「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」           (使徒言行録7:38

 ステファノは最高法院での弁明の中で、エジプト脱出の指導者モーセについて標記のように語るのであるが、ステファノはこのモーセを通してキリストを指し示している。
 上記の「集会」という語は「教会」とも訳せる「エクレシア」という言葉が使われている。かつての荒れ野での集会が神の言葉をモーセから聞く場であったように、今の教会こそイエス・キリストによって語られた御言葉を聴く場である、と言いたいのであろう。
 また、「荒れ野」は、豊かな作物もなく、絶えず危険が待っていて、不安と恐れのうちに日々を過ごさねばならない所であり、いつも不信仰への誘惑に満ちた試練の場である。しかし、神の「命の言葉」を聴くことが出来るのは「荒れ野の集会」においてであって、壮麗な神殿においてではないのである。
 しかし、イスラエルの民は、モーセがシナイ山で律法を受け取っている間に、御言葉を待ち切れずに、若い雄牛の像を造って、それをまつっていた。私たちは、目に見えない神の約束の言葉よりも、目に見える成果を求めてしまう。だが神はイスラエルの民に「顔を背け、彼らが天の星を拝むままにして」(7:42)おかれた。この「ままにして」という語は、イスカリオテのユダがイエスを「引き渡した」という語と同じである。ここにイスラエルと全人類に対する神の審きがある。
 私たちは、目に見える偶像や、心の中に勝手に作り出した偶像に心を寄せるのでなく、神によって十字架へと引き渡されて、御自身が「命の言葉」となって下さったキリストに聴き、礼拝しなければならない。何の偶像もない、「荒れ野の集会(教会)」でこそ、命の言葉にあずかることができるのである。
   

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2006年7月16日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録7:36−43
 説教題:「偶像を拝む罪」               
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