キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。              (ヘブライ人への手紙6:2)

 信仰は、私たちの能力や知識の一種ではない。だから、「成長」とか「成熟」とか「完成」という言葉とは馴染まないように思われる。ところが、ヘブライ人への手紙の筆者は、標記のように述べて、幼子が飲む乳のような初歩の教えから離れて、一人前の大人のための固い食物を食べる成熟した段階に進むように勧める。固い食物とは、「義の言葉」とか「善悪を見分ける感覚」(13,14節)と言われているように、キリストの福音を知った者なら身につけるべき善悪に対する判断といった意味であろう。福音の甘い言葉を受け入れるだけでなく、福音と共に聞き取らねばならない厳しい神の御命令に従うこと、キリストが優しく憐れんで下さる面だけでなく、私たちの罪がキリストの十字架を必要とするほどのものであるという面を受け入れて、悔い改めて主の弟子として従って行くことを「成熟」と言っているのであろう。私たちは、悔い改めのない赦しや、主に従うことを要しない<安価な恵み>に満足することなく、自分の持ち物をすっかり売り払って高価な真珠を手に入れた商人(マタイ13:45)のように、本当の喜びを味わうことの出来る<高価な恵み>を自分の生活の中で生かさなければならない。
 だがそれは、肩の凝るような、緊張を強いられる生き方のことではない。無理矢理に自己を鍛えたり、研鑚を積んでレベル・アップを計ることによって「成熟」に達することではない。それはただ、キリストの十字架の恵みに集中することによって引き上げられる信仰生活のことである。キリストの十字架の恵みを知り、本物の光に照らされたならば、そこには必ず、愛が芽生え、良い働きが生み出される。キリストに結びついている信仰は、決定的な堕落や滅びに至ることはない。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2004年8月29日 山本 清伝道師 

 聖  書:ヘブライ人への手紙5:11−6:12
 説教題:「信仰の成熟」              
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