「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。わたしたちは、彼がこう言うのを聞いています。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」           (使徒言行録6:13―14)

 ユダヤ主義者たちは偽証人を立てて、ステファノを標記のように訴えた。ステファノは聖なる場所(神殿の聖所)や律法をけなしたわけではないが、主イエスと同様に、ユダヤ主義者たちの形骸化した神殿礼拝と形式的な律法理解を批難し、キリストによる新しい礼拝が復活することを語ったために、彼らの反感を買ったのであろう。
 ステファノの批判は、教会の外部に対してだけではなく、キリスト者の中にも、神殿での礼拝を続けることによって、ユダヤ教との関係を十分に断ち切ることが出来ず、自分たちが行なう礼拝の意味が曖昧になっていた人たちがいて、その人たちにも向けられていたのではなかろうか。形の上では模範的なクリスチャンであっても、信仰生活が律法的になって、喜んで御言葉に従うことが薄れてしまうことが起こり勝ちである。生き生きとした信仰生活を続けることは、生涯の課題である。また、教会の礼拝自体が形骸化することとも、戦わねばならない。
 ステファノが敵対者たちと命をかけて戦うことが出来たのは、彼の能力とか熱心さによるというよりも、上からの「恵み」(8)を受け、「霊によって語った」(10)からである。
 偽証人の厳しい訴えを聞いた人たちは、ステファノに注目したが、「その顔はさながら天使の顔のように見えた」(15)。それは、神が共におられ、勝利を確信する顔である。義務的で、確信のない礼拝には喜びがない。しかし、キリストを見上げて、その勝利を確信している礼拝者の顔は、喜びに輝くのである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2006年6月11日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録6:8−15
 説教題:「恵みと力に満ちた人」                   
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