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#10 東西南北-京(その1)─北京

「京」は日本語でも中国語でも「みやこ」つまり君主の住むところという意味です。「東・西・南・北」を頭につけた「京」についてその歴史をたどっていきます。

まずは北京Beijingです。

中華人民共和国の首都・北京の人口は、市区だけで734万、周辺の8つの県を合わせると1,250万人にものぼります。この町が「北京」と呼ばれるようになったのは、15世紀、明朝の時代からです。

明朝は、モンゴル人の王朝元が滅んだあと、1368年に建てられた漢民族の王朝です。もともと中国南部の江南地方から出た王朝で、建国当初は首都を「南京」に置いていました。ところが、第2代皇帝の時に内紛が起き、燕王に封じられていた皇帝の叔父が帝位を奪うという事件が起こります。彼は永楽帝と称し、自分のホームグラウンドに首都を移し、南京に対して北の都という意味を込めて「北京」と名付けました。1421年のことです。

実は、「燕」は現在の北京を中心とした地方の古名であり、元が「大都」と称して都を置いていた地でもあったのです(元滅亡後は「北平」と呼ばれていた)。永楽帝は新都北京に壮大な紫禁城を築き、以後、北京は明、清朝を通じて約500年間にわたり「中華」の中心であり続けるのです。

北京は、最初に都を置いた元以前にも、華北の有力な都市として栄えていました。50万年前までさかのぼれば、北京原人の骨が発見された周口店は、北京の西南約54kmのところにありますので、このあたりには旧石器時代からヒトが住んでいたということになります。

前1100頃に起こった周の時代には、建国者武王の弟が封ぜられた燕の都(燕京)として、薊(けい)と呼ばれるようになります。戦国時代(前403〜前221年)には、燕は「戦国の七雄」の一つに数えられるほどの強国となりますが、結局、西方の秦に敗れてしまいます。

その後、漢、魏晋南北朝、隋、唐、五大十国、宋と歴代の王朝は、主に長安(現西安)や洛陽といった都市を都としたため、長い間、燕京(北京)が天下の中心となることはありませんでした。

北京の郊外に行くと、長大な「万里の長城」を見学することができますが、あれはもちろん北方からの騎馬民族の侵入を防ぐために築かれたものです。戦国時代にはすでに「燕の長城」が築かれており、秦の始皇帝が各国の長城を結んで北方の守りをさらに固めました。ところが、その長城を超えて、モンゴル軍が中国に侵入し、1271年、中国全土を征服して元を建国します。元は燕京を都とし、ここを「大都」と改称しました。正確には、大都は「冬の都」であり、「夏の都」は内モンゴルの上都に置かれました。

以前、NHKで放映されていた「大モンゴル」シリーズで、大都をCG再現していました。周囲28kmにも及ぶ城壁に囲まれた壮大な町並みでした。この町をマルコ・ポーロも訪れていることになるわけです。

さて、満州族の王朝である清が滅んだのは1912年。前年に起こった孫文による辛亥革命により、中国は共和制国家、中華民国となります。当時、軍閥に支配されていた華北地方を避け、孫文は中華民国の首都を南京に定めたため、北京は再び「北平」に改められました。孫文のあとを継いだ蒋介石は中国国民党を率いて「北伐」により全国を統一していきますが、かたや、中国共産党を率いる毛沢東が台頭し、両者の間で激しい内戦が展開されました。その間、日本軍が中国に進出し、日中戦争が勃発。北平は1937年から45年まで日本軍の占領下に置かれます。

1945年8月、日本の無条件降伏によって日本軍が去ったあと、両党は再び内戦を開始、結局毛沢東が勝利を収め、1949年1月、北京に無血入城を果たします。この年の10月1日、毛沢東が天安門広場で「中華人民共和国」の成立を宣言し、北京は正式に首都とされました。なお、蒋介石は台湾に逃れて「中華民国」を存続させますが、今でも台湾では「北京」ではなく、「北平」と呼んでいるそうです。

05/02/01