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蒼き狼 チンギス・ハン

no.090モンゴル部族のあいだに、伝承として伝わっている話がある。

部族の始祖であるバタチカンは、天から降りてきた蒼い狼を父に、白い牝鹿(めじか)を母としてこの世に生まれたものであるという。

12世紀の半ば、モンゴルに偉大なる英雄が誕生した。草原を縦横に駆けめぐる騎馬の民を率いた、蒼き狼の子孫テムジンである。

テムジンは、ブルカン山付近の弱小部族であるモンゴル部族の一部族長イェスガイの子として生まれた。母ホエルンは最初、敵対するメルキト部族の族長の妻であったが、イェスガイに略奪されてその妻となったのだという。のちにモンゴル人自身がまとめた『元朝秘史』には、テムジン誕生の様子を、「生まれるときに自らの右手にくるぶしの骨くらいの血の塊を握って生まれた」と記している。 9歳のとき、テムジンはオンギラート族のボルテと婚約した。その宴会の帰り、父のイェスガイはタタール族に毒殺され、テムジンの苦難の少年時代が始まる。

新婚早々の妻はメルキト族の攻撃を受けて奪われ、親族はみな彼を裏切って分散していった。遊牧民ならふだんは決して口にしない魚を食べ、ときには野ネズミさえ口にするといった苦労を重ねるうちに、テムジンは辛抱強く勇敢な戦士に成長していった。

テムジンには、戦略家としての天賦の才能があったようである。その手腕は、たび重なる部族間抗争の中で遺憾なく発揮されていった。

1206年、彼は全部族長を召集し、自らの大ハン即位を決定した。こうして、モンゴル高原の覇者となった“チンギス・ハン”は、いよいよモンゴル世界帝国への道をたどりはじめるのだった。 チンギス・ハンの最初の標的は中国東北地方にあった金だった。1211年、チンギス・ハンは金を攻め、これを滅亡寸前まで追いつめて農耕地帯を支配下に収め、反転して今度は「絹の道」沿いの諸国に遠征する。

トルコ系のナイマン部を滅ぼし、さらにそのほこ先は、当時繁栄を極めていたイスラム帝国ホラズムに向けられる。さらに西夏を1227年に滅ぼし、まさに破竹の進撃の末、東西交易路は完全にモンゴル人の手に落ちる。

モンゴル軍の都市攻略の方法は、一貫している。抵抗する町は完全に破壊する。抵抗が3日に及べばその住民を皆殺しにする。片耳を切り落として数を記録し、死骸はどんどん積み上げて男・女・子供の3つのピラミッドを作る。死骸のピラミッドからは血の川が流れ出し、油は道に染みついたという。しかし、抵抗さえしなければ、モンゴルへの忠誠を誓い、税を納めれば、あとは干渉しない。チンギス・ハンは、西夏攻略の3日前、落馬による負傷が原因で65歳の生涯を閉じている。陵墓制のないモンゴルでは、チンギス・ハンの墓さえその場所は明らかではないという。

甦るチンギス・ハン

モンゴルの現代史は、自国の栄光を否定する歴史であった。

ソ連に次ぐ世界で2番目の社会主義国として、国民に単一のイデオロギーを強制してきたため、伝統的な宗教・文化・文字は迫害され、英雄チンギスの賞賛は禁じられた。チンギス・ハンの肖像を描いたり、文学作品の中に英雄として登場させるのはタブーだった。しかし、1989年末からの民主化運動の盛り上がりとともに民族意識が高揚すると、ヒーローは現代に復活した。「ホンホ」というロックグループが“チンギス・ハン”という歌をうたい、ウランバートルの若者に爆発的な人気を得たり、その少し前にはモンゴル人自身によるチンギス・ハンを描いた映画『マンドハイ』が公開された。 また、「チンギス・ハン」というウォッカが発売され、そのラベルにはチンギス・ハンの肖像が描かれ説明もキリル文字(ロシア文字)ではなくモンゴル文字で記されている。モンゴル文字復活に関しては、日本政府は20億円の文化協力を行うことを決定している(1991/8/8付朝日新聞)。 1990年5月にはチンギス生誕記念行事が挙行され、ウランバートルの広場には7万人の群衆が集まったという。モンゴルの新聞・雑誌はチンギス・ハン一色となった。

1992年は、チンギス・ハン生誕830周年にあたる。