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 自由の女神  Statue of Liberty

自由の女神01

「アメリカ横断ウルトラクイズ 」

ブッシュ大統領の「9.11追悼演説」は、画面の左手にライトアップされた自由の女神を配した印象的な映像とともに語られました。画面右側に見えていた星条旗とともに、アメリカ人にとっては、自由の女神はまさに国家のシンボル的な建造物と言えるのでしょう。

自由の女神は、ニューヨーク港に浮かぶリバティ島に、マンハッタンを背に、大西洋の彼方を見つめながら立っています。(左写真はhttp://www.nps.gov/stli/より)

日本では、自由の女神といえば「アメリカ横断ウルトラクイズ」を思い出す人も多いと思います。そのしょっぱな、後楽園球場(現東京ドーム)で行われる○×クイズは、必ずといっていいほど自由の女神に関する 問題が出題されました。そこで、まずはウルトラクイズの自由の女神関連のクイズの一覧です!(参考:http://www15.tok2.com/home/kazuog/Index.htm

問 題 回答(※ドラッグしてください)
第2回 問1)ニューヨークの自由の女神がたいまつを持っているのは左手である。 × 左手で持っている。
第4回 問1)ニューヨークの自由の女神像は石で出来ている。 × 銅でできている。
第5回 問1)ニューヨークの自由の女神は裸足である。 × サンダルを履いている。
第6回 問1)ニューヨークの自由の女神は、贈り主フランスの方を向いている。 × 移民を迎えるために南東に向けられた。フランスは東北東にあたる。
第7回 問1)自由の女神のお返しに、アメリカの人々も、フランスへ自由の女神を贈った。 ○ 1885年フランス在住のアメリカ人有志が集めたお金で建てられた。作者はどちらも彫刻家バルトルディ。
第8回 問1)ニューヨークの自由の女神と上野の西郷さんの銅像は同じ方角を見ている。 ○ 西郷さんは,南南東の東京湾の外を見ている。自由の女神も同じ方向。
第10回 問1) ニューヨークの自由の女神。除幕式の幕はフランス国旗であった。 ○ 除幕式の幕はフランス国旗で,女神の顔だけを覆っていた。作者のバルトルディ自身が幕を除いた。
第11回 問1) ニューヨークの自由の女神はアメリカ大統領から名誉市民の称号を受けている。 ○ 名誉市民の称号を受けたのはチャーチル元イギリス首相と、スウェーデンの元外交官ワーレンバーグ氏の2人のみ。
第12回 問1)ニューヨークの「statue of liberty(自由の像)」を日本語で自由の女神と訳したのは、第二次世界大戦後である。 × 昭和3年に発行された『大日本百科全集・世界めぐり』の中で紹介されている。
第13回 問1)ニューヨークの自由の女神はかつて灯台だった。 ○ 今は灯台ではない。
第14回 問1) ニューヨークの「自由の女神」には、災害や事故に備えて、損害保険がかけられている。 × 大統領の権限により、議会の投票で資金を集め修繕することになっている。
第15回 問1) アメリカの象徴「自由の女神」を、他の国が国旗に採用してもアメリカの許可はいらない。 ○ 「自由の女神」の肖像権はPublic Domain。つまり、消滅している状態にある。
問2) 1886年、「自由の女神」の除幕式に日本人も招待されていた。 × 自由の女神の除幕式招待者リストには、日本人の名前は一人も記載されていない
問3) 自由の女神は、ユニセフから母の日にカーネーションを贈られる。 × そのような事実はない。
第16回 問1)ニューヨークの自由の女神像、Statue of libertyがアメリカ合衆国の硬貨に描かれたのは、1986年、100周年記念のときが初めてである。 ○ 自由の女神は何度も用いられているが,Statue of libertyが用いられたのは,100周年記念が初めて。
問2)アメリカの象徴「自由の女神」。アメリカ海軍には現在その名を持つ軍艦がある。 × そのような軍艦は無い。
第17回 問1)自由の女神が建てられた時、女神はニューヨークで一番高い建造物になった。 ○ 当時は一番高かった。
問2)日本の歌謡曲で「自由の女神」という題名の曲があった。 ○ 黛ジュン,かまいたちなどが歌っている。
問3)「自由の女神」がデザインされた、米国の入国スタンプがあった。 × 使われたことはない。
問4)ソフトクリームの形のモデルは、「自由の女神」のトーチである。 × そんなわけない。

参加者が事前に自由の女神についてしっかり予習してくるためか、問題がどんどんカルト的になっていくのがよくわかりますね…。出題者の苦労がしのばれます。

自由の女神の建造過程

ウルトラクイズにも出てくるように、自由の女神がフランスからアメリカへの贈り物だったことはよく知られていますが、今のフランスとアメリカの関係からすると考えられないほど両国はかつて親密な仲だったのです。フランスと仲が悪かったのは伝統的にイギリスでした。14世紀から15世紀にかけて行われた英仏百年戦争を挙げるまでもなく、“新大陸”アメリカの領有をめぐってもこの二つの国は熾烈な争いを繰り広げました。18世紀半ばの七年戦争に勝利したイギリスでしたが、北アメリカ植民地に様々な圧力をかけたため入植者の反感を招き、独立戦争(1775〜76)が起こります。フランスはここぞとばかりに、イギリスと戦うアメリカ植民地を支援しました。そのおかげもあって、アメリカは独立戦争を戦い抜き、1776年7月4日、晴れて独立を宣言するわけです。

アメリカとフランスは、共通の敵イギリスの存在によって、その後も友好関係を保ちました。そんな友好のしるしとして、アメリカの独立100周年を祝ってアメリカに像を贈ろう、と最初に発案したのは法学者・歴史家であるエドワール・ド・ラブレーでした。フランスは、アメリカ独立に刺激されて起こったフランス革命後、ナポレオンの帝政、共和制と変動し、19世紀半ばにはナポレオン3世が帝政を敷きます。ラブレーは、ナポレオン3世の帝政に反対し、共和制復活運動を展開していました。彼にとってアメリカの民主主義は、一つの理想の姿だったのです。 1871年、ナポレオン3世が失脚すると、「アメリカに像を贈る大作戦」はにわかに具体的に動き出します。1874年、ラブレーから依頼を受けた彫刻家のフレデリック・オーギュスト・バルトルディがいよいよ製作に着手しました 。なお、骨組み部分を設計したのは、前項でも述べたように、のちにエッフェル 塔を建てることになるエッフェルです。巨大な女神像の建造には大変高度な技術が求められました。バルトルディは最初に小さなテラコッタ製の模型を作り、それを順次拡大していきました。この過程で、何千回もの精密な計算や測定が必要となったのです。バルトルディは、「自由は世界を照らす」というコンセプトのもと、 古代ローマの伝統に従い、女性(女神)を自由のシンボルにしようと考えました。悩んだのは女神の「顔」でした。苦悩の挙げ句、彼は、ドラクロワの描いた「民衆を導く自由の女神」(三色旗を手にした自由の女神が銃を持つ民衆を先導している絵。ドラクロワは1830年のフランス7月革命に触発されて、この絵を描いた)と、自身の母親の厳格なイメージを合わせ持った顔にしたのだそうです。

アメリカ独立100周年までタイムリミットは2年。しかし、建設費が予想以上にふくらんでしまい、その調達に苦慮したため、完成は大幅に遅れることになります。 発案者ラブレーは資金集めに奔走しました。記念像建造キャンペーンが開始され、宝くじが発行されたり、1878年のパリ万国博に完成した頭部を展示したりしました(像の中に入ることができた!)。キャンペーンのおかげで寄付金も徐々に集まるようになり、40万ドルを集めることに成功しました。 像は1884年に完成し、仮組みされた女神は、しばらくパリ市内に立てられていましたが、翌年、像は214個に分解され、海路ニューヨークに向かいました。ところが、もともとアメリカが作るはずだった台座が資金不足のため完成していなかったため、せっかくの像を立てられないという事態が起こりました。これに対し、当時、「ワールド」社の社主を務めていたジョセフ・ピューリッツァ(「ピューリッツァ賞」の生みの親)は、台座の建設基金のキャンペーンを張ります。「フランスが友好の証として女神を贈ってくれるのに、アメリカはその台座さえも用意できないのか」──社説に載ったこの呼びかけはアメリカ人の 愛国心をくすぐ らざるを得ませんでした。あっという間に資金が集まり、ニューヨーク湾に浮かぶベドロー島(現在は改称されてリバティ島)にめでたく台座を完成することができました。こうして、建国100周年から遅れること10年目の1886年10月28日、クリーブランド大統領が見守る中、顔を覆っていたフランス国旗がバルトルディ自身の手によって除かれました。ここにフランスからの自由という名の贈り物がついに成就したのでした。

女神像の御姿拝見

自由の女神は、像そのものの高さは46mです (ちなみに、世界で最も大きな「像」は、ロシア・ボルゴグラードにある「母なる祖国の像」で、高さ51m。1967年完成)。ただし、台座部分が47mありますので、合計すると高さ93mということになります。顔の幅3m、目の幅0.8m、鼻の長さは1m以上、腕の長さは13mあります。全体が緑色に見えるのは、表面を覆っている銅板が年月を経て酸化して変色したためです。

さて、女神が左手に掲げるたいまつは、希望の象徴です。このたいまつ部分は、当初灯台として機能する予定でしたが、逆にその灯りが雲に反射して船の運航に支障を来すおそれがあるということで、中止になりました。左手に抱えているのは本ではなく、アメリカが独立を宣言した日「1776年7月4日」をローマ字で刻んだ銘板です。王冠部分には、7つの突起が見えますが、これは7つの大陸、7つの海に自由が広まることを表しています。この部分は、展望台になっており、ここまで行くためには171段のらせん階段を登らなくてはなりません。

モモちゃんなお(?)、青森県おいらせ町(旧百石(ももいし)町)には、本物の4分の1の大きさ(20.8m)の自由の女神像があるんです。「日本最大」の自由の女神です。旧百石町はニューヨークと同じ緯度(北緯40度40分)に位置していることから、例の「ふるさと創生資金」の1億円で作られました。強化プラスチック製で、愛称は「モモちゃん」だそうです。(左写真=旧百石町ホームページより )

自由の女神と移民たち

完成後に土台部分に刻まれたエマ・ラザロスの詩「つかれはて 困りはてた あわれなる人々よ 自由を求める人々よ さあ ここへ集まりなさい」の通り、この像は、ヨーロッパからの移民たちが船上から最 初に目にする自由と希望と民主主義のシンボルでした。映画「海の上のピアニスト」での冒頭、女神像を発見した男が、感極まって「America!─」と絶叫するシーンが ありましたが、故郷をあとにした長い航海の末に、甲板の左手に女神像を発見したときの喜び、そして待ち受ける新天地での生活に対する不安は想像するに難くありません。彼らはニューヨーク湾に入ると小型船に乗り換え、リバティ島のすぐそばの移民局のあるエリス島に上陸します。ここで彼らは入国審査を受け、晴れて「アメリカ人」となったのです。自由の女神は、こうした移民たちをずっと見守ってきました。自由の女神を訪れる観光客は、年間300万人を数えるそうですが、移民を祖先に持つ多くのアメリカ人にとっては、ここは単なる観光名所ではなく、自分のルーツを感じることができる特別な場所、であるにちがいありません。

03/03/02


  

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