わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。      (イザヤ書5:1b−2) 

 「ぶどう畑」とは、神に選ばれた民=イスラエルを表わす。ぶどう畑の持ち主である神が、愛と期待をもってぶどう畑を整備して、良いぶどうを植えたのに、実ったのは酸っぱいぶどうであったのだ。神はイスラエルのために、出エジプト以来、最大限の恵みを与えて来られ(4節)、周辺諸国の脅威の中でもエルサレムを陥落から守って来られた。だからイスラエルは、神の御心に適う、「裁き」と「正義」の行われる社会を実現すべきであった。ところが実際は、殺人や戦争の「流血」、暴動や苦しめられている人々の「叫喚」が満ちた社会であった(7節)。もはや、神はイスラエルを見捨て、荒れるに任せられることが告げられる(56節)。
 ところが、イザヤ書27:2以下には、別の「ぶどう畑の歌」が歌われている。「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。わたしは、もはや憤っていない」と。その日とは、救い主メシヤの到来の日、十字架による救いの完成の日、また、主イエスの再臨の日を示す。イスラエルを見捨てられたかに見えた主であるが、その憤りの行きつくところは、独り子の十字架であった(マルコ12:1以下参照)。主イエスの十字架の故に、神は「もはや憤らない」と言われる。主は、荒れるに任せられたかに見えたぶどう畑にも水を注ぎ、番人として夜も昼も見守ると言われる。そして、和解(平和)へと招かれ(5節)、時が来れば、芽を出し、花を咲かせ、地上をその実で満たす(6節)とまで語られる。その見事なぶどう畑とは新しいイスラエル=教会を暗示している。ペンテコステにはその教会が聖霊によって誕生した。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨             2004年5月30日 山本 清伝道師 

 聖  書:イザヤ書5:1−7、27:2−6
 説教題:「主のぶどう園」              
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