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 米国の有人宇宙飛行計画

 マーキュリー計画

1958〜63年にかけて行われた有人宇宙飛行計画。この計画のために米国最初の宇宙飛行士として7名 が選ばれました。彼らは「オリジナル・セブン」と呼ばれていますが、そのうち1名を除く6名が宇宙飛行を行っています。最初の有人宇宙飛行は、1961年5月のアラン・シェパードによるマーキュリー3号(フリーダム7)によって達成されました 。しかしそれは「弾道飛行」で あり、とりあえず「宇宙」と呼べる空間までロケットによって打ち上げられた、という程度のものでした。地球を回る軌道周回飛行を初めて成功させたのは、1962年2月のマーキュリー6号(フレンドシップ7)です。搭乗したのはジョン・グレン

“オリジナル・セブン”  NASAホームページより

フレンドシップ7は改良型アトラス大陸間弾道ミサイルによって打ち上げられました。ところが自動制御装置が故障するなどいくつかのトラブルに見舞われ、地球を3周したところで帰還することになりました(ジョン・グレンは、1998年のスペースシャトル・ディスカバリーで再度宇宙飛行を行っていますが、このとき彼は77歳でした)。このような失敗を繰り返しながら、その後も有人宇宙飛行が続けられ、計画最後のマーキュリー9号(フェイス7)では地球を22周、飛行時間34時間20分にまで達しました。

なお、マーキュリー計画の宇宙船の愛称にはすべて「7」がつけられていますが、これは選ばれた7人の宇宙飛行士に因んでいます。また、「サンダーバード」に登場するスコット、ジョン、バージル、ゴードン、アランのトレーシー5兄弟の名前は、この7人の宇宙飛行士の名前から取られているそうです。

マーキュリー計画については、映画「ライトスタッフ」に7人の宇宙飛行士をめぐるドラマが描かれています。

 ジェミニ計画

アラン・シェパードによる米国初の有人宇宙飛行を達成から20日後の1961年5月25日、ケネディ大統領は、「この10年期の末までに、人間を月に着陸させ、無事に地球に帰還させるべきだと信じる」 と演説して度肝を抜きました。それは、冷戦まっただ中の国際情勢の中で、宇宙開発で 先行するソ連に一矢を報いたいという米国の決意表明でした。アポロ計画はこれにより国家的な目標となり、人類を月に送り込むための綿密な準備がはじまりました。それがジェミニ計画でした。

月への旅を成功させるためには、解明しなければならないこと、新しい技術を開発しなければならないことが山積していました。たとえば、月までの往復には少なくとも10日間程度の時間が必要であり、そのような長期にわたる宇宙滞在に果たして人間が耐えられるのかどうか。また、月着陸船とアポロ宇宙船のドッキングも必要となるが、そのためには宇宙船の軌道を変えなければならない。場合によっては、宇宙空間での船外活動(EVA)も必要になるかもしれない。EVAは、月面での活動に耐えうる宇宙服の実験にもなります。ジェミニ計画は、計12回の宇宙飛行によりこのような課題をひとつひとつクリアし、その目的をほぼ達成しています。

ジェミニ宇宙船ジェミニ計画での有人宇宙飛行はジェミニ3号(1965年3月23日打ち上げ)からで、マーキュリー計画で弾道飛行を経験しているバージル・グリソムと新人のジョン・ヤングの2人の宇宙飛行士が乗り組みました。ちなみに、“Gemini”とは、ふたご座を意味し、2人乗り用に設計された宇宙船を指します。

ジェミニ宇宙船の特徴は、自分で軌道を変えられることにありました。3号では、この軌道変更能力のテストが行われました。ジェミニ4号以降では、長期間の宇宙飛行の実験が行われました。ジェミニ4号では4日間、5号では8日間、7号では14日間の飛行が行われ、月往復程度の宇宙滞在が生理的には問題ないことが示されました。また、ジェミニ4号ではアメリカ初のEVA(船外活動)が行われました。(写真はジェミニ宇宙船イメージ図 JSC Digital Image Collection より

ランデブー(会合)とドッキング(接続)については、ジェミニ6号と7号が初めて宇宙空間でランデブーし、30cmという至近距離まで近づくことに成功しました。アポロ計画では、月着陸船を引き出す時と月から離陸後の2回のドッキングが必要となります。世界初のドッキングは、1966年3月、のちに初めて月面を踏むことになるニール・アームストロングとデビッド・スコットが乗り組んだジェミニ8号が成功させました。ドッキングの相手は、無人のアジェナ衛星でした。

空気のない宇宙空間でのランデブーやドッキングは、大変難しいテクニックが求められるそうですが、ジェミニ計画で試みられた合計9回のドッキングがいずれも成功しているのは、地上における途方もない訓練のたまものなのでしょう。このような技術がすべてアポロ計画に生かされていくのです。

なお、ジェミニ計画と並行して、無人探査機による月面の調査も行われていました。何度かの失敗を経て、1964年に打ち上げられたレインジャー7号によって初めて月面の写真が送られました。レインジャー・シリーズは、月面に衝突するように設計されており、衝突までに何千枚もの写真を撮り続けました。レインジャー9号が最後に送った写真は衝突の4分の1秒前のものだそうで、月面からの高度にすると60〜70mに相当するのだそうです。無人とはいえ、少々切ない話です。

もっとも、1966年から始まったサーベイヤー・シリーズになってからは軟着陸させる方法に変わり、より詳細な月面の様子を知ることができるようになりました。また、これと同時期に5機のルナ・オービターが打ち上げられ、月を周回しながら月面の撮影が行われました。それらの写真により、月着陸にふさわしい地点が絞り込まれていきました。

 アポロ計画

◎打ち上げ用ロケット

サターンV型ロケットこれまで、宇宙船の打ち上げには、マーキュリー計画前半ではレッドストーン(全長25m)、後半ではアトラス(全長29m)、ジェミニ計画ではタイタン(全長33m)といったように、大陸間弾道ミサイル(ICBM)を改良したものが使用されていました。しかし、月に着陸し、地球に帰還するという使命を帯びたアポロ計画には、従来にない大型のロケットが必要とされます。そこで開発されたのがサターンV型ロケット(「V」はローマ数字の5)でした。これは、全長110m、直径10mというとてつもない大きさのロケットでした。サターンV型ロケットは、下から一段目、二段目、三段目(月着陸船格納部分含む)、機械船、司令船、緊急脱出装置といった部分から構成されます。

打ち上げ時に使われる一段目には、現在のスペースシャトル・オービターのメインエンジン3基分の推力を上回るエンジンが5基も装備されています。合計3400トンもの推力で、2900トンの巨体を宇宙に向けて推し上げるわけです。一段目だけで2000トンあまりの燃料と酸化剤を搭載されていますが、打ち上げの際には、これを約2分半で燃やし尽くしてしまいます。これは、ジャンボジェットが燃やす速さの約300倍にもあたります。

高度約70kmで燃料を使い果たした一段目は切り離され、二段目に点火されると、5〜6分で高度186kmまで達します。二段目が切り離されると、ただちに三段目に点火され、地球の周回軌道に入ります。この間、各部に異常がないかどうかがチェックされ、正常であれば月への軌道に乗ります。ここで三段目が切り離されます。(写真はサターンV型ロケットによるアポロ11号の打ち上げ NASAホームページより)

◎アポロ宇宙船

一般に、アポロ宇宙船と呼ばれるのは、サターンV型ロケットのうち、上部の司令船と機械船を合わせた部分となります。司令船(コマンド・モジュール=CM)は、明治製菓の「アポロチョコ」の形をした、宇宙飛行士が乗り込む部分です。司令船はサターンV型ロケット総重量の0.2%でしかありませんが、全行程を終えて地球に戻ってくるのはこの部分だけです。

支援船(サービス・モジュール=SM)は、飛行中に必要な水や酸素、電気などを供給し、さらに軌道や姿勢を変えるためのロケットエンジンを装備する部分です。また、アポロ計画は月着陸のための計画ですから、当然月着陸船が必要となります。月着陸船(ルナ・モジュール=LM)は、三段目に格納され、三段目が切り離される前に司令船とドッキングして引き出されます。こうして、アポロ宇宙船+月着陸船はセットで月に向かうことになるのです。

◎アポロ11号までの経緯

1967年1月、発射台のアポロ宇宙船に火災が起こり、3人の宇宙飛行士(ガス・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィー)が死亡するという惨事が起こります。NASAは彼らに敬意を表するためにこの宇宙船を公式に「アポロ1号」としていますが、それ以前に無人のロケットが2度打ち上げられていたため、本来は「アポロ3号」となるべきだったのです。そのため、事故後に打ち上げられたアポロ宇宙船(無人)は通算で「アポロ4号」〜「アポロ6号」と呼ばれることになりました。したがって、アポロ2号と3号は存在しないというややこしいことになっているのです。

月平線と地球。アポロ8号より撮影。 

さて、最初の有人宇宙飛行となったのは、アポロ7号でした。 船長はウォリーー・シッラ。マーキュリー計画の7人の宇宙飛行士の一人であり、ジェミニ計画でも宇宙飛行を経験しています。1968年10月、アポロ7号は地球を11日間にわたって周回し、 新しい宇宙船の試験を行っています。

同年12月に打ち上げられたアポロ8号で初めてサターンV型ロケットが使われ、フランク・ボーマン船長以下、ジム・ラベル(のちにアポロ13号で悲劇を体験します)、ビル・アンダースの3人が乗り組みました。アポロ8号は月を10周し、彼らは初めて月の裏側を見た人間となりました。アポロ9号(1969年3月打ち上げ)は、完成したばかりの月着陸船の操縦テストを行ないました。続くアポロ10号(同年5月打ち上げ)は、最終リハーサルでした。司令船“チャーリーブラウン”から切り離された月着陸船“スヌーピー”は月面まで1万4447mのところまで近づきました。そのまま着陸すればまず問題なく成功していただろうと言われていますが、スヌーピーは再び上昇し、チャーリーブラウンとドッキングして地球に戻ってきました。

◎アポロ11号による月着陸とその後

ケネディ大統領の演説から8年。急ピッチで、しかも周到に進められてきた月着陸計画はいよいよクライマックスを迎えます。その主役に選ばれたのは、船長ニール・アームストロング、月着陸船“イーグル”のパイロット、バズ・オルドリン、司令船“コロンビア”のパイロット、マイケル・コリンズの3人でした。1969年7月16日にサターンV型ロケットによって打ち上げられたアポロ11号は順調に飛行を続け、月着陸船の引き出しとドッキングも成功、軌道修正しながら月に向かいました。

月面から100〜300kmの周回軌道に乗ると、アームストロングとオルドリンが乗り移った月着陸船は司令船から切り離され、徐々に減速しながら降下していきます。月面への降下は基本的に自動操縦で行われましたが、着陸地点(静かの海)が見えてくると、そこには予想に反して大きな岩がゴロゴロ転がっていたため、アームストロング船長は高度1000mで急遽手動操縦に切り替えました。着陸したとき、降下ロケットの燃料はわずか30秒分しか残っていなかったという、大変きわどい着陸だったのです。

アポロ宇宙船につけられた愛称
司令船 月着陸船
アポロ9号 ガムドロップ スパイダー
アポロ10号 チャーリー・ブラウン スヌーピー
アポロ11号 コロンビア イーグル
アポロ12号 ヤンキー・クリッパー イントレビッド
アポロ13号 オデッセイ アクエリアス
アポロ14号 キティ・ホーク アンタレス
アポロ15号 エンデバー ファルコン
アポロ16号 キャスパー オリオン
アポロ17号 アメリカ チャレンジャー

2人は月面に降り立つと、米国国旗を立てるとともに、宇宙計画で命を失った5人の宇宙飛行士( ガス・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィー、ウラジミール・コマロフ、ユーリ・ガガーリン)のための記念碑を置きました(ソ連の2人も入っているのが泣かせます)。それから、岩石の採集や写真撮影といった一連の作業を始めました。人類史上初の月面での活動は3時間31分に及びました。地球への「おみやげ」は、計21kgの「月の石」でした。その一部は、翌年開催された大阪万国博覧会において、米国館で展示されています。

アポロ計画は12号以降においても月着陸が行われ、本格的な月面踏査が実施されています。その間、アポロ13号においては、宇宙船の致命的な事故と奇跡的な地球への帰還というドラマも生んでいます。しかし、「史上初めて」ではない月着陸に人々の関心が急速に冷めていったのもまた事実です。結局、アポロ計画は、20号までの予定が17号で打ち切られることになります。月に降り立った人間は6回の着陸合わせてもたった12名にすぎません。

月に人類が立つという壮大な夢は、実現したとたんに幕を閉じざるを得ませんでした。冷静に考えれば、莫大な予算を使ってなぜ月に人間を送り込まなければならなかったのか、東西の冷戦構造が背景にあったことは理解できますが、その理由は今ひとつ明らかではありません。しかし、「夢」にはそもそも理由なんかいらないのです。アポロ計画は、「夢」に対する史上最大の公共投資といえるかもしれません。

参考文献
『宇宙ロケットなるほど読本』(阿施光南著、山海堂、2003年)
※ロケットのルーツからスペースシャトルまで、米ソを中心とした宇宙開発の歴史が大変わかりやすく書かれています。

04/05/05


  

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