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 ソ連の有人宇宙飛行計画

 ヴォストーク宇宙船

ソ連初期の有人宇宙船飛行を担ったのが、ヴォストーク(Vostok=東方)宇宙船です。

1961年4月12日午前9時7分、バイコヌール宇宙基地から打ち上げられたヴォストーク1号は、地球を1周して10時55分にボルゴグラード北方に着地しました。乗り組んでいたのは当時27歳のユーリ・ガガーリン少佐。彼は、人類史上初めて宇宙空間を飛んだ人間となりました。彼が帰還後の記者会見で語った「地球は青かった」という言葉はあまりにも有名です。

ヴォストーク1号を打ち上げたロケットは、スプートニク打ち上げにも使われたAロケットに2段目を追加したA−1ロケットでした。ヴォストーク宇宙船は、人間が乗り組む球体部分と機械船の円筒部分から構成され、地球に帰還するのは円形のカプセルだけでした。ガガーリン少佐は一躍「時の人」になり、1962年には来日もしていますが、1968年3月27日、2回目の宇宙飛行に備えた訓練中に乗っていた戦闘機が墜落し、34歳の若さでこの世を去っています。

ガガーリンがなぜ第1号に選ばれたのか、その理由は定かではありません。彼に続いて宇宙飛行したチトフやコマロフの方がはるかに優秀だったという話もあります。ただ、彼の父が大工で、彼自身職業学校出身という身分が、「人民の英雄」というソ連の意図に合致していたということは言えるのではないでしょうか。

ガガーリンの帰還方法について、ソ連は曖昧な態度をとり続けていました。すなわち、カプセルに乗ったまま地上に着陸したかどうかと言うことです。というのは、国際航空連盟(FAI)の規定によれば、航空宇宙の記録においては、パイロットが離陸から着陸まで機体をコントロールしていなければならないとされているからです。上空でカプセルからガガーリンが射出されたとすれば、この規定に抵触することになります。ソ連は、当初カプセルのまま着陸したと主張していましたが、1978年になって初めて彼が上空7000mでカプセルから座席ごと射出され、その後パラシュートで着地したと認めました。ソ連は、自国の領土内に帰還させるため、その後の宇宙飛行においてもこうした方法をとらざるを得なかったのです。FAIの規定を厳密に適用すれば、初の有人宇宙飛行はガガーリンではなかったということになります。もっとも、ヴォストーク宇宙船は、すべて自動装置で操縦され、ガガーリンが宇宙船をコントロールすることはほとんどありませんでしたが…。

ヴォストーク1号はわずか2時間足らずの宇宙飛行でしたが、同年8月に打ち上げられたヴォストーク2号(ゲルマン・チトフ宇宙飛行士)は、丸1日の宇宙飛行をし、1963年6月にはヴォストーク5号は地球を82周し、宇宙滞在119時間6分という記録を作っています。同時期に打ち上げられたヴォストーク6号には、史上初の女性宇宙飛行士であるワレンチナ・テレシコワが搭乗し、ヴォストーク5号と編隊飛行を行ないました。テレシコワは、宇宙からのコールサインで「ヤー・チャイカ(私はカモメ)」と呼びかけ、世界中の話題をさらいました。

 ヴォスホート宇宙船

ソ連は、米国のジェミニ計画に対抗するため、次なる計画に取りかかります。しかし、ジェミニ計画が月着陸を目指すアポロ計画の準備計画であったのに対し、ソ連の場合、とりあえず米国に負けないゾ、という程度の有人宇宙計画でしかなかったのです。つまり、ジェミニ宇宙船が2人乗りならこっちは3人乗りだぜ〜といった子どものケンカみたいなもんですな。

かくして開発されたヴォスホート宇宙船(“ヴォスホート”は「日の出」の意)は、技術的にはそれほど目新しいものはなく、一人乗りのヴォストーク宇宙船に無理矢理3人の宇宙飛行士を詰め込んだものとなりました。そのため、ジェミニ3号(ジェミニ計画で初の有人飛行)より5ヶ月早い1964年10月に打ち上げられたヴォスホート1号に乗り組んだ3人は、重量とスペースを確保するため、なんと宇宙服を着ていなかったということです。翌年3月に打ち上げられたヴォスホート2号に乗り組んだアレクセイ・レオーノフ飛行士は、世界初のEVA(船外活動)を行っていますが、このときは宇宙服を着ないというわけにはいかず、やむを得ず2人乗りとされています。

ソ連の宇宙開発は、共産主義の宣伝のための道具という意味合いが非常に強いものでした。「スプートニク・ショック」で米国を出し抜くことのおもしろさを知ったソ連は、目先のパフォーマンスに終始してしまいます。おかげで、月を目指す本命のソユーズ計画は大幅に遅れることとなりました。そんなソ連の宇宙開発計画をリードしてきたフルシチョフ書記長が1964年10月、ヴォスホート1号の帰還の翌日に解任され、また、技術面のリーダーだったコロリョフが1966年1月に亡くなったこともあり、ソ連の有人月着陸計画はこの後米国に大きく水をあけられることになります。

 ソユーズ宇宙船

米国が着々と月着陸に向けて綿密な計画を進める中で、ソ連も有人月飛行のための宇宙船の開発に取り組んでいました。それがソユーズ宇宙船(“ソユーズ”とは「結合」「同盟」という意味)です。ソユーズ宇宙船は1981年5月までの14年間にわたり、40号まで打ち上げられました。なお、ソ連崩壊後は、ロシアがその計画を引き継いでいます。

1967年4月、ウラジミール・コマロフの搭乗したソユーズ1号が打ち上げられました。しかし、姿勢制御装置の故障により宇宙船が異常回転し、それが原因で大気圏突入後に開くはずの減速用パラシュートが開かなかったため地面に激突、コマロフは死亡してしまいます。ソユーズは、無人の実験段階から事故が起きており、技術的に不安を残しながらの有人飛行だったのです。彼は、米国に負けたくないという愚かな政治上の駆け引きの犠牲者といっていいでしょう。

無人のソユーズ2号、3号に続いて、1969年1月にはソユーズ4号と5号が相次いで打ち上げられ、ランデブーとドッキングに成功しました。このとき、両宇宙船の飛行士がEVAにより入れ替わった上で帰還しています。アポロと違い、ソ連の有人月着陸では、司令船と月着陸船間の移動は船外活動で行われる予定だったので、その予行練習というわけです。

そうこうしているうちに米国ではいよいよ月着陸の本番が迫っていました。アセったソ連は同年2月21日、無人の月ロケットN−1を打ち上げますが、途中で大爆発事故を起こしてしまいます。最後の一発逆転を狙って、アポロ11号打ち上げの2週間前にも同じくN−1ロケットを打ち上げますが、これも爆発。ついに息の根を止められてしまいます。いずれもソ連は無人だったと言っていますが、実は有人だ ったのでは?という憶測も飛びかいました。

こうして月着陸競争に敗れたソ連は、次なる目標を宇宙ステーションに求めました。1969年10月11日から3日間連続で立て続けに打ち上げられたソユーズ6、7、8号は宇宙空間で3連飛行を行い、何度もランデブーの実験を繰り返しています。これは、宇宙ステーションが打ち上げられたときに備えた訓練でした。また、1970年1月に単独で打ち上げられたソユーズ9号は17日と17時間にわたって宇宙に滞在しています。これもまた宇宙ステーションでの長期滞在に備えての実験でした。

1971年4月にはソユーズ10号が、同時期に打ち上げられた宇宙ステーション、サリュート1号とのドッキングに成功、同年6月に、ソユーズ11号がサリュート1号とのドッキング、飛行士の移乗に成功します。しかし、帰還時に衛星の気密が保持できなかったため、3人の飛行士全員が死亡する惨事に見舞われます。ソユーズに3人を乗せるために、彼らは宇宙服を着ていなかったのです。ソユーズ宇宙船はこの後大幅に改良が加えられることになりました。

この後、ソユーズ宇宙船は1981年5月の40号まで打ち上げられますが、1979年から改良型ソユーズであるTシリーズ、ついで1986年からはソユーズTMシリーズが、主に宇宙ステーションとの連絡用として打ち上げられています。現在もTMシリーズは継続されており、2004年4月19日にも、オランダの宇宙飛行士を乗せたソユーズTM宇宙船が国際宇宙ステーション(ISS)に向けて打ち上げられました。

参考文献
『最新 宇宙開発がよくわかる本』中村浩美、1999年

04/05/05