この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。                         (ヘブライ人への手紙10:10)

 ヘブライ人への手紙の筆者は、キリスト以前に行なわれていた、動物の犠牲を献げる古い礼拝と、キリスト御自身が贖いとなって下さったことによる新しい礼拝とを対比して、キリストの犠牲こそが実体であり、動物の犠牲は影に過ぎない不完全なもの(1節)であるので、それでは罪の自覚がなくならず(2節)、かえって罪の記憶をよみがえらせる(3)と言う。罪を自覚することは悔い改めに必要なことのようにも思えるが、ここでは、キリストの贖いは完全であるから、もはや罪の咎めに悩まされることがない、ということを強調しているのであろう。私たちの礼拝が罪の赦しを覚える喜びの礼拝ではなくて、罪を訴えられる礼拝、重荷を加えられるような礼拝となっているなら、それはここで言う「罪の自覚がなくならない」礼拝であると言えよう。
 筆者は、詩編40編を引用しながら、神の御心は、いけにえや献げ物を望まれず、逆に私たちの罪のために、キリストの体を備えることであって(5節)、この唯一の献げ物によって私たちは聖なる者(10節)、完全な者(14節)とされたと語る。
 私たちはまだ罪を犯すし、キリストの救いを自分のこととして受け入れられず、悔い改めが中途半端にしか出来ていない。しかし、神は「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」(17節)と断定され、キリストは「神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられる」(13)のである。ここに神の「すでに」と、私たちの「いまだ」がある。私たちは、すでに神の右の座に着いておられる主を仰ぎ見る、喜びに満ちた新しい真の礼拝へと招かれているのである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2006年2月26日 山本 清牧師 

 聖  書:ヘブライ人への手紙10:1−18
 説教題:「御心を行うために」                
説教リストに戻る