「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
             (ヘブライ人への手紙
12:5−6)

 神は愛のお方である筈なのに、どうして信仰を持つ者に苦難を与えられるのだろうか。苦難にはどんな意味があるのか。――この問に対する答えが、箴言3:1112を引用した標記の言葉である。肉の父が愛する子を鍛えるように、霊の父である主は、私たちを子として扱ってくださるが故に、苦難を通して、信仰を鍛えられるのである。
 その鍛錬の目的は「御自分の神聖にあずからせ」(12:10)、「義という平和に満ちた実を結ばせる」(11)ためであると言う。「神聖」とは神の本質を表わすもので、神以外に持つことが許されないが、神の聖さを映し出すことができるように、私たちを鍛え上げられるのである。「義」とは神の御心に沿う正しさのことであり、そこに本当の平和・平安がある。苦難の中で御心に沿い続けることによって、鍛え上げられた人には、本当の平安が実を結ぶのである。
 では、どうすれば主の鍛錬に耐えられる信仰を持つことが出来るのか。それは、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(2)、「定められた競走を忍耐強く走り抜く」(1)ことである。主は十字架の死を耐え忍ばれた(2)。それは私たちの罪のためであった。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(4)と言われている。これは、<私たちの戦い方がまだ甘い、もっと厳しい戦いがある>という指摘として聞くことも出来るが、上記との関連で読めば、<あなたがたは、あの十字架の主イエスほどに血を流す戦いをしないで済んでいるではないか。主イエスがあのように血を流して下さったのだから、あなたがたはもう主イエスのような戦いをしなくてよい。主は既に御自分の命まで差し出して、勝利を勝ち取って下さったのだ>と言われているのではないか。この主の苦難を見つめるならば、私たちの苦難が信仰を強めるための鍛錬であることが理解出来のである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2007年7月29日 山本 清牧師 

 聖  書:ヘブライ人への手紙12:1−13
 説教題:「主の鍛錬」                   
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