自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。                       (使徒言行録201920

 標記は、パウロが自らの体験を通して、「主に仕える」とはどういうことかを語ったものである。第一は、「自分を全く取るに足りない者と思い」と語っているように、実際、不安と恐れの中で、自分の力のなさを痛感しつつ、ただ神のご指示に従って、与えられた場所で、命じられたことを行うことである。第二は、「涙を流しながら・・・試練に遭いながらも」と語っているように、教会の兄弟姉妹のために涙を流しつつ、自分の身にふりかかる迫害に忍耐をもって耐えることである。そして、そのような謙遜と涙と試練の中でずっとなし続けてきたことは、「役に立つこと」即ち「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」(21)とを、異邦人にもユダヤ人にも、力強く証しすることであった。
 パウロはこれからエルサレムに向かう。そこでも、投獄と苦難が待ち受けていることを聖霊によって告げられた。だがパウロは言う。「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(20:24)と。これは勇ましい特攻精神のようなものではない。パウロがこれから進もうとしている道は、人が指図した道ではなく、自分で切り開く道でもなく、神が決められた道であり、与えられた任務は、自分や特定の集団の利益や誉れのためではなく、神の恵みの福音を証しするという、全人類の救いのための最高の務めである。彼が惜しいと思わない「命」とは「人生」と置き換えることが出来る。私たちも、生涯を通して、キリスト者として、日々の生き方を、主の御手に委ねつつ、主に用いられることを第一にして生き続けることが出来れば、最高の生き方である。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2007年8月19日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録20:13−24
 説教題:「この命すら」                   
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