やっぴらんど楽しい世界史テーマ史宇宙開発の歴史

 有人宇宙飛行までの道のり

 宇宙ロケットの開発

ヴェルヌが描いたような大砲による宇宙旅行では、打ち出される際のすさまじい加速度によって、乗員は生きていることができません。現実に人間を宇宙空間に送り出すためには、ロケットが必要です

ロケットは、燃料を燃やしたときに発生するガスを吹き出すことによって前進します(ロケットといえば、勢いよく「火」を吹き出している絵が描かれますが、別に「火」でなくても、水でも空気でもいいのです。ペットボトルロケットは水を吹き出すことによって飛びますし、風船の口を放すと勢いよく飛んでいきますが、あれもロケットの原理と同じです)。空気のない宇宙を飛ぶためには、ロケットは自前で用意した酸素(酸化剤)を使って燃料を燃やす必要があります。使われる燃料には、固体燃料と液体燃料がありますが、有人宇宙飛行には主に液体燃料が使われました。

ロケットを使えば宇宙に行けることを初めて具体的に示したのが、ツィオルコフスキー(ロシア、1857−1935) でした。彼はロケットを多段式にして液体燃料を使えばゆるやかに加速することができ、宇宙に行けることをロケット方程式により理論的に証明しました。しかし、彼自身がロケットを作ることはなく、実現は数百年後のことと考えていました。

物理学教授のゴダード(米国、1882−1945) は、ツィオルコフスキーの説を一歩進め、実際にロケットを作製しました。1926年3月16日、マサチューセッツ州の農場で打ち上げられたロケットは、飛行時間2.5秒、最大到達高度12.6mを記録、これが世界初の液体燃料ロケットでした。 その後もゴダードは、ロケットの姿勢を安定させるためにジャイロと舵を組み合わせるなどの工夫を加え、高度3kmまでに上昇できるほどになりましたが、彼の研究にはアメリカ政府の援助が得られなかったこともあり、実用段階に進むことはできませんでした。

一方ドイツでは、少年時代にヴェルヌの小説に感化されたオーベルト(ドイツ、1894−1989)が宇宙飛行を夢見て研究を進めていました。彼が1923年に著した「惑星空間へのロケット」はベストセラーとなり、ドイツでは一種の宇宙ブームさえ起こりました。そして、「宇宙旅行協会」という団体が設立され、理論面だけでなく現実のロケットの開発や実験まで行われるようになります。その会員であり、オーベルトの影響をもっとも強く受けた若者の一人にフォン・ブラウン(1912−77)がいました。

フォン・ブラウンは、25歳の時にペーネミュンデ陸軍ロケット研究所を創設します。つまり、宇宙旅行協会の会員としてドイツ陸軍に協力してミサイル開発に従事することになったのです。宇宙旅行協会はあくまでも宇宙飛行という夢に向かってロケットを開発することに目標が置かれていましたから、軍事目的の開発に参加することに反対の声もあったようです。しかし、フォン・ブラウンらにとっては、陸軍の豊富な資金や人材は大きな魅力でした。彼らは、1942年、ついに世界初の弾道ミサイルA−4を完成させることになります。全長12m、直径1.65m、重量12.7トン、頭部には約1トンの爆薬を積むことができました。

世界初の弾道ミサイル。それは言い換えれば世界初の宇宙ロケットということにもなります。しかし、ヒトラーは当然のことながらこれを軍事目的に利用しました。ヒトラーによって「V2」と名付けられた弾道ミサイルは、何度かの実験ののち、1944年9月に実戦に投入されました。イギリス、フランス、ベルギーなどに向けて、合計3000発ものV2が発射されています。第二次大戦後、フォン・ブラウンのいたペーネミュンデはソ連に占領されますが、彼自身は米国軍に投降し、戦後は米国に渡りました。こうして、約2000発のV2ロケットとともに、彼らのロケット技術は米ソ両大国に引き継がれることになったのです。

 スプートニク・ショック

軍事計画と宇宙開発計画は切っても切り離せない関係にあります。したがって、宇宙開発でリードするということは、軍事力でもリードするということになります。たとえば、ロケットとミサイルは技術的には同じものですから、宇宙空間まで人工衛星を打ち上げられるだけのロケットを持つということは、大陸を超えてICBM(大陸間弾道ミサイル)を相手に打ち込めるということになります。冷戦時代の米ソの宇宙開発レースは、裏返せば軍事力の争いでもあったのです。考えてみれば皮肉な話です。一方は人類の夢をかなえるもの、もう一方は人類の夢を打ち砕くためのものなのですから…。

さて、1960年代前半までの米ソの宇宙開発レースをリードしていたのは明らかにソ連でした。ソ連は、1957年10月4日、史上初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功しました(「スプートニク」はロシア語で「旅行者」という意味)。スプートニク1号は、直径58cm、重さ84kgの金属球で、長さ2.4mないしは2.9mの4本のアンテナからビーコン電波を発しながら地球を回り、主に電波を反射したり吸収する働きをする電離層の観測を行いました。それは、厚いベールに覆われていたソ連の科学技術のレベルが予想以上に高いことを示すとともに、人工衛星を打ち上げることのできる強力なロケットをソ連が所有しているという点で、米国に大きな衝撃を与えました。これがいわゆる「スプートニク・ショック」です。

実は米国は、1955年7月、史上初めての人工衛星を国際地球観測年(IGY)(1957年7月〜58年12月)に合わせて打ち上げる、と発表していたのです。IGYとは、世界中の科学者の参加によって大洋の底から大気の外側まで集中的に共同観測を行い、地球の全体像を明らかにしようというプロジェクトです。人工衛星はまさにIGYにふさわしい観測データをもたらしてくれるものと考えられていました。1956年9月、米国への対抗上、ソ連も人工衛星を打ち上げると発表しますが、当時はソ連の人工衛星計画は非現実的ととらえられていました。しかし、ソ連はフルシチョフ首相の下、“謎の設計責任者”コロリョフを中心として着々とロケットの開発に取り組んでいたのです。スプートニク打ち上げ成功後、コロリョフは次のように述べています。

「今日、偉大な我が国の先人たち(我が国が誇る有名な科学者ツィオルコフスキーもそのひとりだが)が描いた夢が、現実となった。人類は永遠に地球に縛り付けられ続けるものではないと、ツィオルコフスキーは予言した。スプートニクは、彼の先見性に対する最初の実証である。宇宙探検が始まったのだ。」

ソ連はスプートニク1号の打ち上げから約1ヶ月後にはライカ犬が乗ったスプートニク2号を打ち上げました。史上初めて生命体を宇宙に送り出すことに成功したのです。しかも、スプートニク2号は重さ508kgもありました。翌年5月に行われたスプートニク3号には、宇宙の研究を行なうためのさまざまな科学器材が合計968kg積みこまれていました。こうしてソ連は、その後の有人宇宙飛行への道を着々と固めていきました。

参考文献
『宇宙ロケットなるほど読本』(阿施光南著、山海堂、2003年)
『最新 宇宙開発がよくわかる本』(中村浩美著、中経出版、1999年)
『図解雑学 宇宙旅行』(柴藤羊二著、ナツメ出版、2003年)

04/05/05