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 “鉄の貴婦人”エッフェル塔  Eiffel Tower

エッフェル塔建設をめぐる論争

エッフェル塔011889年はフランス革命勃発100周年という、フランスにとって記念すべき年でした。その記念事業として、パリ万国博覧会 が開催されることになりました。大統領をはじめとする政府要人たちは、博覧会の目玉として巨大な塔を作ろうと考え、「建築コンクール」を実施し、その入賞作品がエッフェル塔だったのです。エッフェル塔を設計したのは、ギュスタフ・エッフェル社長を筆頭とするエッフェル社の技術者たちでした。

「鉄の貴婦人」との異名を持つエッフェル塔ですが、石造りの建築が芸術とされていた当時は、鉄骨むき出しの建造物は芸術にはほど遠い「無用で醜悪な」ものに見えたようです。設計案が公表された後に芸術家たちがパリ市の土木部長にあてた「抗議文」を見ると、「エッフェル塔は商業主義のアメリカでさえ欲しがらない代物であり、パリの恥である。」「塔という野蛮な塊は、巨大で黒々とした工場の煙突のようにパリを支配し、(中略)歴史的建造物はすべて影が薄くなってしまうだろう。この先20年間、何世紀にもわたる歴史のあとをとどめるパリの空に、ボルト締めされた鉄板製の醜悪な円柱の醜い影が、インクのしみのように広がるのが見えるだろう」 (フレデリック・サイツ著『エッフェル塔物語』より)と容赦ありません。これに対して、エッフェルはどのように反論したのでしょうか。

まず彼は、まだできてもいない建物についてとやかく言うのはよしてくれ、と断った上で、「塔の持つ美しさ」についての次のように宣言しています。「私は、塔には独自の美しさがあると思う。(中略)巨大な基礎部分から出ている、塔の4つの稜の曲線は、頂上に行くに従って細くなっているが、力強い美しさが感じられるものと思う。全体に大胆な構想であることがはっきり分かるだろう。鉄骨が複雑に組まされているのは、強風に対する抵抗を弱め、塔の安定を図るためである。」「塔は人類史上、最高の建物となるだろう。壮大というべきであろう。エジプトで賞賛されているものが、なぜパリでは醜悪なものとなるのだろうか?私にはどうしても納得できない」 (前掲書)。

「エジプトで賞賛されているもの」とは、古代エジプトのオベリスクを指していると思われますが、エッフェルの「塔」に対する熱い思いと誇りが十分伝わってきます。 しかし、反対運動は、塔の建築中だけでなく、完成後も続きました。300mの高さから見下ろすパリの景色に誰もが驚嘆の声をあげたにもかかわらず、塔の撤去運動が起こるのです。

エッフェル塔の建設

1887年1月28日、塔の建設工事が始まりました。 エッフェル塔は、1万8038個もの練鉄の部品からできています。練鉄は溶接できないため、リベットでつなぎ合わせる必要がありました。250万個ものリベットを打つ場所を示す設計図は、5300枚にものぼったそうです。建設には、エッフェルの発案で、工場で部品を作りそれを建設現場では組み立てるといういわばプレハブ工法が採用されたため、工事期間は大幅に短縮されました。起工からわずか26ヶ月後の1889年3月31日には落成式を迎えています。

エッフェル塔の高さは全体で300.65m(1959年に塔の最上部にラジオアンテナが取り付けられ、現在は高さ320m になっています)。当時の世界最大の建造物は、1884年に建てられた高さ161mのアメリカのワシントン記念塔でしたから、エッフェル塔はその2倍近い高さとなりました。 1階は57m、2階は115m、そして最上階の3階は276m。東京タワーは高さ333mですが、第2展望台の高さは250mですから、一般用の展望台としてはエッフェル塔の方が高いということになります。 1階には展望回廊のほか、劇場やレストランもありました。

これだけの高さですから、当然エレベーターが必要となります。エッフェル塔には当初3社のエレベーターが採用されました。 1階まで行くガラス張りのエレベーターが4台(脚に沿って斜めに登りました)、2階まで登るのが2台、さらに最上階まで達するのが1台作られました。当時は水圧式が主でしたが、もちろん現在は電動式 のものに付け替えられています。ちなみに、3社のうち「オーティス社」は、世界で最初に人間が乗れるエレベーターを作った会社で、現在でも世界のトップメーカーです。日本でも時折オーティス社のエレベーターを見かけますね。

エッフェル塔の美しさ

エッフェル塔02エッフェル塔は、1階部分が全体の1/5の高さのところに位置しているため、全体的に安定感を与えるシルエットになっています。1階まではわりと緩やかな傾斜を見せておきながら、そこから急速に傾斜が激しくなり、最上階に達します。腰高でスマートな印象を与える東京タワーとは明らかに印象が異なります。また、塔の色も(何度か塗り直されています)落ち着いたベージュがかった茶色で、パリの街並みとも自然に溶け合っています。周囲の光景との調和 という点でも、東京タワーにはない「意図性」を感じます。もっとも、東京タワーも周囲の無機質なビル群の中では立派に“調和”していると言えるのかもしエッフェル塔03れませんが…。

しかし、エッフェル塔の真骨頂は、ミクロの部分にこそあるのではないかと思います。「鉄のレース細工 」とも称される細い鉄骨の幾何学的な組み合わせ方の何と凝っていることか。もちろん、そんな細部の美しさが、マクロの視点で見たときの塔全体の優美さを演出しているのは間違いありません。


■エッフェル塔その後

エッフェルは、エッフェル塔をめぐる事業の基盤を固めるべく、1888年12月、エッフェル塔株式会社を設立します。完成後のエッフェル塔はすさまじいまでの人気を博しました。一般公開第1週目から、まだエレベーターも動いていないのに2万8922人が徒歩で塔に上ったという記録が残っています。万国博の成功もあり、エッフェル塔株式会社はかなりの収益を得ました。

もともとエッフェル塔は、建設にあたり、公共団体(パリ市)が一民間企業(エッフェル社)に塔の建設と資金の調達を任せ、エッフェル社は一時的に(20年間)塔の営業権を得るというシステムでした。今で言うPFI的な方法ですね。塔の建築総コストは約780万フランでしたが、1889年にエッフェル塔株式会社が得た収益は早くもそれに迫る657万フランにのぼりました。株主は1年後には償還を受け、10年後には配当金が支払われています。こうして、エッフェル塔は営業面でも大成功を収めたのです。現在は年間600万人が上るパリの代表的な観光名所となっています。2002年12月4日付けの読売新聞によれば、入場者数が2億人に達したとか。1億人に達したのが1983年だそうですから、この20年間で1億人が塔に上ったということになります。

さて、パリ市との契約により、エッフェル塔は20年後の1909年にパリ市の手にわたり、取り壊される運命にありました。もともと万国博のパビリオンだったわけですし、反対派の取り壊しを求める声も依然として根強いものがありました。しかし、エッフェル塔を救ったのは、エッフェルが建設当初から主張していた研究や科学実験の場としての塔の有用性でした。最初に塔が役立ったのは、気象の分野でした。塔の頂上に気象観測所が設置されたのです。その後、空気力学(エッフェル自身がこの研究にのめり込み、その成果はのちの航空学の発展に大いに寄与したと言われています)、電信、物理実験など、さまざまな科学分野でエッフェル塔が実験に使われました。特に、無線電信においては、軍事用無線アンテナの設置場所として利用され、第一次世界大戦ではドイツ軍の無線を傍受して侵攻を阻止したり、エッフェル塔は軍事的にも不可欠のものとなっていきます。もちろん、電信分野では、その後ラジオやテレビ放送のアンテナ塔として重要な意味を持つことになります。

エッフェル塔は、第二次世界大戦中、ドイツに接収されます。ヒトラーがエッフェル塔に上ろうとしたところ、突然エレベーターが故障 し、やむなくヒトラーは最上階まで階段で上 ったのだそうです。エレベーターの故障は、その後1944年6月のパリ解放の時、ねじをひとひねりしたら直ってしまったそうです。

さて、エッフェルは、エッフェル塔建設以前、「自由の女神」の骨組み部分の設計を担当しています。次は、ほんの少し時代をさかのぼり、自由の女神の建設について触れます。

掲載写真はすべて「写真旅行」より 転載しています。
参考文献:フレデリック・サイツ著、松本栄寿・小浜清子訳「『エッフェル塔物語』(玉川大学出版部、2002)

03/02/21