金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。(ルカによる福音書1623

 主イエスは、「天の国は次のようにたとえられる」とか「神の国は次のようなものである」と言って地獄について語られることは、ほとんどなかった。そのためか、「キリスト教には、地獄というものがあるのですか」という質問を受けたりする。
 たしかに主イエスは地獄について積極的に正面切って語られることはなかった。これには、理由がある。キリスト教の信仰は地獄にいくのが恐ろしいから信じるというものではないからである。地獄に対する恐怖心からでなく、まったく価値のない自分に対する神の愛と恵みに応答して信じるのである。そのような信仰を神は受け入れてくださる。(参照・讃美歌350の1)
 それでは、主イエスは地獄についてまったく触れもしなかったかといえばそうではない。この金持ちと貧乏人ラザロのたとえは、神の国と対比しつつ地獄(陰府)について語っておられる。このことは大切である。
 神には、人の罪を裁き地獄に定める権威がある。裁き得る権威のない者には人を赦す権威もない。罪のない聖なる神のみが真の裁きと赦しを与えることがおできになる。
 さてこのたとえは、金持ちと貧乏人ラザロとが死後にその生きる世界が逆転したという話である。
 「ある金持ちがいた」とある。それにつづいて、彼の金持ち振りが記されている。羽振りのよさがよくわかる。しかし彼についてはこれだけしか語られていない。彼の人生を語るとしたら、これしかないということである。会堂に献金をし、町に寄付もしたであろう。金持ちであったからできたのである。
 一方、貧乏人は貧乏であるだけでない、病気にもかかっていたようだ。ところが、主イエスは彼には「ラザロ」という名があったといっておられる。その意味は「神はわたしの助け」である。たとえの中で登場人物に名があげられているのはここだけである。名は体をあらわすと言われるように、この貧乏人は、神を信じ、神に慰めを見出して極貧の中を生きてきたのである。この信仰を抜きにして彼の人生を語れない。
 金持ちは神を自分の人生から完全に放り出して生きてきた。神を信じていないことに何の痛みも感じていない。ところが、地獄にきて信じていなかったことをその目で見ることになった。
 一方、ラザロは信じていたことをその目で見ることになった。信仰によって生前すでに神の国に入れられていたからである。この事実が決定的であった。
 イエス・キリストは、天から降られ、わたしたちの生きている世界に神の国をもたらされた。わたしたちの人生に分水嶺をもたらされた。
 日本列島には、北の端稚内から南の鹿児島まで中央分水嶺が走っている。そのほとんどが、高い山の頂である。それはすぐに判別できる。しかしただ一個所、兵庫県氷上町で分水嶺は平地を走る。何でもない川の土手である。それが雨水をやがて日本海か太平洋かに分けてしまうのである。
 わたしたちの人生は、キリストを信じて生きるか、生きないかの差は見た目には小さい。しかい結果は大きい。
   (「夙川教会報」第16号に掲載された説教の要約から転載)

米子伝道所伝道礼拝説教 抄原稿     2007年4月29日 夙川教会 鈴木攻平牧師 

 聖  書:ルカによる福音書16:19−31
 説教題:「人生の分水嶺」
              説教リストに戻る