遍路紀行 (2004年 夏)     今回のマップ   全体マップ

今日現在(8月14日)、東京では、7月6日から続いた気温30度以上の「真夏日」が連続40日となり、1923年以降の最長記録を更新している。 去年は8月20日に遍路を始めており、その時点で未だ夏を知らない状況だった。 どうかしている・・・・・。 今回の遍路は、大きな台風が四国を直撃し、大雨が続いた直後だった。 あちこちに崖崩れや洪水の爪あとが残されていた。

8月7日
快晴。 昨晩遅く、高知空港から中村市に到着し、寝不足のスタート。 宿毛(すくも)方面への国道56号で四万十川を渡ると、足摺へ向かう国道321号が分岐している。 321号は四万十川の堤防を行くが、歩道はない。しかし、平行して広い遊歩道が整備されている。 河口の四万十大橋のたもとで遊歩道が無くなり、国道は内陸に入る。 そして、長さ1.6キロの新伊豆田トンネルが待っている(3日後、このトンネル内で追突事故があり、死者が出た)。 トンネルまでは、崖の補修工事で片側通行だったり、歩道が右に左に移り、いそがしい。 右の歩道を歩いていると、さっき追い越した軽自動車がハザードを点灯して止まっている。 車からご婦人が下り、交通量の多い道路を渡ってぼくを待ってる様子。 故障かな?と思って近づくと、「お接待ですから」と、小さなのし袋を差し出した。 「えっ、いやー、いいんですよ」と言ってる間に、ぼくの手が受け取っていた。 「私も”歩き”をやりましたけん」と言って去って行った。 あのご婦人、のし袋をいつも持ってるんかなー? 接待は断らない方がいい。 これは、四国の文化だと思うから。

接待で いいわけごっこの 胸のうち

トンネルが近づくにつれて、なんとも言えない轟音が高まってくる。 その入り口でしばし休憩。 すると、逆打ちの遍路がトンネルから出てきた。 ぼくと同じぐらいの年配で、快活な挨拶を受ける。 「足を痛めましたか?」と聞くので、「いや、あのトンネルが嫌で、ちょっと休憩してるんですよ」と答えると、ウェストバックから耳栓を取り出し、「これしたらええ、新品やし、どうぞ。 あんな音聞いてたら、体が宙に浮きますわ」という。 彼は3回目の通し打ちで、どこそこの遍路道は未だぬかるんでいるとか、ぼくが来年行くであろう札所の民宿の評価とか、あれこれ教えてくれた。 「そこのおかみさん、ぽっちゃりして、ええ感じの人や」とか、貴重ではあったが、情報量過多で、民宿の名前はもう思い出せない。 

3回目 八十八個の 宿を打つ

トンネルを出て、6キロほどの坂を下ると紺碧の海が見えてきた。 大雨の後とは思えない澄んだ色。 樹間から、磯や小さな浜が見える。 誰もぉ〜〜♪ いない海〜〜 ♪。 明日の目的地、足摺灯台がかすかに見えている。 予約した民宿は、大岐(おおき)というひときわ大きい浜の入り口にあった。 オーナーはサーファーの青年で、民宿を始めて3年目。 着いたとたんに、冷たい水とエスプレッソ、Amazing! 「洗濯物はこのカゴに入れといてください、後でやっときますから」・・・「えーっ、やってくれるのぉー?」 Ama〜zing! 今回の遍路で洗濯をしてくれた民宿はあと一軒。 この民宿での夜は、またまた Ama〜〜zing ! オーナーの心のこもった料理、海の向こうの山越しに見る土佐清水市の花火大会。 巨人・阪神の熱戦。 でっかい花火が上がるたびに巨人がホームランを打ちやがる。 そしてサッカーのアジア大会決勝。 ここでは朝日系のテレビ中継がないので、卒業生から詳しい実況メールを送ってもらう。 日本対中国、重慶でのアウエイ。 中国サポーターの反日ブーイングとレフェリーの判定に、卒業生はかなり熱くなってる。

8月8日
快晴。 昨晩のAmazingで寝不足気味。 灯台は見えているが、ここから20キロもある。 足摺半島の付け根にある窪津(くぼつ)という漁港で、福島県から来た30才ぐらいの女性遍路に会う。 昨年、35番で足を痛めて帰り、続きを歩いているとのこと。 通し打ちをするらしい。
窪津からは、こんもりと盛り上がった半島の東側を岬へ向かう。 眼下に広がる雄大な海の期待はふくらむが、密生した照葉樹林の中を歩くこと約2時間、やっと岬まで1キロという標識。 そろそろ視界が開け、絵ハガキでおなじみの灯台の景色が展開されるかと心が踊る。 しかし、深く陰気な樹林の中で、いきなり金剛福寺300メートルという標識。 そして左は展望台。 「えっえーっ、とうとう岬まで来てしもうた!」。 とりあえず、納経と腹ごしらえが先。 38番は典型的な観光の寺。 海は見えず、レストランの呼び込みがうるさい。 空腹を満たし、先ほどの展望台へと引き返す。 椿の林へ入ると、ご親切にも、展望台100メートルの標識。 展望台は10畳ほど、柵を越えればあの世行き。 見晴らし無しのウォーキングの末、おなじみの絵ハガキ風景をありがた〜く撮らせていただいた。 

 Welcome (餓えるカモ) それでは海を 見せましょう

灯台の西側へ狭い遊歩道があり、いたるところに弘法大師の七不思議が記されている。 よくもマー、これだけこじつけるもんだと、だんだん腹立たしくなってくる。 即、この場から離れ、遊歩道を下り、花崗岩の洞門を通り過ぎ、だれも来ない海岸の岩陰で寝転び、の〜んびりと空と海を眺めた。
ほとんどの遍路は、38番を終わると、再びあのばかばかしい樹林の中を中村方面へ引き返し、途中から山に入り、三原村経由で39番へ行く。 ぼくは、もう来ないであろうこの地方を見るため、半島の西側を通って土佐清水市から竜串(たつくし)を経由して宿毛市へ出ることにしている。 民宿がある臼(うす)バエまでは岬から約7キロ。 西側は崖っぷちを歩くので、視界が開けている。 1時間半ぐらい歩くと、松尾という漁港に着く。 崖が切れ込んだ狭いスペースにぎゅうぎゅうと家々が身を寄せ合っている。 ここで、民宿にケイタイを入れると、「あと1キロほど歩いてください。そうすると看板があるので、そこから登ってください」とのこと。 松尾漁港から、急斜面に沿って狭い県道が続くが、こんなところに家を建てられないだろうと不安になってくる。 少し出っ張った岬を回ると、臼バエは異様な迫力で展開した。 戦時中はここに船の監視台が置かれていた。

名勝の 裏で静かに 奇勝あり

民宿へは、臼バエの手前の脇道を登る。 上は地形が平坦になっており、「さくら公園」と記されている。 子供の遊び場が設けられ、国民宿舎風の余裕のある建物。 実直なダンナと賢いオカミのコンビ。 ここの自慢の料理、イカの丸煮は柔らくて美味い。 この夫婦の心遣い、リピーターが増えていると思われる。

8月9日
快晴。 民宿の脇から山越えの遍路道が通じているが、もう一度臼バエを見たいし、あの上に立ってみたい。 県道に下り、展望台に登った。 臼バエは、黒潮が最初に日本列島にぶっつかる所で、磯釣りの名所。 海は視野いっぱいに広がり、静寂の中、自分の息だけが聴こえる。 臼バエをあとに曲がりくねった県道を行くと、石鯛が釣れそうな磯が続くが、釣り人は一人もいない。 やがて、県道をそれて中浜漁港に下りる。 ここは、ジョン万次郎生誕の地。 1841年、14才のとき、操業中に漂流し、鳥島(とりしま)に漂着したが、アメリカの捕鯨船に救出され、日本人として初めてアメリカ大陸に渡ったことで知られている。

漂流の 島を知らせた アホウドリ

土佐清水へ近づくと、左手の岬の根元に魚市場が見えてくる。 本当の漁港は岬の向こう側にあって見えない。 湾の奥には、国道321号を行き交う車が見える。 もう、土佐清水の市街は近いと思って進むと、この湾は右に直角にカーブし、さらに深い湾になっている。 リアス式海岸を歩くのはこれだからいやになる。 湾のどんずまりに、ポツンと小さな島がある。 これは唐船島といい、国指定天然記念物。 昭和21年の南海大地震で80cm隆起した痕跡が鮮やかに残っている。 真昼の港町はうらぶれて、ゴチャゴチャしている。 ケイタイで民宿を予約し、竜串(たつくし)へ急ぐ。 
竜串の中心は、粗末な長屋の露天商や中華レストランのような珊瑚館(竜宮城のつもりらしい)や数件の食堂を兼ねた古い民宿が囲む一時代前の異空間。 予約した民宿の主は客扱いの達人といったオバーチャンが一人。 宿泊はぼく一人。 とにかく、シャワーで汗を流し、観光案内所を覗くと、オジーチャンが出てきて、波が作った奇岩(これが竜串という地名の由来)の説明をしてくれた。 まずグラスボート(船底がガラス張りになっていて海低が見える舟)に乗る。 さんご礁にはたくさんの種類の熱帯魚が群がり、鮮やかな青色をしたソラスズメダイの群れが美しい。 昨晩のテレビで、シアン化合物を撒いて熱帯魚を捕獲するインドネシアの自然破壊を特集していたが、大部分は日本へ輸出されるという。 竜串は25分程度で一周できる砂岩の磯。 現代アートの試作品が無造作に捨てられているといった光景。 「なんじゃこれ!」っと呆然。 どれも砂岩の不均一性によって生じたと思われるが、それにしても、形は多様多種、ポジションも乱雑すぎる。 侵食と破壊の繰り返しかなー?・・・想像不可能! 大師さんの困った顔が目に浮かぶ。 ページの下に、それらの画像を乱雑に並べておく。

たつくしで お大師さまも たちつくし

8月10日
快晴。 竜串から宿毛市へは、海岸沿いの国道321号と内陸の県道28号がある。 国道はトンネルが多く、交通量が多いので県道を行くことにした。 この県道は、宋呂川に沿って上がり、福良川に沿って下るが、全体的にフラットで、これといった集落はない。 途中、「堤防補修のため通行止め」の看板があったが、その上に「解除」という紙が貼られており、運よし! 交通量は極めて少ない。 あちこちに白百合が群生しているのを見かける。 のんびりと、山と田んぼを見ながら歩いていると、なにやら「語り」が聴こえてくる。 ぽつんと工場のような建物が一つ、スピーカーで講談を流している。 建物の中をそれとなく覗くと、木の立方体がゴロンゴロンと転がっており、その立方体を入れたダンボールをトラックに積み込んでいる。 建物の壁に「碁盤製作工芸」と書かれていた。
上流に進むと、道はクルマがすれ違えないほど狭くなり、山が迫ってくる。 県の土木課のユニホームを来た男が二人、双眼鏡とノートを持って、上を観察している。 山が欠け、明るい岩肌が露出している。 もろいスレートのような岩肌が裂けるチャンスを待っている。 道端の岩の裂け目からは、おいしいミネラルウォーター。 うっめぇ〜〜! ちめてぇ〜〜!と感歎するも、意識は崖の上。 宿毛湾にたどり着くまでずーっと、左に清流、右に山。 平坦な道のりだったので、予定より早く、小筑紫(こつくし)の老舗と思われる民宿に到着。 ここも、年配のおかみさんが一人で切り盛りしている。 洗濯をしてくれた。

8月11日
快晴。 小筑紫から宿毛市に出て、39番を往復。 すべて、交通量の多い国道。 アスファルトの照り返しとシャーシャーというクルマのタイヤ音の中を歩く。 現代の遍路では、これが最酷の修行、 ま・い・り・ま・し・た!

明治まで 歩く速さの 文化あり

宿毛からバスで愛媛県の御荘(みしょう)町にある40番へ向かう。 13日の高知空港発の帰りの便に間に合うには、朝早く、くろしお鉄道の南風号に乗る必要がある。 したがって、変則だが、この区間は40番から宿毛市へ逆打ちすることにした。 御荘町で、窪津で会った女性遍路に再び遭遇。 後日、彼女から和紙に万年筆で書かれた手紙をいただいた。 東北で、自給自足プロジェクトを試みている主婦。 時計もケイタイもパソコンも待たない純粋アナログ人間。 江戸時代を生きている。

8月12日
快晴。 御荘はどことなく雰囲気のある町。 40番はこの町の中心に位置している。 旅館のおかみさんが、町村合併で「御荘」とい地名が消えてしまうと嘆いていた。 観自在寺(40番)の住職がこの地名を残す署名運動を進めている。 地名が消えれば、文化も消える! 「御荘」の由来は、比叡山延暦寺ゆかりの荘園ということ。
御荘から宿毛へは、今回始めての峠越えの長い古道。 距離が短い国道を行く遍路も多いが、国道からそれて、バスが村々を経由する「四国の道」を一本松町まで行き、ここから遍路道に入る。 一本松の手前で、自転車に乗ったお年寄りに道を尋ねた。 しばらく自転車を押しながら、ぽつりと、「ここに住んで死ぬんが本当によかったけん」という。 さわやかな土地、さわやかな人生がここにある。 「毎年、峠の道の草を刈っとるし」、そして、「こっちは坂がゆるいけん」と付け足す。 「こっち」は伊予、「あっち」は土佐。 松尾峠は標高300メートル、江戸時代は伊予の南(南予)と土佐の南(幡多)をつなぐ唯一の道。 1801年の記録でも、毎日200人以上がこの峠を越えたという。

気配りの とどく範囲も 峠まで

8月13日
快晴。 宿毛発の南風号で高知駅へ。 高知で”よさこい祭り”が終わり、徳島で”阿波踊りが始まった。 

  

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