・・・金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロが、はるかかなたに見えた。・・・               (ルカによる福音書161931

 主イエスは、天の国について多く語られたが、地獄について語られることは、ほとんどなかった。これには理由がある。キリスト教の信仰は地獄に対する恐怖心からでなく、まったく価値のない自分に対する神の愛と恵みに応答して信じるからである。
 主イエスは地獄についてまったく触れなかったのではない。この金持ちと貧乏人ラザロの譬えは、神の国と対比しつつ地獄(陰府)について語っておられる。神には、人の罪を裁き、地獄に定める権威がある。裁き得る権威のない者には人を赦す権威もない。
 さて、この譬えは、金持ちと貧乏人ラザロとが死後にその生きる世界が逆転したという話である。金持ちについては、彼の羽振りのよさだけしか語られていない。一方、貧乏人は、貧乏であるだけでなく、病気にもかかっていた。ところが彼には「ラザロ」という名があったと言っておられる。その意味は「神はわたしの助け」である。この貧乏人は、神を信じ、神に慰めを見出して極貧の中を生きてきたのである。この信仰を抜きにして彼の人生を語れない。金持ちは神を自分の人生から完全に放り出して生きてきた。神を信じないことに何の痛みも感じていない。ところが、地獄にきて、信じていなかったことをその目で見ることになった。一方、ラザロは信じていたことをその目で見ることになった。信仰によって生前すでに神の国に入れられていたからである。
 イエス・キリストはわたしたちの人生に分水嶺をもたらされた。日本列島のほとんどの分水嶺は高い山の頂にあって、すぐに判別できるが、兵庫県氷上町の分水嶺は平地にあって、何でもない川の土手である。それが雨水をやがて日本海か太平洋かに分けてしまう。わたしたちの人生で、キリストを信じて生きるか、生きないかの差は見た目には小さい。しかし、結果の違いは大きい。(4月29日伝道礼拝 鈴木攻平牧師の説教より 文責:山本清)

米子伝道所伝道礼拝説教 要 旨      2007年4月29日 夙川教会 鈴木攻平牧師 

 聖  書:ルカによる福音書16:19−31
 説教題:「人生の分水嶺」              
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