永遠のによって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。(ヘブライ人への手紙9:14)

 かつてエルサレムの神殿で行なわれていた礼拝は、幕屋の伝統を受け継ぐもので、出エジプトの荒野の旅における神の臨在を記念する品々が置かれ(9:1-5)、毎年の贖罪日に大祭司が第二の幕屋(至聖所)に入って、自分自身と民の罪のために動物の血を献げた(7節)。 だが、この礼拝は、来るべき真の礼拝を指し示す比喩(9節)のようなものにすぎず、肉の規定による清めを行なうだけで、「聖所への道」(8節)、すなわち現臨する神との出会いと完全な罪の清めに至る道ではなかった。
 これに対して、キリストが大祭司として行なわれた礼拝は、人間の手で造られるのではない「完全な幕屋」、すなわち十字架において、御自身の血が献げられたので、それは「ただ一度」だけで、「永遠の贖い」が成し遂げられ、霊的な清めを実現するものである。
 このキリストの血の礼拝によって私たちに獲得出来ることが標記に述べられている。第一は、私たちの良心が死んだ業から清められること。私たちがする業は、たとえ良心や善意から出た業であっても、間違いや罪を免れることが出来ず、偉大な業績と思われることでも、争いの原因になったり、差別を産み出すことになってしまい、結果は人を生かすことにならず、「死んだ業」となってしまう。だが、キリストの血は、私たちの死んだ業をも清めて、人を生かすことのできる「生きた業」に変えるのである。
 第二は、私たちが生ける神を礼拝するようにさせること。キリストの血は、私たちを神の生きた愛に出会わせ、心からの悔い改めに導かれ、喜びに溢れた生き生きとした礼拝を生み出すのである。それは、主イエスがシカルの井戸でサマリアの女に約束された「霊と真理の礼拝」の実現であり、イエスが息を引き取られる時に神殿の垂れ幕が裂けたことは、そのことを象徴的に示している。
 

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2005年5月29日 山本 清伝道師 

 聖  書:ヘブライ人への手紙9:1−14
 説教題:「生ける神の礼拝」                
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