パウロは降りて行き、彼の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている。」そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。
                    (使徒言行録
201011 

 パウロがトロアスの町に七日間滞在した間、一回だけ礼拝の機会があった。「週の初めの日(日曜日)」は、当時はまだ休日ではなく仕事日であったが、仕事を終えてから「階上の部屋」に集まり、主日礼拝が行なわれていた。パウロは、めったにない機会であったので、長い説教をして夜中まで続いた。窓に腰を掛けて聴いていた青年が眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちて、死んでしまった。
 この事件は、私たちの礼拝においても起こりかねないことを象徴的に示している。私たちは、疲れのため、仕事の都合上、病気のためなどによって、礼拝から脱落することがある。この事件は、礼拝からの脱落が命を落とすこと=死を意味することを暗示している。
 礼拝中に死亡事故が起こったことで、大騒ぎになったと思われるが、パウロは標記のように説教を中断して降りて行き、青年の上にかがみ込み、抱きかかえて言った。「騒ぐな。まだ生きている」と。これは「気を失っているだけで、まだ死んでいない」という意味ではないだろう。おそらく筆者である医者のルカも死亡を確認したであろう。しかし、パウロは、かつて主イエスが、死んだヤイロの娘に言われたように、この青年が生きていることを信じて、こう宣言したのである。こうして、青年は生き返って、礼拝は続けられ、パウロの説教も、パン裂き(聖餐)も行われた。人々はこの事件によって大いに慰められ、励まされたのである。
 礼拝は、御言葉から脱落した者が、もう一度、御言葉によって生き返るという出来事が起こる場である。眠りこけた魂が目覚めさせられて、新しい命に生き返るところである。主イエスは今日も、聖霊において私たちに寄り添って下さって、「まだ生きている」と言って、私たちを命へと甦らせて下さるのである

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2007年8月12日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録20:7−12
 説教題:「生き返る礼拝」                   
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