旅の終わりに北上市立博物館をおとづれる。展示の中に平安時代のある時期に集中して、北上川をはさんで東西に50ケ寺以上がひらかれて
いるとの展示がある。なぜかは記されていない。その多くは田村麻呂がひらいたといわれているとか。一度に多くの寺がつくられた裏
には、何らかの強い政治的な意図がひそんでいると考えざるをえない。この地域と坂上田村麻呂とのつながりを知ろうと、歴史年表に目を
通す。大化改新(645)後の律令国家が、
蝦夷
を討つとか、柵(城)を設けるとかの事項が数多く目につき、いくどとなく遠征軍を派遣している。そこには、なかなか平定出来なかった
歴史が浮かんでくる。その最後を担ったのが有名な坂上田村麻呂である。しかし、かれも初めは負けている。三度目(801)にやっと平定
する。その戦では兵の数の多さ(10万人とも)と多大な経費で後に政治的課題が残ったらしい。苦戦を強いられた。蝦夷の族長アテルイ
(阿弓流為)は、知略にとんだ人だったらしい。投降したかれを京につれて行き、その人柄から助命を強く進言するが入れられず処刑
される。記録は彼をあくまでも悪人として残す。
当時の中央政権は律令制度を導入し日本という国を造り始めた。関東から西はその枠組みに入ったが、東北地域がなかなか従わなかった。
そのことは蝦夷と言う言葉が持つ意味を調べるとなんとなく見えてくる。
日本古代史上、東北日本に拠った土着の人たちをひろく指した言葉で、ただしその呼称・内容は時代・地域によって大きく異なる。初めは
政治的、文化的に中央を意味した朝廷に従わない人たち(まつろわぬ民)、その意味で未開・野蛮な人たち(あらぶる人)を指していた。
と辞典にある。
当時、政権は蝦夷に対しては、戦に負けると国内支配に組み入れ、内民(または内国)に同じくすることを最終目標にしていた。従って、
捕虜とか降伏してきた蝦夷、なかでも強固に戦ったものたち
俘囚)
は全国に集団移住させられる。一方、従順な民はもとの地域にそのまま住まわせ支配下におく。さらに、経営上、西から多くの民を集団
移住させる。この地元民と新たに移り住んだ人たちとの複雑な関係を安定させるためには、何らかの人心安定策を必要としたにちがいない。
それが多くの寺の建立につながったと思われる。
話はそれるが、後年俘囚の連合が反政府の戦を起こしている。東方地域でかの有名な「前九年の役」「後三年の役」などがそれに当たると
いう。
大和政権はなぜこれほどにこの地に関心をもったのであろうか?理由は、金と鉄の産出が考えられる。奈良の大仏を金メッキするときに
その多くを東北から献納している。砂鉄は武器をはじめ農具を作るのに必須である。そんな背景があってのことであろう。
北上博物館に隣接する民族村に復元された平安時代の民家がある。地面を30センチほど堀り下げ小屋がけしている。近年縄文遺跡に
復元されている建物と違わない形式。これから想像するに、その生活はかなり悲惨なものであったろう。ほとんど全員が農業を営み、
自然のちょっとした変化で苦しい生活を余儀なくされていたにちがいない。精神面での救いを自然神に求めていたであろう。そんな状況
下へ田村麻呂が仏教を上手くはめ込んだとしても不思議ではない。当初は地域を治めるために導入された仏教が、精神的なよりどころと
なって浸透していく。そのことが村々に寺を開基する大きな要因ともなり、結果想像を超える寺の数になったのではなかろうか。
信心の熱さを次のことから見ることも出来る。今回訪れた小さな寺(東楽寺)の収納庫に、平安仏が集められている。元々どこかの寺の
本尊たちであったと思われる。明治の廃仏毀釈でうち捨てられ、今ではほとんど原形をとどめないものが大半である。それらを集め保存
している。この仏たちを眺めていると地域の人々の熱い思いが伝わってくる。
そんな歴史がこの地にある。近年アテルイが見直されていると聞く。その理由は、記録とは常に書き手側に都合良く造られるという認識が
深く社会に浸透してきた結果と思われる。かつては日本書紀他そのまま信じさせられていた時代が長く続いた。(Oct.2004)