十三基の石造物




























































































































































































































































































































































































































































































































     友情句歌碑

   近年では、秩父宮勢津子妃殿下、鷹司和子神宮祭主様

   のご参拝を始めとして、神宮大宮司徳川宗敬様、同じ

   く二條弼基様、作家佐藤春夫先生、詩人堀口大學先

   生、評論家で地元出身の保田與重郎先生など多くの文

   化人が参拝されました。境内には万葉歌碑やこれら諸

   氏の句碑・歌碑が十三基建立されており、一大文学の

   森を形成しています。





     《大和にはみささき(陵)多し草もみぢ》

           佐藤春夫(昭和47年11月4日除幕)



等彌神社々頭のかの春夫兄の句碑の脇に、老生の歌碑をお建

て下さるとのこと、これは願ってもない幸せ、よろこんでお

受けいたします。お互いが二十才にもまだならぬ頃から、長

い一生のあいだ老生をいたわり、導き続けてくれたこの友

の、世にたぐいない友情と、これに慕いよる老生の心の後の

世の姿として何ものがこれにまさりましょうぞ。

       昭和48年7月21日大學老詩生 奉納 服部源二



《さきに来て等彌のおん神おろがみし友につづきてわれも拝

む(おろがむ)》

      堀口大學(昭和48年11月23日除幕) 奉納 服部源二




    《草もみぢ友の声かと虫をきく》

      堀口大學 (昭和49年5月5日除幕) 奉納 宮本 滋


       

【左】《栄木(榊)に笹の枝添へて朝日子の道開きませ

    猿田大神》    (※朝日子=神を導く巫女の舞)

   昭和55年5月5日境内社猿田彦大神鎮座祭記念 (前宮司 畤人)

【右】(猿田彦社前碑文)

 御祭神の猿田彦の大神は大土御祖の(おおつちみおや)神

と申す國津神(くにつかみ)なり 状貌魁偉に(じょうぼうか

いい) して鼻の長さ七咫(あた)背(せびら)の長七尺餘また

口尻赤くして光り眼は輝く鏡の如くなり と云ふ天孫降臨

に(てんそんこうりん) 際し天八衢に待ち(あめのやちま

た) 迎え啓行され天孫を高千穂櫛触峯(たかちほくしふるの

みね)に導かれた大神で国土を開拓先導された大地主の神な

り(おおとこぬし)  昭和庚申歳春大祭 (昭和五五年)



     保田與重郎歌碑

《鳥見山の此の面かの面をまたかくし時雨(しぐれ)はよるの

雨となりけり》

(鳥見山のこちら側やあちら側を一再ならず雲でかくして降ったりやんだ

りしていた時雨は、夜に入ってとうとう本降りの雨になってしまった。)

   保田與重郎歌 棟方志功画  (平成11年5月5日除幕)




『茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の歳の知らなく』

[作者・出典] 紀朝臣鹿人『万葉集』巻6−990

『紀朝臣鹿人跡見茂岡之松樹歌』[筆者]   保田與重郎

 [歌の解釈]

茂岡に神々しく立っている千代を待つ木は、年の見当も付かない。

 [注釈]

茂岡(しげおか)は、鳥見山の一角であるといわれている


   棟方志功

棟方志功と長きに渡っての友人であった、奈良県桜井市出身の

文芸評論家、保田與重郎(1910-1981)色紙や短冊、手紙の最後

などに書き添えられていた保田の歌を棟方が板画にした《【火

玄】火頌(かぎろいしょう)》や、保田與重郎と棟方志功の記紀万

葉歌碑の原書(桜井市教育委員会所蔵)

   




    《とみの里流れも今も蓼の花》

 みどり滴る鳥見山をこよなく愛しつづけきて神にささぐる

 石文はわが生涯のあかしなり

       昭和50年7月26日(郷土の俳人 植田青風子)奉納除幕




《妹が目を跡見の崎を秋はぎは此月ごろは散りこすなゆめ》

 (跡見の崎の秋萩は ここしばらくは散ってくれるな

 けっして)   大伴坂上女郎(萬葉集巻八-一五六〇)服部慶太郎筆

 昭和57年5月13日鳥見山中霊畤顕彰会 会長 浅田勝治・シズ奉納


 この歌碑は「令和」の元となる万葉集の序文を記した「大

 伴旅人(おおともたびと)」の妹「大伴坂上女郎(おおとも

 さかのうえのいらつめ)」が詠んだ万葉歌です。




《射目立てて跡見の丘辺のなでしこの花房手折りわれは行奈

 良人のためきなむ》

(鳥見の丘辺に咲く撫子の花 その花をたくさん手折って持っ

ていこう 奈良にいるあの人へのおみやげに)

       紀朝臣鹿人(萬葉集巻八-一五四九)神宮大宮司二條弼基筆

       昭和52年11月25日神宮祭主鷹司和子様 御参拝除幕



《ここをしもとみのゆ庭ときくからに伏しこそ拝め天津(あ

 まつ)み神を》   加茂百樹(広島県の人、元靖國神社宮司)



 《鳥見山の等弥のおん神うけ給へ浪漫の子が奉るぬさ》


 (幣=お供え)堀口大學(平成6年11月24日除幕) 奉納 立道義子



            霊畤拝所

     万葉歌碑

《うかねらふ跡見山雪のいちしろく恋ひば妹が名人知らむか

 も》

(鳥見山に降り積もった雪のように、はっきりと人の目に付くほどに恋した

 なら、私の恋人の名は人に知られてしまうだろうか)

      読人不詳 (万葉集巻十-二三四六) 神宮大宮司徳川宗敬筆

     霊畤拝所

  (大正14年5月26日建設)上津尾社より鳥見山の頂上に向

   かう100m この拝所から東1Kの山中に神籬(ひもろぎ)

   がありました。神武天皇の霊畤(まつりのにわ)として

   伝えられています。左方に上記の万葉歌碑が建ってい

   ます。



《見渡せば大和国原ひとめにて鳥見のゆ庭の跡ぞしるけき》

  この場所は「庭殿」と称し、祭りの饗宴に供された場所

  として伝えられてきました。ここに立つ歌碑は、このこ

  とを桜井町の歌人がその心境を歌につづられたもので 

  す。  (※ゆ庭=斎場)  読人不詳

 これより続く東の丘に「白庭」、鳥見山頂に「霊畤」の碑があります。




白庭

  鳥見山頂上付近に『白庭』という碑が立っているが、

  『城庭』が変化したものとも言われる。『白庭』とは、

  『先代旧事本記 巻三天神本記』中に、『神武東征の前

  にニギハヤヒが磐船に乗って大倭国鳥見の白庭山に天下

  り座す。』とあります。


霊畤

  鳥見山中霊畤について

  「日本書紀」によると、この鳥見山付近は、神武天皇が

  「橿原宮で即位後四年、皇祖天つ神を祭られた」と「霊

   畤」の由来を記しています。(巻第三)「霊畤」とは 

  「まつりのにわ」を意味し大誉祭を行う場所をいいま 

   す。また、鳥見山頂付近は、南北朝時代に戒重西阿氏

   が築いた鳥見山城の跡と云われています。


           鳥見山四方眺望


      東  墨坂や女坂忍坂とりどりに

           神つ代しのぶ宇陀の山々

      西  国原は一目に見えて三つ山も(大和三山)

           呼はば応えむ景色えならぬ

      南  磐舟に昔をしのぶ上の宮


           音羽談らひ高くそびゆる

      北  大三輪の山を間近に金が崎


           佐野の渡りもふもとにぞ見る

         明治三十七年五月社務所にて


  【画 杉本久華】【地名書人 佐藤眞樹雄】【歌 大倉恭助】