1 竹簡・木簡・布帛
中国の文字、漢字のルーツは甲骨文字です(漢字のルーツ─甲骨文字参照)。
中国では文字は最初 、その名の通り亀甲・獣骨に刻まれ、占いの結果を記すためのものでした。そしてしだいに中国独特のスタイル、すなわち、竹や木、あるいは絹に墨で記され、保存されるようになっていきます。竹を細長く縦に割ったものを竹簡といいますが、これにひもを通して何本かを束ねたものを「策」もしくは「冊」と呼びました。「冊」は文字通り竹簡を束ねた形そのものからできた漢字で
、当時は書物そのものを意味していました。本を数えるときの「1冊2冊」はここから来ています。また、漢字の記述方法が基本的に縦書きで、右から左へと書いていくのは、竹簡の形式に由来しているのです。
竹に文字を書く場合、生の竹に墨で文字を書くことはできません。緑色の表皮を削り取ったのち、火で乾燥し
、腐敗を防ぐ処理(「殺青」と呼ばれました)が必要でした。また、一度書かれた文字も、それを削り取ることによって竹簡の再利用ができます。
一方、中国発祥の絹布に文字を記す方法(布帛=ふはく)も
、遅くとも春秋戦国時代(前8〜前3世紀)にはすでに行われており、秦・漢代には広く普及したようです。絹は、衣服の材料として用いられるだけでなく、貨幣として
、あるいはこのように文字を記すメディアとしても使われていたのです。
史上初めて中国を統一した秦の始皇帝は、中央集権政策の一環として言論思想の統制を行いました。すなわち 、前213年、農・医薬・卜筮(ぼくぜい)以外の書物を焼かせます。そしてこれに抵抗した儒者たち460余人は、翌年、生き埋めにされて殺されてしまいました。これが「焚書・坑儒」です。後年の儒学者によって多少オーバーに伝えられている向きもあると言われますが
、この言論弾圧によって、中国の貴重な古典が多数消滅してしまったことは確かなようです。焚書というと、何か今でいう「本」がメラメラと燃やされているシーンを想像してしまいがちですが
、実はこの時代の「本」はまだ竹簡・木簡・布帛だったのです。
中国諸王朝による官府蔵書の歴史は、漢の高祖劉邦に始まります。彼は、秦の教訓から学術の振興に力を注ぎ 、宮廷に「蔵書処」を作って典籍の収集と古典の復刻整理の事業も行っています。これが中国で最初の図書館ということになるでしょうか。また
、武帝(前2世紀)は、五経博士を置くなど儒学の国学化に努めるとともに、図書の編纂整理を命じています。この方針は前漢、後漢を通じて受け継がれ、同時に、蔵書を整理し
、目録を編纂する事業も行われました。これは、中国における「目録学」の発達の基礎となります。
漢代はまた、個人の蔵書も発展を見た時代でした。景帝(前2世紀)の時代、図書の禁令が解かれてからは 、学者たちの間で私的な蔵書づくりの試みが始まっていました。ある学者などは4千余巻もの蔵書を有していたといわれています。後漢末期には「書肆(しょし)」が出現していました。これは書物を売る市場で
、学者たちはこうした場所で本を手に入れていたのです。
2 紙の発明と伝播
のちにヨーロッパに伝えられ
、印刷術と結びついて文化の伝播に極めて大きな功績を果たすことになる「紙」は、中国で発明されました。
紙の発明者は、後漢の時代の宦官、蔡倫(さいりん)とされています。『後漢書』によれば
、「古来、書籍は竹簡によって編纂され、絹布を用いたものについては、“紙”と呼んでいたが、絹は貴重なものだし、簡は重くかさばるので、いずれも不便であった。そこで蔡倫は
、工夫をこらして樹皮や麻くず、ボロきれ、魚網を用いて“紙”を作った。元興元年(105年)に、これを奏上したところ
、皇帝はその才能を誉め讃え、それ以後、このやり方による紙を採用することとなって、天下ではみな“蔡侯の紙”と呼んだ」と記述されています。
実は、蔡倫以前に中国では紙の製法が試みられていました。つまり、繊維質のものをどろどろに溶かして薄く延ばしたものを「紙」と呼ぶならば 、それは前漢時代からすでに使われていたのです。いずれにしても、「重い簡、高価な帛」に代わり、軽くて廉価な紙は一躍書写材料として広く用いられるようになりました。
中国では製紙法を国外に伝えることは固く禁じられていました。そのため、紙の製法が東西世界に伝わるまでには長い時間がかかりました。朝鮮半島に伝わったのは4世紀の末
、日本には高麗の僧・曇徴(どんちょう)によって、蔡倫から実に500年の時を経た610年頃に伝えられています。日本でも製紙法の研究がさかんに行われ、材料として麻
、雁皮(がんぴ)、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)等が使われるようになります。こうして生まれた良質の和紙は
、文字を記すことはもちろん、提灯、傘、うちわといった日用品から、障子、ふすまのような建築の材料としても用いられていくのです。
西方では、唐の時代、イスラム王朝(アッバース朝)とのタラス河畔の戦い(751年)で捕虜となった中国人の中に製紙職人がいて 、彼によってイスラム世界に伝えられたと言われています。製紙法はイスラム帝国の版図を西伝し、エジプト(10世紀)
、モロッコ(12世紀)、スペイン(1144年)を経て13世紀にはイタリアに伝えられました。
(3)敦煌文書の発見
イギリスの探検家・地理学者スタインは、1907年に敦煌・莫高窟の石窟から大量の紙に書かれた写本を発見しました。これは紙に書かれた写本の中では最大の発見であり
、のちに「敦煌文書」と呼ばれ注目を集めます。この3万点にも及ぶコレクションの大部分を占めているのが仏教の経典でした。これらの写本は
、11世紀前半、西夏の侵入を目前にして、他の寺院から莫高窟に移され、封印されたものと考えられています(参考/敦煌、莫高窟─砂漠の大画廊)。
敦煌文書の多くは「冊子」ではなく「巻物」の形でした。「巻物」は、必要な長さになるまで紙の端と端を糊で継ぎ足していき 、普通、1巻の長さは9m〜12mでしたが、敦煌文書のもっとも長いものはなんと32mもありました。敦煌文書の多くは黄色く染色されていました。これは、虫害と変質から紙を守るためでした。その方法については、5世紀の農業経営の手引き書『齋民要術』に詳しく述べられています。それによると
、虫害から防ぐ毒性を持つ黄蘗(おうばく)の種子からとった黄色に染めるのだそうです。普通は、字を書く前に染めますが、字を書いたあとで染めればより効果的であるといいます。
同書ではまた 、本の修理方法についても記してます。非常に薄い紙片で破れた紙を修復する技術です。その紙はピタリと元の紙に貼り付くので
、光に透かしてみないと、修理のあとがわからないほどだったそうです。宋代以降、中国でも印刷が普及し、書物がそれほど貴重でなくなると、このような注意深い保存方法は取られなくなりました。さらに
、書物が巻物から冊子体に代わると、染めるのが難しくなったことも考えられます。
●参考文献
銭存訓『中国古代書籍史─竹帛に書す─』、法政大学出版局、1980
木寺清一・三輪計雄『本の歴史と使い方』、内田老鶴圃新社、1960
寺田光孝・藤野幸雄『図書館の歴史』、日外教養選書、1994
00/11/12