ハルビン Harbin 紀行 (2005年 九月)

9月16日(金曜)
19時、成田から北京へ。北京空港の入国窓口は混んでいて、おまけに僕が並んだ列はなかなか短くならない。これもオリンピックまでには解消するはず。北京では、なにもかもがオリンピックまで。中国人のDさんが空港から王府井のホテルまで送ってくれた。雰囲気の良い4つ星ホテル。 

9月17日(土曜)
朝、北京空港からハルビンへ。空路はまっすぐにハルビンへ。下界は丘陵と畑と小さな集落が延々と続く。やがて、砂を掃いたような奇妙な世界が広がる。砂漠化の前線であった。まるで、風に吹かれた砂が運動場に薄い縞模様を描いたような・・・。実際には、分厚く、除きようがない砂の山が押し寄せているのだろう。ハルビンに近づくにしたがって、緑が多くなる。と言っても、森林ではなく、畑である。ハルビン工業大学の車が僕とDさんを迎えてくれた。日本を出る前、「ハルビンの秋は短く、すぐ冬が来る」とネットで読んだが、この日は暖かかった。松花江(川)に面した一等地に建つホテルにチェックインを済ませ、Dさんと街を歩く。街は中秋で賑わっている。ホテルの前には、市民が団結して洪水を堰き止めた大きな記念碑が建っている。ここから堤防沿いに、スターリン公園が続いている(後で、日本人の設計と聞く)。
歩く前に腹ごしらえ。ランチはお目当ての餃子である。以前、長春出身のDさんが我が家に来て、麺をこね、棒で衣を作って、水餃子を作ってくれた。 ここは本場! ひと口でツルリと喉を過ぎる、あの小ぶりな水餃子! こちらのシステムは具をコンビネーションで注文する。いろんな野菜、肉、魚介類の組み合わせを自由に選ぶ。この組み合わせは無限に大きな数になる。考えはじめると発散するので、適当に決定! そして青島ビールよりも美味いハルビンビール。
ハルビンは日本とロシアが建てた古いビルが多く、それらには「保存指定」の板が取り付けられている。ホテルから市の中心へ続く古い石畳の歩行者道路(中央大街)はエキゾティックである。中央大街を行くと聖ソフィア教会があり、この辺りが一番にぎやかである。ハルビンは重工業都市だが、冬は氷祭り、夏は避暑地として、観光産業の成長が著しい。あちこちで欧米風の街づくりが進んでいた。数年後には、もっと美しい街になっていることだろう。
さて、ハルビンは漢字で「哈爾濱」と書く。これは当て字で、インターネットの百科事典 wikipedia によれば、満州語のハルウェン(白鳥)を意味するとある。しかし、聖ソフィア教会の中の展示には、別の語源(魚網の干し場)が書かれていた(写真参照)。
あちこち歩いてコーヒーでも飲んで、休憩したくなった。スターバックスに酷似した看板があるので近づくと微妙にスペルが違う怪しい店。しかたなく、ケンタッキー(なぜか、中国はケンタッキーが多い)でコーヒーを飲み、中央大街のロシアン音楽庁へ。店の名前は”東方ロシア洋食音楽庁(写真)”。この建物も保存指定で、昔は繁盛した劇場だった。日本で言えば、愛媛県の内子座のような存在。今は、細々とロシア娘のダンスなんかやってるが、もう少し文化的な活用がありそうで、もったいない! 対面にシックなコーヒーショップ。なんだ、こんなところにいい店が・・・明日にしよう。音楽庁は、我々の他に一組だけ、閑散としている。なんとも素人っぽいダンスが終わると、風船が持ち出されて爪楊枝で割るくじ引きが始まった。特賞の時計を当てた。

 9月17日(日曜)
快晴の中秋。あちこちに月餅を売るテントが並んでいる。川の対岸に見えるのは中州、その向こうに大きな本流がある。中州といっても広大な面積で、現在新しい市庁舎が建ち、団地やビジネス街として開発が進められている。この川の水は北東に流れて、ロシアとの国境である黒龍江(アムール川)に合流してハバロフスクに至る。やがて海に出て、日本に流氷となって漂着するのか。
今日は、山の方へドライブ。といっても、土地勘がないので、どっちを向いて走っているのか分からない。高速道路の標識に「牡丹江260k」とあったので、南東に向かってるらしい。行けども行けども、トウモロコシ畑。北京からの飛行機の下はぜ〜んぶトウモロコシ畑だったのかー! 1時間以上走って、低い山が連なる地形に入った。日本のような険しい山は無く、なだらかな丘陵地帯。その中で、際立って尖がった山が見えた。あれが、今日の目的地、帽山(帽子山)である。高速道路を降り、森林公園に入る。夏のシーズンは観光客で混むらしい。日本ならば、あっという間に別荘地になってしまいそうな所である。
ランチは田舎料理に限ると、あちこち食堂を探したが、シーズンオフで全部休業。高速道路ICの近くの小さな鎮(村)に行き、運転手さんがやっと清潔なレストランを見つけてくれた。陳列棚から、皿に盛り付けた素材を選んで調理してもらうシステム。東北部の料理は、とにかくボリュームがすごい。洗面器のようなドンブリに、うどん、スープ、魚、野菜炒め、モロコシパン、・・・。Dさんと運転手さんと僕の3人じゃ、こんなに食えるはずがないのに!
夜は、狙いを付けていた音楽庁の前のシックなコーヒーショップ(実はロシアンレストラン)へ。壁一面に、ハルビンの古い写真が飾ってある。よくよく見ると、日本語の説明が書いてある。「えっ、これ、日本人が撮ったんだー?」とか言っていると、日本語の上手な中国人がハルビンの町並み保存計画をいろいろ語ってくれた。熱い、熱い、情熱を感じた。
我が家の古いアルバムにハルビンの写真がある。子供の頃から、川に浮かぶ遊覧船の風景が印象的だった。いま、古いアルバムを取り出してみると3枚の小さな写真があった。スキャナーで撮ったものを”セピア色のハルビン”に置く。
ホテルに帰り、明日からの仕事を考えつつ、テレビを眺めていた。日本のBS2ニュースを見て、中国のチャンネルを見てみる。中国のテレビコマーシャルは実に薬(サプリメント?)が多い。あらゆる皮膚病に効くとか、あらゆる循環器に効くとか、次から次へと誇大宣伝の薬コマーシャルが続く。チャンネルを切り替えるとドキュメント番組をやっていた。チチハル(ハルビンの西にある都市)の日本軍が残した毒薬工場を扱っている。しばらく見ていると、下に中国語のテロップが流れ、左に縦書きの日本語が書いてある。これは、日本人が製作したものらしい。残留毒薬で被害を受けた中国人が日本政府を訴訟した経緯を淡々と綴っている。「反日」という言葉が、ぼくの頭の中で、落ち着き無くクルクル回り始めた。(過去を掘り起こしている日本人)+(それをテレビで見ている多くの中国人)+(それを見ていない大部分の日本人)=??? 

9月18日(月曜)&19日(火曜)
18日のハルビン工業大学の講義開始は朝8時! 日本の大学では考えられないが、ここでは先生も学生も同じキャンパスの中で寝起きしている。講義室のやりくりが難しいなら、朝も夜も関係ない。200名近い大学院生が遅刻者なしで教室で待っていた。Dさん曰く「ぼくが学生のときは、前の席を取り合いでしたよ」。ガ〜〜〜ン! このカルチャーショック! そういえば、昨年の清華大学のときも同じ雰囲気だった。例外なしかぁー、ガ〜〜〜ン!
18日と19日で、90分授業を4本やったが、講義最後の質問も白熱していた。もっと質問の時間をとればよかったと反省したが、北京へ帰る飛行機の時間が迫っていた。心残りがいつまでも続いた。 

9月20日(水曜)&21日(木曜)
両日とも、Dさんが運転手付きの車を手配してくれた。本当に謝々である。20日は通訳付きで旧城壁(北京の最も内側の城壁)、天壇公園、雍和(ユウワ)宮(チベット仏教の寺院)、孔子廟と観光したがどこも修理中。やはりオリンピックの直前・直後に観光すべし。最後の国子藍(科挙時代の中央試験場)だけは修理していなかった。ここには科挙の歴史が展示されており、いろんなカンニングの手段や証拠品などもあって面白かった。小さな字がビッシリ書かれた下着は最高文化財に値する!
21日は、清華大学のN教授とランチをして、小説家を目指す北京外大の才媛”曼ちゃん”の案内で明の十三稜へ。開放された二つの稜は観光客でごった返していた。ほとんどが中国各地からの団体で、「この人たちは南方のどこどこから」、「この人たちは東北方面から」と教えてくれた。日本語を自由に話す曼ちゃんは団体の中国語を聞き取れないという。未だ開かれていない稜の辺りは閑散とし、のどかな寒村が散在していた。
夕食はいつもの4人(Dさん、曼ちゃん、日本人のFさん、ぼく)。王府井の近くに東方広場が開発され、大きなビジネス街となっている。地下にはモダンな店が並び、吉野家や回転寿司やスターバックスもあって日本と変わらない。中華レストランもここでは日本と変わらない味がした。

 

P1000137.JPG
ハルビンの餃子レストラン

P1000141.JPG
水餃子、圧縮した硬い豆腐、柔らかいこんにゃくのようなもの、野菜炒め。

P1000145.JPG
日本の建築物(保存指定)。

P1000150.JPG
聖ソフィア教会。

P1000151.JPG
満州語の古文書。以下、曼ちゃんによる脚注の訳。

哈尓濱はいつ誕生したのか。発音は何語に由来したのか。その名はどんな意味を含んでいるのか。従来、多種の説がある。清代満語資料に記載している文字によると、網場(網は魚網)として設置されたのが乾隆期間で、村落となったのが同治期間である。写真は『黒龍江将軍衙門満語档案(黒龍江将軍官邸満語資料』から発見された、哈尓濱という地名が記載されている満語の部分である(訳注:墨尓本昨年)。

P1000155.JPG
駅の東側の静かな通り。

P1000158.JPG
鉄道をまたぐ古い橋(保存指定)。

P1000159.JPG
橋の名前。

P1000162.JPG
昔のままの石畳(中央大街)。

P1000165.JPG
中央大街。

P1000167.JPG
中央大街。

P1000168.JPG
東方ロシア洋食音楽庁(保存指定)。

P1000172.JPG
特賞を当てた!
P1000182.JPG
路上の筆自慢(水で書く、北京でも多かった)。

P1000183.JPG
松花江の中洲。本流はその向こう。

P1000188.JPG
帽子山。
P1000191.JPG
実物メニューで注文。
P1000194.JPG
うどん、キャベツの発酵スープ(かなり臭い)、川魚(身の中にも小骨がいっぱい)、大きなインゲン豆、トウモロコシパン、ジャガイモ千切りの青唐辛子あえ(口の中に激痛が走る辛さ)。
P1000195.JPG
レストランの前の田舎道。
P1000201.JPG
ハルビン工業大学(モスクワ大学に似ている)。
P1000203.JPG
キャンパスの中で暮す元大学職員。この日は日本では敬老の日だった。中国の大学では先生も学生も同じキャンパスの中で生活している。生活に必要なすべての施設が揃っている。無いものは火葬場ぐらい。
P1000212.JPG
北京の最も内側の城壁の一部。今ではほとんど壊されてしまった。
P1000216.JPG
天壇公園。ここに座って手をたたくと3回こだまが聞こえる。でも観光客がこんなに多くては。

P1000229.JPG
雍和宮。

P1000232.JPG
孔子廟の辺りは観光化していない。下町の暮らしが温かい。

P1000237.JPG
孔子廟のすぐ近くの「辟雍(ヘキヨウ)」と書かれた科挙の試験場。欄干の赤い札は受験生の入学祈願。ほとんどが清華大学だった。

P1000250.JPG
十三稜へ続く長い参道。
P1000251.JPG
十三稜の地図。

P1000253.JPG
英語の説明。

P1000259.JPG
未だ封鎖されている稜。農作業をしていた人が手を入れれば写真が撮れるよと言ってくれたので、扉のすき間から手を入れて撮影。