なお、そこに十分の一が残るが、それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。   (イザヤ書6:13)     

 預言者イザヤは、神殿において、聖なる主・万軍の主の栄光に触れ、神の臨在を体験して、自らが汚れた唇の者であり、滅ぶべき罪人であることを知った。すると、セラフィム(天使)が祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせ、「あなたの罪は赦された」と告げる。そのとき、イザヤは「誰を遣わすべきか」という主の声を聞いて、押し出されるように「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えた。召命は、このように神の前に立たされ、自らが滅ぶべき者であることを覚え、その罪が一方的な恵みによって赦されたことを知る時に与えられるのであるが、それは私たちの礼拝においても起っていることである。
 イザヤが召命を受けて命じられたことは、「この民の心をかたくなにし、悔い改めていやされることのないため」という厳しい裁きを告げることであった。私たちに与えられている伝道の使命は人々にキリスト教を理解してもらい、悔い改めに導くことだと思っているが、逆に、人々が余計にかたくなになり、いやされるどころか滅びに至ることがあるということであり、私たちの伝道が簡単に何らかの成果を上げ得ると甘く考えてはならないのである。救われるか滅ぼされるかは、神の御手の中にあって、私たちが人を救うのではない。
 イザヤは思い余って「主よ、いつまででしょうか」と尋ねるが、主は町も人も徹底的に滅ぼされ、残った十分の一も焼き尽くされると言われる。しかし、最後に「それでも切り株が残る」と言われた。これはエッサイの株(ダビデの末)から生まれる救い主イエス・キリストのことを指している。私たちの伝道の唯一の確かな希望はこの聖なる種子にかかっている。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2004年7月25日 山本 清伝道師 

 聖  書:イザヤ書6:1−13
 説教題:「わたしを遣わしてください」              
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