論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。 (イザヤ書1:18)

 イザヤは主の言葉として、イスラエル(ここでは特に、南王国ユダ)の民の背信(1:2−6)と形式化して内実を伴わない祭儀礼拝(1:11−15a)を告発する。彼らが大国アッシリアのもとで苦しみ、町々を荒廃させられたのは、彼らが神の愛を忘れ、背きを重ねたからである。主は、そのような者たちの献げ物や祭や祈りを喜ばれない、と言う。私たちもまた、大きな愛を賜っている主を軽んじ、礼拝が義務化、習慣化していないか反省させられる。
 しかし主は、そのような民をも捨てられず、「論じ合おうではないか」と言われる。「論じ合う」という語の元の意味は「人の前に立つ」である。神は私たちと正面から向き合って、対話することへと招いておられる。形式的な礼拝ではなく、主の御言葉の前に立って、真剣に耳を傾け、腹の底から応答することへと招かれる。そうすれば、私たちの緋色に染み付いた罪も、神の赦しを受けて、雪のように白くなる(1:18)だけでなく、豊かな実りさえ得られる(1:19)と約束なさるのである。滅び行く者が多い中で、私たちも救われる者として残ることが出来ると言われる。多くの人々の罪の只中で、ただ一人主イエスだけが「残りの者」(ロマ9:27)として十字架に架かって、全ての人の罪を背負って下さったからである。

米子伝道所主日礼拝説教 要 旨            2003年5月25日 山本 清伝道師 

 聖  書:イザヤ書1:2−20
 説教題:「残りの者が救われる」                   
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