蝦夷平定の余韻:岩手北上盆地にみる

常ならぬ暑さがようやくおさまる8月末、岩手県北上盆地を訪れる。岩手といえば南部鉄瓶とか、民話の里・遠野などが有名。ねらいは 東和町成島にある日本最大の毘沙門天像にある。ついでに成島以外の寺もと調べたが、通常の旅行案内書にはのっていない。どうやら 一般的な観光視点ではさして見るべきものがないとの意味にとれる。いずれの地域にもそれなりの歴史があり、視点を変えることで なにか新しい発見があるのが普通ではないかとおもう。いろいろに手をつくし訪ねてみたい寺をいくつか見つける。

まず、黒石寺(行基による開基 729年、延暦年間に戦火で消失、802年再建、円仁が 849年に復興)を訪れる。現在の薬師堂は明治17年 (1884)に再建されているが、花巻の名大工による柱の彫り物は大変すばらしい。お寺なのに狛犬が頑張っている。神仏習合の典型例で ある。よくよく眺めると狛犬は鋳鉄で造られている。この地は古より砂鉄が産出するのでしられている。そんな土地柄を物語ってくれて いる。

黒石寺・薬師堂
柱の彫り物

薬師堂の右手に風変わりな建物がある。その説明書きをみると 御供所・鐘楼 ごくしょ・しょうろう (再建 明治16年(1883)、梵鐘の銘 1686 )とある。御供所とは仏への供物を用意する処。なぜか鐘を二階にすえ鐘楼を兼ねている。 何とも不思議な取り合わせの建物。純和風の数寄屋と思わせる風情を持っていて、とうてい鐘つき堂とは思えない。何となく作り手の 風雅を感じる。

狛犬(鋳鉄製)
御供所・鐘楼

旅のおおきな目的地、東和町成島の毘沙門天にたどりつく。身の丈4メートルを超える一木造りの威厳に満ちた巨像。これほど大きな ものがこの地に存在するとは想像もしてなかった。今は収蔵庫に入っているが、かつてはお堂に祀られていたのであろう。想像するに かなり大きなお堂であっただろう。表の石碑には
毘沙門天堂は田村麻呂の蝦夷征伐から半世紀後に、慈覚大師の開基(887)によりひらかれたと伝え られている。この像を田村麻呂の生き写しとする伝説も
とある。 
また、ここ成島以外にも毘沙門天像が北上盆地に何体か存在している。

成島から南へ足を向けると、大きな岩の崖下に 達谷窟 たつこくくつ 毘沙門堂があり、田村麻呂がひらいたといわれている。仏像はたいしたものは残っていないが、この建築には驚く。このように崖下を 利用して仏堂を建てるのはよくある。これまでに数カ所で見かけている。風雨を避ける手だてとしては優れている。本来の狙いは、大きな 岩に神を感じたりしてしての選択と思われる。 その証拠ではないかと思われるのは、お堂に向かって左手の岩壁に仏の顔が彫られている。 顔だけで体はない。

達谷窟毘沙門堂

次に北の永平寺と称せられる曹洞宗の正法寺(開基 1348)をおとずれる。谷間の狭い土地にあり創建は14世紀にさかのぼる。禅宗様式の 七堂伽藍(本堂、庫裡、総門、鐘楼、小方丈、 東司 とおす)が現存する。茅葺き屋根は、その面積 2376m2。今の本堂は 1811年の再建。東北随一の大きな茅葺き屋根は修復を 終えてるが、本堂内部がまだ修復中。そのため内部は拝観できなかった。遠目に新しい茅を愛でながら脇を進むと異様な形の妻飾りに出 会う。これまでも禅宗様式のこの種の飾りが好きでおおくを眺め、写真に納めてきたがこのようなものは初めてである。 東北という土地柄を反映し質実剛健さにあふれ、かつ品格のある姿。しばらく眺めていると構成の素晴らしさに引き込まれていく。茅葺き 屋根特有の急な勾配、その厚み、色合い、それらが作り出す三角形のキャンバスに配された梁と彫り物。あくの強い酒の様に、初めは嫌な ものに感じるられが飲んでいく内に真価が分かり惚れ込んでいく。そんな気分にさせられている。
  考案した人(僧侶)は一体何を表現したかったのであろうか。浮き出した彫り物は、谷間から湧き出る雲を寺の興隆と結びつけたかった のでもあろうか。それとも曹洞宗の大いなる特徴である座禅の姿を表現しているのだろうか。その姿からいろいろなことを想像させる。 予想してなかった発見で、これぞ旅の醍醐味である。

妻飾り
獅子頭

旅の終わりに北上市立博物館をおとづれる。展示の中に平安時代のある時期に集中して、北上川をはさんで東西に50ケ寺以上がひらかれて いるとの展示がある。なぜかは記されていない。その多くは田村麻呂がひらいたといわれているとか。一度に多くの寺がつくられた裏 には、何らかの強い政治的な意図がひそんでいると考えざるをえない。この地域と坂上田村麻呂とのつながりを知ろうと、歴史年表に目を 通す。大化改新(645)後の律令国家が、 蝦夷 えみし を討つとか、柵(城)を設けるとかの事項が数多く目につき、いくどとなく遠征軍を派遣している。そこには、なかなか平定出来なかった 歴史が浮かんでくる。その最後を担ったのが有名な坂上田村麻呂である。しかし、かれも初めは負けている。三度目(801)にやっと平定 する。その戦では兵の数の多さ(10万人とも)と多大な経費で後に政治的課題が残ったらしい。苦戦を強いられた。蝦夷の族長アテルイ (阿弓流為)は、知略にとんだ人だったらしい。投降したかれを京につれて行き、その人柄から助命を強く進言するが入れられず処刑 される。記録は彼をあくまでも悪人として残す。
当時の中央政権は律令制度を導入し日本という国を造り始めた。関東から西はその枠組みに入ったが、東北地域がなかなか従わなかった。 そのことは蝦夷と言う言葉が持つ意味を調べるとなんとなく見えてくる。
日本古代史上、東北日本に拠った土着の人たちをひろく指した言葉で、ただしその呼称・内容は時代・地域によって大きく異なる。初めは 政治的、文化的に中央を意味した朝廷に従わない人たち(まつろわぬ民)、その意味で未開・野蛮な人たち(あらぶる人)を指していた。
と辞典にある。
当時、政権は蝦夷に対しては、戦に負けると国内支配に組み入れ、内民(または内国)に同じくすることを最終目標にしていた。従って、 捕虜とか降伏してきた蝦夷、なかでも強固に戦ったものたち 俘囚 ふしゅう) は全国に集団移住させられる。一方、従順な民はもとの地域にそのまま住まわせ支配下におく。さらに、経営上、西から多くの民を集団 移住させる。この地元民と新たに移り住んだ人たちとの複雑な関係を安定させるためには、何らかの人心安定策を必要としたにちがいない。 それが多くの寺の建立につながったと思われる。
話はそれるが、後年俘囚の連合が反政府の戦を起こしている。東方地域でかの有名な「前九年の役」「後三年の役」などがそれに当たると いう。

大和政権はなぜこれほどにこの地に関心をもったのであろうか?理由は、金と鉄の産出が考えられる。奈良の大仏を金メッキするときに その多くを東北から献納している。砂鉄は武器をはじめ農具を作るのに必須である。そんな背景があってのことであろう。  

北上博物館に隣接する民族村に復元された平安時代の民家がある。地面を30センチほど堀り下げ小屋がけしている。近年縄文遺跡に 復元されている建物と違わない形式。これから想像するに、その生活はかなり悲惨なものであったろう。ほとんど全員が農業を営み、 自然のちょっとした変化で苦しい生活を余儀なくされていたにちがいない。精神面での救いを自然神に求めていたであろう。そんな状況 下へ田村麻呂が仏教を上手くはめ込んだとしても不思議ではない。当初は地域を治めるために導入された仏教が、精神的なよりどころと なって浸透していく。そのことが村々に寺を開基する大きな要因ともなり、結果想像を超える寺の数になったのではなかろうか。
信心の熱さを次のことから見ることも出来る。今回訪れた小さな寺(東楽寺)の収納庫に、平安仏が集められている。元々どこかの寺の 本尊たちであったと思われる。明治の廃仏毀釈でうち捨てられ、今ではほとんど原形をとどめないものが大半である。それらを集め保存 している。この仏たちを眺めていると地域の人々の熱い思いが伝わってくる。
そんな歴史がこの地にある。近年アテルイが見直されていると聞く。その理由は、記録とは常に書き手側に都合良く造られるという認識が 深く社会に浸透してきた結果と思われる。かつては日本書紀他そのまま信じさせられていた時代が長く続いた。(Oct.2004)


目次へ