やっぴらんど楽しい世界史テーマ史オリンピックの話

 最終聖火ランナー 孫基禎

1988年第24回ソウル大会の開会式。

一人の老人が聖火を掲げて競技場に入ってきました。彼はまるで飛び跳ねるようにして笑顔でトラックを半周すると、待ちかまえていた男女の若者2人にトーチを手渡しました。

彼の名は孫基禎(ソン・キジュン)朝鮮民族として初めて金メダルを獲得した英雄もすでに76歳になっていました。ソンの金メダルは苦しいトレーニングの成果といった苦労とは全く別の次元で苦難に満ちあふれたものでした。金メダルを手にしたとき、彼は「朝鮮人」ではなく、「日本人」だったのです。

1936年の第11回ベルリン大会に出場したマラソン代表は、3人のうち2人までが、当時日本が占領していた朝鮮半島から選ばれました。一人はソン、そしてもう一人は南昇龍(ナム・スンヨン)と言いました。実績から見てこの二人が選ばれるのは当然でしたが、「日本人」が一人しか出られないことを快く思わなかった日本陸連は、本番直前に選考レースを行います。それでも結局この二人の出場を阻むことはできず、結果としてソンが金メダル、ナムが銅メダルというすばらしい成績を残すことになりました。

「日本人選手」として日の丸を胸につけて走った二人が表彰式で目にし耳にしたのは、日本の国旗であり、君が代でしたが、二人の活躍をもっとも喜んだのはもちろん朝鮮半島の人々でした。

「東亜日報」は、表彰台に立つソン選手の胸にあった日の丸を塗りつぶした写真を掲載、これが朝鮮総督府の逆鱗に触れ、同紙は発行停止、また当時の社長も追放処分とされました。ソン自身もソウルでの祝賀会は禁止され、歓迎行事も厳しく取り締まりを受けることになりました。日本は、ソンが英雄化されることで、反日抗争の呼び水になることを恐れたのです。

ソン自身も厳しい官憲の監視下に置かれ、自由に外出することさえままならない状況に置かれました。何よりもソンにとってつらかったのは、マラソンを禁止されたことでした。マラソンによって得た栄光が、同時に彼の人生の不幸の始まりを告げることになってしまったのです。

ソンが再びマラソンと関わるようになるのは、日本が戦争に敗北し、朝鮮が独立を回復してからです。彼はコーチとしても優れた才能を発揮し、彼が育てた選手たちが世界的に活躍するようになっていきます。

そうした伝統の中から、ソウル五輪の次の第25回バルセロナ大会(1992年)で金メダルを獲得した黄永祚(ファン・ヨンジョ)のような選手も生まれました。ファンは、日本の森下広一と終盤までデッドヒートを演じた末、森下を振り切ってゴールテープを切りました。56年前には聞くことのできなかった「愛国歌」(=韓国の事実上の国歌)が流れ、メインポールに太極旗が翻りました。

ソンはどんな思いでこの光景を見ていたのでしょうか。

「民族の英雄」ソン・キジュンは、サッカーワールドカップ日韓共催が実現した2002年、享年90歳で亡くなっています。

04/11/22