立つことの意味 
  
      
                  1989年記述     
1,はじめに
 津村 喬さんから医療をみずからの手に取り戻すために気功を広めるということと、焦 国瑞から立つことの意味の深さを知らされてから、はや10数年になります。
この二つを探し求め、私がたどり着いたのは、医療現場で一人一人に気功を指導していくことでした。その間、立つことについて考え続けていることを少し述べたいと思います。
2,立つことの気功での意味
 立つこと、これほど気功で重要とされているものはありません。家を支える土台がぐらついていれば、建物がどんな立派なものでも住むことができません。何もいわなくても、立ってみればその人がどのくらいの実力があるか一目瞭然です。立って安定するためには、足裏が深く地面を踏みしめていることが大切です。
 焦 国瑞は、「地面に深く根を下ろすように立つ」という練功要領を示しましたが、そのためには意念が下にあることが大切です。意念が下に向かうことによって、運動が下に向かい、足裏が床にぴたっと地面に着きます。
 どのようにして地面を踏みしめているかということは、指導者に足の甲を踏んでもらえば、感覚として理解をすることができます。地面を踏みしめるといっても、全身のリラックスが同時になくては、可能にはならないことはいうまでもありません。力まかせに踏めば、足の甲の表面だけが痛く、ちゃんと踏めば足の甲全体がつぶれるぐらい強く踏んでいることが解ります。足裏に向かう力がすべての身体を下の方向に引っ張り、それによって身体の中心に力が集まり、形としてまとまったものになっているのです。
 下に向かう力があって、初めてその反動として上に向かう力が生まれてきます。吊頂式という言葉がありますが、これは頭から下にぶら下がるのでなく、下からの力が全身を上へと立ち上げていき、最後に百会を上に引き上げていきます。練功は言葉だけを理解すると誤ったものになり、常に体験を通して理解することが大切だと、焦 国瑞もいっています。気功をしていて、身長がわずかに伸びたという人が多いのもうなづけます。下からの運動がすべての身体の中心を貫いてゆき、それまでばらばらだった身体感覚がそれによって統一され、ひとつになっていきます。そして、最後に身体のどの部分を感じても「同じ気持ちよさ」になります。
 視線は、遠くにおくという練功要領がありますが、遠くに視線をおいて景色を見てしまうと、身体が前に引っ張られて不安定になるため、その視線の長さを「身体の内部の意念の長さ」にしてしまいます。意念を身体の中から外に出さないことで、身体の中に力が充満します。気功は、身体の内部の力を育ててゆくものです。意念が中心に集まるその反動で、身体が外に広がっていく力が生まれます。つまり、全身が上下左右に広がってゆくのです。そして、力は外に出ていきませんが、身体の中に充満する力に影響されて身体の外の空間にも「ある流れ」が生まれます。これは、単に外に向かって意念が流れるというものとは違う性質のものです。
意念が外に出ていかないため、風の流れや、樹々の枝が揺れて木の葉の一枚一枚が出す音、鳥のさえずり、空間の広さもすべて身体の内部で響きます。みずからがすべての中心にあること、これが立つことの意味です。
 立つ時、膝は少し曲げると書いている本もありますが、これは正確にはどちらでもよいのです。より正確にいうと、力が足の中心を通って膝関節の間が開いているのです。このことは、全身についてもいえることで、背骨の間も伸びて開いています。むろん、腰骨の部分も胸部も開きながら中心に向かって少し向かいます。站立功にはさまざまな形がありますが、その基本はいかにしっかり立てるかということです。
3,立つことの心理的な意味
 気功の最大の特徴は、ゆっくり動くことでゆっくりした呼吸になること、そのことによってリズムがゆっくりになること、安定して立てるようになることです。そして、それが頭で考えてやるものでなく、身体から学んでいくことが基本にあります。難病の患者さんが問題となるのは、たくさんやることがあると同時に、何もやることがなくなることです。たくさんやることは、病気のことばかり考えること、何もしないのは、暇を持て余してしまうことです。気功は頭で考えることを停止し、身体から学ぶことを始めるために素晴らしいシステムを持っています。
 精神的に不安定な時、身体もふらふらしています。意念が頭に向かうため、地に足が着いていないのです。まず意念を下に下げ、足裏を安定させることが基本となります。
足裏が地に着けば、それによってひとまず身体が安定します上半身がどんなに揺らいでも、とりあえず足裏が地面についていれば、気持ちが安定すると同時に、それなりに立てるものです。そして、立つということは、心身共に「自立」ということを意味します。
 ある患者さんは、ガンの恐怖とともに心も身体もバラバラなまま站B功に入りました。
しかし、だんだんと身体の中には元気な部分もあり、立てる足があり、ゆるやかなリズムが身体の中に流れることを感じることによって、全体から自分自身の病気を考えられるようになってきたと話しました。意念から見ると、最初は病気の部分だけの集中から、身体全体からの視点となったため、病気の占める割合が小さくなったと考えられます。つまり、病気があってもそれによって苦しむ量が減り、病気を引っ張っていけるようになったということです。
 足裏から上に向かってゆく力は、そのまま心身共に自分自身を支える力となります。中心に力が通り、それを基礎に身体を上下左右に広げてゆく力が生まれ、そのことが自分自身の「存在としての大きさ」を自覚させます。病気を持ちながらも、自分が大きいと感じられることは、大きな安定と安心をもたらします。そして、立てば立つほどそれがより大きいものとして「実感」されていきます。
 気功の「気」の作用はきわめて小さなものです。気功とは、中医学の基本的な考え方と同じように、病気を治すのでなく、身体全体の治癒力・生命力を高めていくことなのです。私は、その力は心と身体を含めたすべてを統一していくことによって生まれる「全体の総合力」だと思います。そうした意味において、立つことはきわめて早くそうした地点にたどりつける方法です。 
3、最後に
 医療関係で気功を指導するには、患者さんの病状や気持ちを充分に理解をするとともに、病気を全体からの視点でとらえ、基本的な体力があるか、隠されている生命力などをどうつなげて全体のものとしていくか、相手に合わせたオリジナルな気功のやり方や、意念の使い方、強弱・方向などを考えることが大切です。
 ここでも、立つことが基本となりますが、体力の関係でできなければ、座功でもかまいません。しかし、基本的なことは変わりません。
 立つことの大切さをこれからも考え続けたいと思います。なお、このホームページにある「自己受容と身体感覚」を読んでいただければ、参考になると思います。


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