「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」                         (使徒言行録9:5b−6)

 サウロは正義感と使命感にあふれ、持ち前の行動力をもって、キリスト者を捕えようと、ダマスコへの道を急いでいた。そのとき突然、天からの光が彼を照らし、サウロは地に倒れた。目が見えなくなり、歩けなくなった。自信に満ちて、自分の力と信念で立って、走り回っていたサウロを、全てのものを刺し貫く光が打ち倒したのである。回心とは、自らの過去の歩みを点検し、一念発起して自分の生活態度を改めたり、熱心にキリスト教のことを勉強するなど、自分の熟慮や努力や精進の結果、行き着くものではない。なぜサウロが回心するに至ったか――、彼の生い立ちや背景や心の動きなどを分析してみても意味がない。回心とは、主が、傲慢な私たちの歩みにストップをかけられ、自分には見えていると自信を持っていた者が、見えなくされ、一人では歩けない者とされ、復活の主イエスと出会うことである。
 ところで、光に倒されたサウロは、すぐに標記のように、なすべき使命が知らされることになる。キリスト者を迫害し、キリスト御自身を苦しめて来た者が、その過ちのゆえに抹殺されるのではなく、新しい務めに召されるのである。ここに、主の赦しの愛がある。回心とは、主イエスの裁きを受け、自分の過ちを知らされるだけではなく、キリストの赦しの御人格と出会い、新しい使命を与えられ、甦りの命を生きはじめることなのである。礼拝は、私たちが気付かない間に苦しめていた主イエスに、御言葉において出会い、回心へと導かれる場である。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2006年9月10日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録9:1−9
 説教題:「回  心」                        
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