やっぴらんど楽しい世界史テーマ史『ダ・ヴィンチ・コード』を読み解く

 イエスの子孫=メロヴィング朝?

イエスとマグダラのマリアの子孫は、フランスのメロヴィング朝の王たちに連なっている──『ダ・ヴィンチ・コード』の中でももっとも驚かされたのはこのことでした。

しかしながら、「メロヴィング朝」と言われてもあまりピンとこない方も多いのではないでしょうか。フランスの王朝? ブルボン朝なら知ってるけど…。ということで、メロヴィング朝について少しおさらいをしておきたいと思います。

古代ローマ帝国の滅亡の大きな要因となったのは「ゲルマン民族の大移動」です。年号の覚え方は「みな来いローマの国へ」。というわけで375年にゲルマン民族の大移動が始まったと教科書には書いてあります。ちなみに、昔は「ゲルマン人の侵入」と呼ばれていましたが、これは決してゲルマン人の軍隊がローマ帝国領内に「侵入」したとかいうレベルのものものではなく、一族郎党引き連れての部族単位の「移住」に近いものだったのです。あとには誰一人残らず、故郷を完全に捨てたのです。なぜこんなことが起こったのでしょうか。アジアから「泣く子も黙る」騎馬民族(フン族)侵入してきたことが確かに直接のきっかけとはなっていますが、それより、人口の増加による慢性的な食料不足、耕地不足が大きな原因となっているようです。

“German”が「ドイツ人」を表すように、ゲルマン民族はもともと、現在のドイツを中心として、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、デンマークあたりに居住していた民族です。ローマ末期からしだいに勢力を拡大し、ローマ帝国とはライン・ドナウ両河で対峙するような格好になっていきました(地図を見ればわかりますが、この両河はアルプスを源流としそれぞれ北海と黒海に向かって流れており、ほぼ一直線で結ぶことができます)。したがって、ゲルマン人の大移動というのは、この二つの川を越えてローマ帝国領内に移動したということを意味します。

ゲルマン民族は、多くの部族の総称です。現ポーランドに住んでいたゴート族(2世紀に黒海北岸に移動)、ヴァンダル族、ブルグント族、ロンバルト族、ライン川下流のフランク族などが、4世紀から6世紀にかけて、それぞれ大移住を開始し、最終的に定住地と定めたところに建国していきます。

そのうち、フランク族だけは少し特殊な移動の仕方をしました。ライン川をヒョイと越えただけで、もっとも移動距離が短いのです。そのうえ、彼らは故郷に決別しませんでした。つまり、移動というよりは、「膨張」だったのですね。他の部族が、長い移動により疲れ切ったところで建国したのとは違い、フランク族はある程度力を蓄えたままガリア(現フランス)北部に建国することができたと言えます。ゲルマン諸国の中で、「フランク王国」がもっとも強大化していくのはこのことが大きな要因となっています。

こうして作られたフランク王国の初代国王がクローヴィス(461-511,位481-511)でした。彼は他のゲルマン部族を次々と破り、ほぼ今日のフランス、ベルギーにあたる部分の統一を達成します(486年)。クローヴィスの祖父メロヴェの名前をとって、彼の王朝はメロヴィング朝(481-751)と呼ばれるようになります。また、首都としてパリが建設されたのはこのときからです。

クローヴィスは、優れた軍師であったと同時に、抜け目のない巧みな政治家でもありました。彼の成功の原因は、一つにはカトリックへの改宗にあると言われます。彼は、496年のクリスマスの日に、3000人の家臣とともにランスの大司教レミギウスの洗礼を受けているのです。改宗の動機は、もともと彼の妻がカトリックであったため、とか、戦場でキリストに祈ったところ、にわかに戦運が変わって勝利を収めることができたため(この話はコンスタンティヌス帝の話と似てますナ)とか言われていますが、要するに、カトリックにしといた方が国内の教会、司教たちを味方につけることができて好都合だったからです。カトリックの教義に心打たれて、というわけではなく、現実的な「御利益」が欲しかったからにすぎません。このへんに彼の抜け目のなさが表れています。蘇我馬子が仏教を保護したのと同じですね。

もちろん、改宗したからといって、クローヴィス自身、特別敬虔な信者となったわけではないようですし。相変わらず粗野で残忍。その人生は陰謀と奸計に彩られたものでした。その血は、彼の息子や孫にも受け継がれたようです。メロヴィング朝の国王や王妃たちは権力や男女関係をめぐる争いに明け暮れ、政治は「宮宰」と呼ばれる“家政の長”に実権を奪われていきます。その宮宰の地位にあったカロリング家のピピンが751年、カロリング朝(751-987)を開くことになるのです。

さて、イエスの死からクローヴィスの出現まで約400年間。その間のイエスの子や孫たちの系譜を歴史的に解明することは不可能です。また、イエス・キリストの子孫であるところのクローヴィスが「カトリックに改宗」というのも考えてみれば変な話です。そもそも歴史が伝える彼の人物像だけを見ると、どうしてもイエスの子孫とは考えにくいのですが…。

クローヴィスがカトリックに改宗したことで、フランク王国とローマ教会との緊密な関係が築かれたことは確かで、それを確固たるものにしたのが、ピピンの息子カールでした。彼は、民族大移動以来の混乱した西ヨーロッパに初めて統一をもたらし、その功績により800年、ローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠を受けたのです。ローマ教会にすれば、西ローマ帝国滅亡(476年)以来失っていた「信仰の庇護者」を獲得することになり、「カール戴冠」は双方に大きなメリットのある出来事でした。

つまり、その後の「西ヨーロッパ世界=カトリック世界」という図式を完成させたのがカロリング朝のカール大帝だとすると、下書きの線を描いたのは、メロヴィング朝のクローヴィスとも言えます。そんなところから、イエスの血脈がメロヴィング朝へ…という説が生まれたのかもしれません。

05/06/06