わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。    (イザヤ書8章17節)

 預言者イザヤの時代のユダの王と民は、大国アッシリアの圧力のもとで、神に信頼を置くこともせず、不安と恐れに満ちていた。その状態をイザヤは、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない(8:23)と表現している。これはまた、豊かさの中にも飢えや憤りや争いの絶えない現代世界の姿でもある。
 しかし、イザヤはその中で、自分の二人の息子に、神の審きと約束を意味する名前を与えられて(7:38:1)、そこに表わされた神の御心を信じて、標記の言葉を語り、9章に至っては「闇の中を歩む民は、大いなる光を見る」(9:1)と告げる。そのイザヤの預言の通り、主イエスが世の光として地上に来られた。しかし人類は、その方をも十字架に架けて殺してしまった。天から射し込んだ光をも消し去ったかに見えた。
 ところが、神は、その主イエスを死と闇の世界から甦らせ、命と光の世界を拓いてくださった。この主の復活に私たちの全ての望みの根拠がある。
 主の復活は、苦難と闇が覆う世界の中に射し込んで来た光であり、罪からの救いの希望であるばかりでなく、私たち自身の復活の初穂となってくださったことをも意味する。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Tコリント15:20)。私たちの生の行く末は、死をもって終わるのではない。私たちの人生が、たとえどんなに貧しくて、苦労の多いものであったとしても、たとえ間違いや失敗に満ちていても、主にあっては空しくない。主イエスの再臨の時には、私たちは霊肉ともに新しい命へと甦らされるのである。私たちは、この復活の希望が与えられているので、厳しい現実の中にあっても、喜びと感謝をもって生きることができる。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2005年3月27日 山本 清伝道師 

 聖  書:イザヤ書8:16−23
 説教題:「主を待ち望む」              
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