序.真実の愛はあるのか
今日のお話のテーマは“愛”であります。
“愛”は様々な人間ドラマを生み出します。“愛”をテーマにした小説 や映画やテレビドラマは無数にあります。「真実の愛」という今日のお話 と同じ題の映画も昨年公開されていたようです。画家のモディリアーニと 妻ジャンヌの愛を描いたドラマであります。
“愛”は美しいドラマを生み出す一方で、醜い悲劇も起こします。<人 を愛する>ということは、美しいことであり、心をときめかすことであり 、喜ばしいことであります。家族や恋人や友人を愛することは、生きがい であり、人生に充実感をもたらせます。
 ・しかし一方で、人に裏切られたり、躓いたりして、愛が行き詰まったり、断絶した時は、悲しみや苦しみをもたらせます。
“愛”の交流によって、相手から色々なものを得ることが出来ます。物質的なもの、精神的なもの、色々な喜びや楽しみや満足を得ることができます。しかし、“愛”は一方的に貰うだけでなくて、こちらからも差し出すものですから、“愛”には負担や犠牲が伴います。深く愛している間は気になりませんが、一旦、気持が噛み合わなくなると、負担に感じたり、煩わしくなります。“愛”は崩れやすいものであります。また愛は歪んだり捩れたりいたします。
歪んだ愛が起こす様々な痛ましい事件が日常茶飯事のように起っています。いじめ、子育てに疲れて起される暴力、気に入らない人を簡単に殺してしまうような事件が、テレビや新聞を賑わしています。
・なぜこんな社会になってしまったのか、ということが嘆かれて、家庭での躾(しつけ)が悪いとか、学校教育が悪いとか、ゲームが子供の心を蝕(むしば)んでいるとか、色々なことが言われます。
しかし、他人事ばかりではありません。私たちの身の回りや家族の中でも、愛のもつれに苦しまなければならないことが、しばしば生じて参ります。嫁・姑の間、夫婦の間、親子の間、兄弟の間で起って来ます。まして、仕事の同僚や上司と部下の間、取引関係などでは、利害もからんで、いがみ合いや憎み合いが数限りなくあります。
そのような中で、“真実の愛”を見つけ出すのがむずかしい世の中になっているようにも思えます。また、一旦損なわれた愛は、取り戻すのが如何に難しいかということも、しばしば経験するところであります。
ところで、キリスト教は<愛の宗教>と言われます。聖書の中には愛に関することが沢山書かれています。<真実の愛>を表わすギリシャ語はアガペー(愛)またはアガパオー(愛する)という言葉ですが、新約聖書の中には158回も出て来ます。
<真実の愛>の崩壊が進んでいるように見える現代社会に対して、聖書は何かをもたらすことができるのでしょうか。キリスト教の教えが、私たちの中に<真実の愛>を回復することが出来るのでしょうか。
今日は、先ほどお読みした聖書の箇所を通して、<真実の愛>はどこに見出し得るのか、どのようにして<真実の愛>を私たちの中に取り戻すことができるのかを、聴き取りたいと思うのであります。

1.永遠の命とは――どうすれば愛を取り戻せるか
ある律法の専門家が、イエス様のところへやって来ました。「律法の専門家」というのは、旧約聖書に書かれている律法(十戒をはじめとする、神様から与えられた掟)をよく調べている学者であります。彼らは律法を学ぶだけでなく、その規定をよく守っていて、そのことを誇りにしていた人たちであります。彼らはイエス様に対して批判的でありました。というのは、律法に対する見解において、イエス様とは、違いがあると考えていたからであります。そこで、イエス様が間違ったことを言わないかどうか、試そうとしてやって来たのであります。
その律法の専門家はこう質問しました。「先生、何をしたら、永遠の 命を受け継ぐことができるでしょうか。」
ここで「永遠の命」と言っておりますのは、<肉体の命がいつまでもなくならない>というような意味ではなくて、<本当の命>とか<正しい生き方>と理解した方がよいと思います。<どうすれば正しい生き方ができるか>という質問です。<律法の真髄はどこにあるか>という問でもあります。これは、今日のテーマに即して言えば、<真実の愛とは何か>と言い換えてもよいかもしれません。
これに対して、イエス様は逆に、律法の専門家に質問なさいました。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。彼は、即座に答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」この答えは、律法のすばらしい要約であります。別の箇所では、イエス様自身が同じような質問を受けられて、同じ答えをなさっています。
この答えに対してイエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたのであります。答えは正しいのです。しかし、実行しなければ何の意味もありません。
そう言われて、律法の専門家はドキッとしたのではないでしょうか。彼らは律法に精通していて、それを一応守っているという自信がありました。けれどもそれは、律法を喜んで守っているというのではなくて、律法を形式的に守るために、自分たちが守りやすいように解釈して守っているだけで、本当に喜んで神様の御心に従っているのではなかったのであります。例えば、「隣人を愛しなさい」という戒めにしても、「隣人」の範囲をユダヤ人に限っておりまして、異邦人や、異邦人と結婚した人は自分たちの隣人ではないから、愛さなくてもよい、というような、勝手な解釈をしていたのであります。イエス様は痛い所をつかれたのであります。

2.わたしの隣人とは
そこで律法の専門家は苦しくなって、逆に質問します。「では、わたしの隣人とはだれですか」と。これは自分の正当性を守ろうとする、逃げの質問であります。
自分の周りには隣人はいくらでもいる。その人たち皆に愛の行ないをしていたらキリがない。全部の人を愛するなんて不可能だから、特に大切にしなければならないのはどういう人か、反対に世間ではあまり評判のよくない人もいる、そういう人たちは愛さなくてもよいのではないか。自分の貴重な人生は、大切なことに集中的に用いたい、というのがこの律法の専門家の言い分なのでしょう。
私たちの“愛”も、こういう愛ではないでしょうか。私たちが愛するのは、自分が好きな人、自分と気が合う人、自分と利害が一致する人であります。そうである限りにおいて愛するのであって、好きでなくなったり、気が合わなくなったり、利害が反するようになった途端に、疎ましく思うようになってしまいます。それでも、家族や近親者の場合は、世間体とか、子が鎹(かすがい)になったりして、我慢して一緒にいたり、付き合ったりしていますが、もはや隣人とは言えない状態になってしまうようなことが往々にしてあります。近頃は世間体などということもあまり歯止めにはならなくなって、イヤになったらすぐ分れるのが当り前のような状態になっています。
学校や職場や地域社会でも同様で、好きな者同士、気の合った者同士は仲間になるが、そうでない者は仲間外れにする。少し変わった者や能力が劣ったりする者は、無視したり、いじめてしまう。――そういうことは昔からないわけではなかったのですが、今は自分のことだけに精一杯で、他人のことにかまっていられない、というわけで、隣人と隣人でない者を、自分の都合で決め込んでしまっているのではないでしょうか。私たちは、「隣人とはだれですか」と問うことによって、隣人から逃げているのであります。

3.善いサマリア人の譬え
そこでイエス様は、「わたしの隣人とはだれですか」という質問に答える代わりに、一つの譬えをお話になりました。それが、30節以下にある、有名な「善いサマリア人」の話であります。
この譬え話では、エルサレムからエリコに下る寂しい山道で、追いはぎに襲われて半殺しにされた人のところを三人の人が通りかかります。はじめの二人は、祭司とレビ人で、この人たちは倒れた人を見るのですが、見て見ないふりをして、道の向こう側を通って行きました。関わりを持とうとしなかったのであります。祭司やレビ人というのは、神殿の祭儀に関わる人たちで、当時のユダヤの国では、指導的な立場にある立派な人たちであります。聖書の教えもよく弁えていて、人々からも尊敬を受けていた人たちです。そんな立派な人たちですが、半殺しにされた人を助けませんでした。自分には急がなければならない、もっと大切な仕事がある、と考えたのでしょうか。これから聖なる儀式に出なければならないのに、血がついて、体が汚れてはいけないと、思ったのでしょうか。エルサレムの神殿で預かった大切な献金を、追いはぎに奪われたらいけないと考えたのでしょうか。そのまま知らぬ顔で通り過ぎたのであります。
イエス様は、「わたしの隣人とはだれですか」と問うことによって、隣人を避けようとする律法の専門家の中に、この祭司やレビ人と同じものを見ておられます。彼らは、神様が律法で何を求めておられるかは、重々知っていながら、それに喜んで従おうとはせず、神様の求めておられる事を、ただ何か重苦しく圧し掛かって来るもののようにしか感ずることが出来ず、何とかそこからうまく逃れようと、その口実ばかりを探しています。その彼らに対して、<あなたは、この祭司やレビ゙人と同じではないのか>と問うておられます。
そして、この卑怯な祭司やレビ人の姿は、全ての人間の姿であり、私たちの姿を映し出しているのではないでしょうか。
主イエスは私たちにも問うておられます。<助けを必要としている人が自分の近くにもいることを知りながら、自分にはしなければならないもっと大事な事がある、自分にはもっと大切な人がいる、自分はそのことだけで精一杯である、うっかり手を広げては、元も子もなくなる、助けを必要としている人だって、もっと自立の努力をすべきである、甘やかせるのはいけない、自分が責任をもつべき隣人には、すべきことはしている>、などとと考えているのは、あなたではないか、あなたもこの祭司やレビ人と同じではないか、と問うておられるのであります。
しかし、イエス様の譬えはそこで終わりません。祭司やレビ人の後に、もう一人の、三人目の人が登場します。この人は、追いはぎに半殺しにされた人を見て、憐れに思って介抱し、宿屋まで連れて行って、必要な費用も自分が負担するというのです。気の毒な人を見て、見過ごしに出来ない人が現れたのであります。
しかも、その人はサマリア人であったというのです。サマリア人は当時、ユダヤ人からは蔑(さげす)まれていました。サマリア人は異邦人と血が混ざった人たちだということで、隣人扱いをしていなかったのであります。追いはぎにあった人はユダヤ人と考えてよいでしょう。そうすると、このサマリア人は、自分たちをいつも蔑んで、除け者にしているユダや人のために介抱してやった、ということになります。同じユダヤ人の祭司やレビ人は知らぬ顔で通り過ぎたのに、いつも除け者にしているサマリア人が助けてくれたのです。
ここに隣人愛があることは明かであります。今、目の前に困っている人がいる時に、その人がどんな人であろうと、自分が出来る事をすること、それが隣人を愛するということであります。
イエス様はこの譬えを話された後、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。これは、律法の専門家が尋ねた「わたしの隣人とはだれですか」という問いをひっくり返した問いであります。律法の専門家は、<私が愛さなければならない隣人とはどんな人か、どんな人を愛すれば神様に喜ばれるのか>を尋ねました。愛すべき対象を尋ねたのですが、それに対してイエス様は、愛する主体が誰であるかを問い返されたのであります。そこに紛れもなく愛すべき対象がある時には、誰がその人に愛を実行するかが問題です。この場合、サドカイ人が隣人になったのは明らかでありますから、律法の専門家も、「その人を助けた人です」と答えました。イエス様は、愛すべき隣人を探すのではなくて、自らが隣人になるべき事を教えられたのであります。
そこでイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃいました。<実行あるのみ>、ということであります。

4.真実の隣人――イエス・キリスト
聖書の話はそこで終わっています。しかし、<困っている人を見つけたら助けてあげなさい、隣人は差別せずに愛しなさい>ということなら、言われなくても分かっている、聖書の話を聞かなくても、イエス様に言われなくても分かっている、と思われる方も多いのではないでしょうか。聖書に長く親しんで来られた方であれば、<この話はもう何遍も聞いて来た、サマリア人のようにすべきであるということは、よくわかっている、だけど、現実には、なかなかそうは出来ないものなのだ>という溜め息が聞こえて来そうです。
そうなんです。この譬えで思わされることは、私たちはサマリア人のようには、なかなか出来なくて、むしろ祭司やレビ人のように、避けるように道の向こう側を通って行く者だということであります。
は、この譬えは、サマリア人のようには出来ない私たちが、自らの不甲斐なさ、罪深さを思い知らせるためののものに過ぎない、ということなのでしょうか。
そうではありません。イエス様はこの譬えを話された後で、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。先ほど、これは<愛すべき対象を尋ねることから、愛する主体へ目を向けさせられた>のだ、と申しました。隣人を愛したのはサマリア人でありました。イエス様は、あの「善いサマリア人」の方を見るようにされたのであります。このサマリア人によって何を表わそうとしておられるのでしょうか。単なるお人好しの人物なのでしょうか。それとも、<こういう情け深い人をお手本として見習いなさい>と勧めておられるだけなのでしょうか。そんな勧めならイエス様でなくても出来そうです。
イエス様は、そんな道徳の教えをしておられるのではありません。このサマリア人とは一体誰でありましょうか。このサマリア人で表わされているのは、実は、イエス・キリスト御自身であります。
イエス様は、ユダヤ人から受け入れられずに、彼らに苦しめられ、遂に殺されました。けれども、イエス様は、そのユダヤ人を愛し抜かれ、彼らの罪を神様に赦していただくために、自ら十字架にお架かりになりました。こうして、どんな立派な律法の専門家にも指導者たちにも出来なかった、大きな愛の業を成し遂げて下さいました。ユダヤ人から嫌われていたサマリア人が、追いはぎにあったユダヤ人を助けたということは、その事を指し示しているのであります。
イエス様がこの譬えで示されたことは、<私たちが愛さなければならない隣人は誰か>ではなくて、<私たち罪深い者のために命まで捨てて、愛し抜いて下さるお方は誰であるのか>ということであります。
私たちは自分が一番大事で、隣人を自分のようには愛せない者であります。むしろ、自分のために他人を利用することの方が多い者であります。そのような私たちの罪を贖うために、主イエスは私たちに代わって十字架に架かって下さったのであります。

結.行ってあなたも
そのようにして下さったイエス様が、「行って、あなたも同じようにしなさい」と命じておられるのであります。私たちはとても、イエス様のようには出来ません。しかし、イエス様によって私たちの罪が赦されたのですから、私たちも「善いサマリア人」の端くれになることなら出来るのであります。
サマリア人がしたことは、その状況からすれば大変勇気の要ることでありました。しかし、大慈善事業をしたわけではありません。持っていた油とぶどう酒で傷を洗い、包帯をして、自分のろばで宿屋まで連れて行って、宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚――これは二日分の生活費相当ですが――それを渡したというだけであります。イエス様は私たちに過大な要求をなさるわけではありません。私たちが持っているもので、出来ることをするように命じておられるだけであります。
古い罪の世界では、「わたしの隣人とは誰ですか」と問わねばなりませんでしたが、イエス様によってもたらされた新しい愛の世界では、私自身が隣人になることが出来るのであります。私たちはただ、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言って押し出して下さるイエス様のお言葉に、素直に従えばよいだけであります。
最後に、イエス様が別の機会に話されたお言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書15章12節以下(P199)であります。
ここはイエス様が十字架にお架かりになる前の最後の晩餐の席で、弟子たちに言われた言葉の一部であります。しかしその言葉を、今日、招かれてこの席にいる私たちにも言って下さっています。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
真実の愛は私たち自身の中からは生み出されません。愛というものは、愛を受けてこそ生み出されるものであります。イエス様は私たちのために、御自身の命をかけて愛し抜いてくださいました。真実の愛を私たちに注いで下さっています。だから私たちもまた、互いに愛し合うことが出来るのであります。
私たちは、このように教会の礼拝に来て、主イエス・キリストの愛を受けることによって、その愛を、日々の生活の中で人々に分かつことが出来る者とされるのであります。
・祈りましょう。

祈  り
・憐れみ深い父なる神様!
今日、私たちを選んで、伝道の礼拝に招いて下さって、聖書に残された主イエスの言葉を通して、あなたの深い愛をお示し下さったことを感謝いたします。
どうか、罪深い私たちも、キリストの愛に押し出されて、隣人を愛することの出来る者とならせて下さい。どうか、あなたの大きな愛の一端を担う者とならせて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

米子伝道所伝道礼拝説教 要 旨          2006年5月28日  山本 清牧師 

 聖  書:ルカによる福音書10:25−37
 説教題:「真実の愛」     
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