節を見ますと、こう書かれています。

それに先立って、主はアモツの子イザヤを通して、命じられた。「腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで歩け。」彼はそのとおりにして、裸、はだしで歩き回った。

「腰から粗布を取り去り、足から履物を脱いで」、「裸、はだしになって歩く」、というのは、戦いに敗れて捕虜になった者の姿を表しています。預言者は神様の御心を言葉で語るだけでなくて、このように姿や行為で神様の御心を表すことがありました。こういう行為のことを「象徴行為」と言います。例えば、エレミヤはエルサレムの民の前で、陶器の壷を砕くように命じられました。それは、エルサレムの都が陶器の壷のように砕かれて元には戻ることが出来なくなることを示していました。

ここでイザヤが「裸、はだしで歩き回った」のは、具体的には3節で主御自身が言われているように、エジプトとクシュ(エチオピア)に対するしるしと前兆としての象徴行為でありました。

ところが、それは何時のことを指しているのか、ということになると、解釈が分かれます。冒頭に「それに先立って」とありますが、原文を見ますと、単純に「その時」となっています。口語訳聖書ではそのように訳されていました。そのまま素直に読むと、イザヤが「裸、はだしで歩く」ように命じられたのは、アシュドドが占領された時、ということになります。そうすると、アシュドドが滅ぼされたように、やがてエジプトやクシュも滅ぼされて捕虜になる時が来る、ということを示していることになります。

ところが、この共同訳聖書では「それに先立って」と訳し変えています。そうすると、アシュドドがアッシリアに占領されるのに先立って、ということになります。3節を見ると、イザヤは主の御命令に従って、裸、はだしで三年間歩き回ったとありますから、アシュドド占領の三年前に主の命令があったと読めることになります。実際、アシュドドが占領された時、アシュドドの王はエジプトを頼って行くのですが、エジプトはアシュドドの王をアッシリアのサルゴン王に引き渡してしまうのであります。エジプトも頼りにならなかった、ということであります。しかし、その時にエジプトやクシュが滅ぼされたわけではなくて、アッシリアがエジプトを征服するのは、これから約40年後のことですから、ここでは、アシュドドの占領の時から、イザヤの象徴行為が始まったという解釈で読んで行きたいと思います。

3.エジプトとクシュの恥

時点の解釈は別にして、ここでイザヤの象徴行為が示していることは、4節で主御自身の言葉として語られているように、頼りになると思われたエジプトやクシュも、やがてアッシリアの捕虜や捕囚になり、若者も老人も、裸、はだしで、尻をあらわし、エジプトの恥をさらしつつ行くことになる、ということであります。

・私たちは既に、イザヤ書18章で、クシュ(エチオピア)に対する審きの言葉を聞きました。身体能力に優れたエチオピア人は、一時はエジプト地域全体をも支配するほどに勢力を伸ばしており、ユダの国にとっても頼り甲斐があるように見えていましたが、やがてアッシリアとの戦いに敗れ、元のクシュの地域まで撤退することになるのであります。

・イザヤ書19章では、エジプトへの審判が告げられていました。エジプトは強大な軍事力を有し、高度の文明も発達した西の大国であります。アッシリアの脅威のもとで、頼り甲斐があるように見えました。しかし、神様は、「エジプトの偶像はよろめく」と言われました。事実、エジプトはアッシリアの支配を受けたり、バビロニアに敗れたり、ペルシャに鎮圧されたりして、遂にはアレキサンダー大王によって征服されることになるのであります。力と文明を誇ったエジプトも、結局は捕虜になって「裸、はだしで、尻をあらわす」ように、「恥をさらす」ことになるのであります。

それは、クシュやエジプトの恥であるに留まりません。5節ではこう言われています。彼らは自分たちの望みをかけていたクシュのゆえに、誇りとしていたエジプトのゆえに、恐れと恥をこうむるであろう。ここで「彼ら」とは、クシュ人やエジプト人自身というよりは、彼らに望みをかけ、彼らを誇りとして、反アッシリア同盟に参加していた国々の人々、もっとはっきり言うならば、ヒゼキヤ王を初めとするユダの人々であります。頼り甲斐があるように見えたクシュやエジプトが、かえってユダの人々に恐れと恥をもたらすことになるのであります。

私たちも、世情の不安が増す中で、頼りになりそうに見えるものに心を寄せ勝ちであります。現代のクシュとかエジプトとは何でしょうか。国で言えば、経済力・軍事力の大きい国の傘の下にいるのが得策に見えます。企業で言えば、世界的な大企業や花形のIT産業で働くのが安心であるように見えます。学校で言えば、有名大学に入れば、将来が約束されるように見えます。何事も大きいこと、力の強いことが、頼り甲斐に見えます。しかし、大国が正義とは限りません。優良企業も巨大資本にあっさりと乗っ取られかねない時代であります。有名大学を出ても社会でよい仕事が出来るとは限りません。大きいもの、力のあるものが安定しているとは限りません。望みをかけていたもの、誇りとしていたものが、脆くも崩れ去り、恐れと恥をこうむることになりかねないのが現代の競争社会であります。

そんな社会評論的なことを言ってみてもあまり意味がないかもしれません。私たち自身の生活において、何に望みをかけ、何を誇りとして生きているかということを振り返った方がよいかもしれません。信仰者であっても、結局は、経済的な安定、健康な体、波風のない人間関係といったものが、安心や誇りの根拠になっているのではないでしょうか。それらが少しでもうまく行かないと不安や恐れが募るのであります。「賢い」と言われる人は、それらがなるべく揺るがないように、色々な手立てを用意しています。しかし、経済的安定も健康も人間関係も、ちょっとしたことで、崩れやすい脆いものであります。思いがけず、私たちの目論見がはずれ、不安と恐れに襲われることがあります。その時に信仰が問われます。平穏な時には信仰深そうなことを言ったり、それなりの信仰生活をしていても、頼りにしていたものが崩れるときに、本気で神様を信じていたのかどうかが顕わになります。

6節ではこう言われています。その日には、この海辺の住民は言う。「見よ、アッシリアの王から救われようと助けを求めて逃げ、望みをかけていたものがこの有様なら、我々はどうして逃げ延びえようか。」「海辺の住民」というのは、海沿いのペリシテ人だけではなく、ユダの人々も含む、反アッシリアの人々でありましょう。ユダの民は信仰の民であり、ヒゼキヤ王は列王記によれば、ユダの王の中では信仰篤い王として描かれています。しかし、アッシリアに抵抗するために、恐らくエジプトやクシュの応援を期待したのでありましょう。それに対してイザヤは<望みをかけていたものが、裸、はだしで歩き回らなければならない状態になったら、どうして逃げ延びることが出来るのか>と警告するのであります。

イザヤの警告はそこで終っています。しかし、イザヤの言いたいことは<エジプトやクシュに頼ってもだめだ>ということだけではないでありましょう。イザヤが本当に言いたいことは<神にこそ助けを求めよ、神にこそ望みをかけよ>ということであります。

私たちもまた、自分がうまく行っている時は、自分を過信し、自らを誇って神様の恵みを忘れます。逆に一旦窮地に陥ると、今度は、頼り甲斐があるように見えるものに頼ろうとします。そこでも神様を見失い勝ちであります。先ほど朗読いただいたコリントの信徒への手紙にありましたように、「だれも人間を誇ってはならない」(Tコリント3:21)のであります。自分であろうと、力がありそうに見える人であろうと、人間を誇るときには、行き着く先は「恐れと恥」でしかありません。「誇る者は主を誇れ」(Tコリント1:31)と言われている通りであります。

4.恥をもいとわず

詩編25編を御覧下さい。ここには、<主に望みをおく者は誰も恥を受けることがない>と、歌われています。

 主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み/わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように、敵が誇ることのないようにしてください。あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。15節)

・人の力を誇りとし、この世の力に望みをかける者は、恐れと恥に行き着かざるを得ません。しかし、神は私たちに恥を負わされることはありません。――それはなぜでしょうか。

・その鍵はイエス・キリストにあります。先日学んだヘブライ人への手紙には、このような言葉がありました。12章の1節以下を読みます。こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことをよく考えなさい。(ヘブライ12:13

・ここに、「主イエスは・・・恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」と言われています。主イエス・キリストが、私たちの受けるべき恥を負って下さったのであります。だから、この主イエスを私たちに与えて下さった父なる神こそ、真に信頼出来るお方であります。恐れと恥から私たちを解放して下さるお方であります。

結.恥をさらしつつ

・最後にもう一度、イザヤの姿に着目したいと思います。イザヤは主に命じられて、「裸、はだしで歩き回り」ました。それは、エジプトやクシュの人々が捕虜になって、裸、はだしで、恥をさらして歩かなければならなくなることを表す象徴行為でありました。しかしそれは、ただエジプトやクシュの運命を予告するためではなくて、ユダの民が、神に頼ることを忘れていることに対する警告であり、神こそ、真に頼れる存在であることを示す行為でありました。

・このイザヤの姿は、この世におけるキリスト者の姿を示しているとも言えるのではないでしょうか。

この世の中の人々は、不安な現代社会の中で、頼り甲斐があるように見える様々なものに、心を寄せています。それは、お金であったり、科学技術であったり、武力であったり、人脈であったり、学歴であったり、健康な体であったりします。

その中でキリスト者も、同じように、そうしたものに頼ろうとするのではなく、主はイザヤに命じられたように、私たちにも、「裸、はだしで歩き回る」ことを命じておられるのではないでしょうか。

「裸、はだしで歩き回る」とは、自分には誇るべきものも、飾るべきものも何も持たず、ただ主を誇り、ただ主に頼る生き方であります。主の捕虜になったような生き方であります。それは、この世にあっては、恥をさらすような生き方であるかもしれません。しかし、私たちは身をもって、主なる神こそが本当に頼り甲斐があるお方であることを証ししなければならないのではないでしょうか。それが、この世に生きるキリスト者に命じられた務めであり、キリスト者の預言者的な生き方なのではないでしょうか。

キリスト者であると言いながら、この世の人々と同じように、お金に頼ったり、知識や学歴に頼ったり、武力や権力に頼ったり、健康な体に頼ったりしているならば、それを見ている人は、そのキリスト者を見て、神様が本当に頼り甲斐があるお方であると信じているとは見ないでありましょう。

もし私たちが、そのようなこの世の人々が誇りとし、頼り甲斐としているものを持ち合わせていないとすれば、むしろそれは幸いであります。主イエスは「貧しい者は幸いである」とおっしゃいました。貧しい者は、神様に頼るほかないからであります。神様以外に頼るものを持たない生き方、「裸、はだしで、恥をさらしながら歩き回る」ような生き方――それが、終わりの日に照準を合わせた、キリスト者に相応しい生き方なのではないでしょうか。
・祈ります。

祈  り

憐れみ深い父なる神様!

私たちは、あなたの支えを忘れたり信じられなくて、諸々のこの世の力に頼ろうとする愚かを繰り返して、不安や恐れから抜け出せないでいる者であります。

そのような者に、今日も、イザヤの捨て身の行為と言葉によって、私たちの愚かさを示して下さり、また主イエスが十字架の上に恥をさらして下さったことによって、あなたこそ私たちを守り、支えて下さる、憐れみに満ちたお方であることを覚えることが出来、感謝いたします。

どうか、私たちを襲う様々な不安の中にあって、あなたを見失うことがありませんように。どうかまた、信仰を与えられた者として、身をもって、あなたを証しすることが出来るようにさせて下さい。

・今、弱さを覚えて不安な中にある人たちが、どうかあなたを真正面に見据えることによって、不安から解放されますように。目を逸らさせようとするサタンの手から救い出して下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。