一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。……「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」    (使徒言行録2:4,11)

 五旬節(ペンテコステ)の日に、弟子たち一同が一つになって集まっていると、かねて約束されていた聖霊が降った。その日は地中海沿岸の各地方からユダヤ人がエルサレムに帰って来ていた。彼らの出身地はまちまちであったのに、ガリラヤ出身の弟子たちの話すことが、自分たちの故郷の言葉を話しているかのように、よく理解できたのである。弟子たちが話した内容は標記にあるように、「神の偉大な業」つまり、主イエスによる救いの出来事であり、それが方々の国から来ている人に伝わったのである。この出来事から、聖霊が降ることによって起こされることの本質が明かになる。すなわち、聖霊が降ると、「神の偉大な業」を告げる福音の言葉が通じ合うようにされるのである。
 だが一方で、「驚き怪しみ」(7)、「とまどい」(12)、「あざける者」(13)もいた。聖霊が降れば、何の疑問も抵抗もなくなるのではない、聖霊が働き、福音が語られるからこそ、疑問も躓きも生じる。一人一人の中で、福音をどう受け止めるかの戦いが始まるのである。
 しかしペトロは、ヨエルの預言を引用して言った。「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(17節)と。主イエスの十字架と復活によって、「終わりの時」は既に始まった。だからヨエルが預言したように、約束の聖霊が降っているのであって、驚くには及ばない。あとは、「主の名を呼び求める」なら「皆、救われる」(21節)のである。聖霊が降るとは、何か特別な体験をしたり、悟りを開いたような心地になることではない。主の日の礼拝において「神の偉大な業」の福音にあずかることが聖霊が降ることである。私たちの救いの道は、遠くの神秘の世界にあるのではなく、身近に備えられている。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨              2006年2月5日 山本 清牧師 

 聖  書:使徒言行録2:1−21
 説教題:「霊が語らせるままに」                
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