(1)兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信   しています。       (ヘブライ人への手紙10:19) (2)生ける神の手に落ちるのは恐ろしいことです。
                 (同上、10:31)

 ヘブライ人への手紙の第二の説教(4:14-10:31)は、「大祭司キリスト論」が展開されているが、その締め括りに当って、標記(1)のような確信を述べている。主イエスが十字架上で息を引き取られた時、神殿の聖所の垂れ幕が真ん中から裂けたが、それは正に、キリストの十字架によって私たちが神に近づくことのできる「新しい生きた道」(20節)が開かれたことを象徴している。この確信に基づいて、説教者は、「神に近づこう」(22節)と、真心からの礼拝を奨励し、「かの日」(25節)への希望を保つこと(23節)と、互いに愛と善行に励むこと(24節)を勧めている。
 このように、説教者は、救われた恵みの確信に満ちた「新しい生きた道」を示す一方で、26節以下では、「真理の知識を受けた後」つまり、キリストの十字架の救いの御業を知らされた後にも「罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」と言い、最後には標記(2)のように、生ける神は、審きにも自ら手を下し給う恐ろしい方であることを語るのである。
 なぜ、私たちは、救われた恵みの確信に満ちて生きると同時に、厳しい審きの恐ろしさを聞かなければならないのか。それは、神が憐れみの神であると同時に、審きの神だからである。私たちは、その一方だけしか知らないなら、正しい神認識からほど遠いことになってしまう。神に近づくこと、すなわち、真の神を礼拝することは、憐れみに満ちた神に出会うことであると共に、厳しく恐ろしい神を仰ぐことなのである。罪を絶対に放置しない神の恐ろしいまでの厳しさと、私たちに対する深い愛が、キリストの十字架となったのである。この事実をしっかりと見つめることこそ、神に近づくことの出来る「新しい生きた道」である。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2006年4月30 日 山本 清牧師 

 聖  書:ヘブライ人への手紙10:19−31
 説教題:「新しい生きた道」                   
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