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 ゴシックの大聖堂  Cathedral of Gothic

ケルン大聖堂 ケルン大聖堂

1880年、ドイツのケルン大聖堂が完成しました。身廊(ドーム)の高さ46m、双塔の高さは157m。北ヨーロッパ最大の聖堂です。

ケルン大聖堂の建築が始まったのは、1248年でした。しかし、資金難から1320年に内陣が完成したものの、1560年以降は建築工事は完全に停止してしまいました。以後、3世紀もの間、南塔には巨大なクレーンが据え付けられたままになってしまいます。

1814年、ケルン大聖堂のオリジナル図面が発見されました。折しも、中世以来、小国家の分立状態が長く続いていたドイツは、ナポレオンの支配からの解放を機に、統一の機運が急速に高まっていました。ゲーテがケルン大聖堂の完成を呼びかける声に賛同したこともあり、ケルン大聖堂は、いつしかドイツ統一と愛国心の象徴となっていきます。そして、1842年、ついに工事が再開されたのです。

ケルン大聖堂は、300年の空白によって、かえって中世のゴシック様式を忠実に再現することになりました。その間に起こった聖堂改築の嵐を避けることができたからです。では、ゴシックとはいったいどのような様式なのでしょうか。(写真:ケルン大聖堂 ドイツ観光局HPより http://www.visit-germany.jp/Default.asp

ゴシック建築とは?

ルネサンスの時期、人々は、それまでの建築様式を「ゴート風の」と呼んで蔑みました。「ゴート“Goth”」 とはゲルマン民族の一派のことで、野蛮人の代名詞でした。“Gothic”(ゴシック)はここに由来します。しかし、これはまったくの偏見であったことは言うまでもありません。そもそもゴシック様式の大聖堂は、ルネサンスを生み出した原動力の一つである都市の発展と密接な関係があるのです。ゴシックの壮麗な大聖堂は、都市の経済的発展のシンボルでした。東京都庁舎がパリのノートル・ダム大聖堂にインスピレーションを得ていると言われるのも、両者がともに都市の繁栄のシンボルであるからに違いありません。

ゴシック建築の3要素と言われるのが、1 尖頭アーチ、2 リブ・ヴォールト、3 飛び梁(フライング・バットレス)です。尖頭アーチは、従来の半円アーチと比べ、視線を上へと導く効果があります。 「ヴォールト」とは、アーチの原理を利用して作られた石造やれんが造りの屋根、天井のことを言いますが、内輪に突出した棒状のリブを持つものをリブ・ヴォールトと呼びます。ヴォールトによって生じる水平力を支えるため、身廊の外壁から、外側に設けられた控え壁に斜めに架け渡されたアーチをフライング・バットレスと言います。つまり、「突っかえ棒」のようにして身廊が外に傾こうとする力を支えるのがフライング・バットレスの役割なのです。この飛び梁のおかげで、窓を広く取り、ステンドグラスをはめ込むことが可能となったのでした。 パリ大聖堂(ノートル・ダム)の東側の内陣を支えるために周囲に張り巡らされたフライング・バットレスは、まるでロケットのような景観を与えています。

ゴシック建築はよく「針葉樹林」にたとえられますが、その高い幹は、控え壁やフライング・バットレスといった「枝」によって支えられていると言えます。

ゴシック様式の教会と言えば、真っ先に思い浮かぶのが美しいステンドグラスです。前述したように、ゴシック建築は、窓を広くとることを可能にしました。その窓には、様々な色彩に彩られたステンドグラスがはめ込まれ、堂内をを神秘的な光で満たしました。その空間は、宗教的な世界の中に生きていた中世の人々にとっては、まさに「神の国」を表すものだったことでしょう。

ゴシック建築の高さ競争

建築技術の進歩は、一方で、ゴシック建築に高さへの挑戦をもたらしました。下の表は、ゴシック誕生の地といわれるフランスのイル・ド・フランス地方 (パリを中心とした半径100kmほどの地域)におけるゴシック大聖堂の高さ(身廊の高さ)を比較したものですが、約100年の間に、ほぼ2倍の高さになっていることがわかります。ボーヴェー大聖堂の48mという天井の高さは、当時としては驚異的な高さでした。しかし、この大聖堂は、完成からわずか12年で天井が落下してしまいます。このあたりが石造建築の限界とも言えるでしょうか。

名称 建築年代 高さ
サンス大聖堂 1140年頃〜 24m
ラン大聖堂 1160年頃〜 24m
パリ大聖堂(ノートル・ダム) 1163年〜 32m
シャルトル大聖堂 1194年〜 34m
ランス大聖堂 1211年〜 38m
アミアン大聖堂 1220年〜 42m
ボーヴェー大聖堂 1247年〜 48m

再びケルン大聖堂

中世ドイツには、約3000の都市があったと言われていますが、そのほとんどは人口1万人未満の小さな都市でした。これはドイツに限ったことではなく、例えば、フランスのアミアンも人口約1万人で、7,700uの床面積を持つアミアン大聖堂は、そのすべての住民を収容できたと言われています。12世紀頃のケルンは、例外的に3万人の人口を抱える大都市であり、ライン川を結ぶ毛織物交易の要衝として、繁栄を極めていました。

ケルンの教会には、もともと、十字軍の際に“赤髭王”フリードリヒ1世がミラノから持ち帰った「東方三博士」の遺骨が納められており、折からの聖遺物ブームにのって、各地からの巡礼でにぎわっていました。このような状況のもと、市民の間に、古い大聖堂を建て替えようとする機運が盛り上がったのは当然のことでした。14世紀になると、ケルン大司教は神聖ローマ皇帝を選ぶことができる七選帝侯の一人となり、政治的な権力まで手中に収めます。

ところが、16世紀になると、宗教改革によって宗教的権威は失墜し、さらにそれに続く三十年戦争が国土の荒廃をもたらしました。さしものケルンの繁栄にも翳りがさしてきます。これと歩調を合わせるかのように、ケルン大聖堂の建築も中断します。まさに、ケルン大聖堂の建築は、ケルンの繁栄と衰退を象徴しているのです。

「ケルン」の語源は、「コロニア」すなわちローマ帝国時代の「植民市」(帝国の北の守りを固める軍隊駐留地)です。18世紀、その同じイタリアから一人の商人がケルンにやってきます。彼は、オレンジのエキスをアルコールで溶解して、一種の芳香剤を発明しました。「香水」という商品を開発したのです。それは、ケルンの名をとってオー・デ・コロンEAU DE COLOGNE、フランス語で「ケルンの水」の意)と呼ばれました。今でも、大聖堂前にある 店「4711」がオー・デ・コロン発祥の地として知られています。

「ケルンの水」は、ナポレオン軍の兵士たちが妻や恋人にお土産として持ち帰ったことによって、瞬く間にフランスに広がりました。ケルン大聖堂の完成と同様、ここでもナポレオンが一役買っているのです。

参考文献
『図説 大聖堂物語』佐藤達生・木俣元一著(河出書房新社)
『西洋建築様式史』(美術出版社)
『週刊朝日百科 世界100都市053 ケルンとライン地方』

03/10/10