18北海道気まま旅

2018/9/27  


東北路
 盆の入りに家を出発。一路北へ。
先ず奥会津へ行く。温泉に浸かって改めて旅の構想を練る。気にしていた今年のネマガリ竹の状況も確認。
そして吾妻連峰を越え福島市へ。福島市ではかねてより訪問したいと思っていた「古関裕而記念館」を見学。http://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/profile/index.html 
古関裕而の音楽は子供の頃、ラジオから流れた「とんがり帽子」「君の名は」「長崎の鐘」「昼の憩い」などなどが懐かしい。
社会人になって独身寮に入ったのだが、福島県出身者が数人おり、彼らからも小関裕而や福島県は音楽が盛んだとよく聞かされた。
館内はこじんまりしていてるが、作曲した曲目の多さもさることながら、耳に馴染みの曲が余りにも多いのでびっくりしました。
戦時中の、暁に祈る 麦と兵隊 露営の歌 戦後の、熊祭(イヨマンテ)の夜 栄冠は君に輝く(全国高等学校野球大会の歌) 高原列車は行く や大学の応援歌やプロ野球各球団の歌など多種多様の作曲にも驚きです。何しろ5000曲も作ったそうですから。 
此処は縄文遺跡とは関係ないが、私が今回訪ねてみたい施設の一つなのです。
この後は「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 ♪〜♭ 」を口ずさみながら国道4号線を北に向かって走る。

北海道・北東北の縄文遺跡が世界遺産登録へ
 国の文化審議会は2018年7月19日、世界文化遺産の新たな候補に「北海道・北東北の縄文遺跡群」(北海道、青森、岩手、秋田)を選んだ。地元自治体は2020年の登録を目指しており、政府は19年2月1日までに国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出するかどうか検討する。
というニュースが駆け巡った。

    「web東奥」記事より引用

追記  (2019.02.11)

登録手続きのその後

 文化審議会世界文化遺産部会における平成31年度の世界文化遺産推薦候補の選定について

平成31年1月23日に開催された文化審議会世界文化遺産部会において、平成31年度における世界文化遺産推薦候補選定の基本的な考え方が示され、「北海道・北東北の縄文遺跡群」を昨年7月の同部会において平成30年度の推薦候補とした選定結果を引き継ぐことを基本とし、平成31年度の同部会において進捗状況等について確認を行い、最終的に推薦候補として決定するとの発表がなされました。

このことは北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録実現に向けて大きく前進したものであり、御支援いただいている大勢の皆さまへ感謝申し上げます。
2019(平成31)年度の世界遺産推薦、そして2021年の登録実現に向けて、今後とも関係自治体の連携のもと、全力で取り組んで参ります。
引き続き、御支援・御協力を賜りますようお願い申し上げます。

【今後のスケジュール】
2019年夏頃 文化審議会世界文化遺産部会において推薦候補を決定
2019年9月30日まで 国からユネスコ世界遺産センターへ推薦書(暫定版)を提出
2020年2月1日まで 国からユネスコ世界遺産センターへ推薦書を提出
2020年9月頃 国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による現地調査
2021年5月頃 国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による評価結果の勧告
2021年夏頃 ユネスコ世界遺産委員会において審議



御所野遺跡  
http://www.goshono-iseki.com/
 岩手県一戸町に縄文時代の遺跡「御所野遺跡」があります。御所野遺跡公園は国道4号線からは東側の山間の中。町の火葬場が近くにあるのも妙な感じではあった。
駐車場から資料館へ通じる渡り廊下は、沢に架けた百メートル超の吊り橋で凝ったもの。遠目からは登り窯と見間違えてしまった。資料館は二階建ての立派な建物。発掘した遺物や映像で解説しており理解し易い。
園内は一面の芝生。その中に竪穴式住居が復元されている。萱で葺いた屋根には土砂が載せられ、保温や断熱に効果が良く、縄文人の生活の知恵がいっぱい。
関東地方で目にする復元住居は、萱葺そのままが普通だと思うが、北海道でも同様の土を乗せた復元住居の説明も良く目にした。寒さ暑さを避けるのには、この方法が良く、これが一般的な竪穴式住居だったと知った次第です。

     
 入り口となる廊下(橋の内部)  資料館 円墳古墳状に土を被せた竪穴住居 

是川遺跡   
 八戸市是川にある是川縄文館 http://www.korekawa-jomon.jp/permanent/ には国宝 合掌土偶 を保存展示しています。今年の夏の期間は、上野の国立博物館で全国の縄文の遺物を展示する「縄文展」がありました。此処是川縄文館の合掌土偶も上野に出張中で、レプリカを拝見しました。
宗教のような心の拠り所が、何時の頃から日本の祖先たちが信じるようになったのか分かりませんが、この合掌土偶は現代人の祈りの姿にそっくりです。何方が命名したか分かりませんが、合掌して祈っている姿です。また別の考えでは女性の出産の姿ではないか? とも言われているそうです。これは女性像なのだそうです。今風で言うところの座位分娩だとの説。(私は座位分娩を支持したい。エスキモーの出産はこれだと聞いた気がするから(出典不明))
その他にもたくさんの発掘した土器や石器が展示されています。見学に当たりボランティアの館内案内人をお願いしました。大正年代から地元の篤志家が出土品を蒐集保管に尽力され、その品々を八戸市が引き継ぐ形で現在の縄文館があるとの説明を受けました。

追記(2019・02・09)
 「NPO法人国際縄文学協会」は縄文土器・土偶・勾玉・貝塚など縄文時代/縄文人の文化を紹介し、研究促進を目的とする考古学団体です。(HPより)
このHPを拝見しましたら、土偶に関するコラムを目にしました。体系的に土偶に関する考察をされていますので紹介させていただきます。
『土偶について vol.1』土肥 孝 のvol3 まであり、土偶の使われ方の一考が書かれています。成る程!!と感心して拝読しました。
私も近頃{縄文時代の信仰」について? どの様なモノであったのかを遇考しています。山川草木スベカラク神様として崇めたという伝統は何時ごろから日本で根づいた考えかを? 又今の家族組織的な形は何時ごろからなのか? 人口密度(集落及び近隣の集落の人口)から、近親交配のリスクなどはどうであったのか? など等です。
5体ある国宝土偶の4体についての考察もあります。この旅で拝見した合掌土偶、中空土偶も登場していますのでご覧ください。
夜床に就いて就寝するまでの間、何となく時間つぶし的に考えているのです。

大間崎から函館へ
 是川縄文館を後にして、小河原湖畔でキャンプをし、大間崎へ向かう。途中むつ市旧川内村のふれあい温泉で汗を流す計画だったが休館日。その夜は野平高原キャンプ場泊を予定していたが、急きょ変更し県道46号で大間を目指す。大間には大分日の高いうちに到着。しかし函館行のフェリーは明朝だ。大間崎にキャンプ場が有る。直ぐ近くのつもりでいたが、以外に距離があり3キロほどを15分くらいかかりキャンプ場へ。
此処で私の水戸ナンバー車を見て見知らぬ小父さんが話しかけてきた。話してみたら何と神栖市在住の放浪人。それも同じ町内在住には双方びっくりした。
彼は此処大間崎の土産物店で、バイトをしながらその日暮らしの気楽な稼業とか(食事だけがバイト代と聞く)。
翌朝の一番船で函館に渡る。函館市の東海岸が次の目的地。皆さんはカーナビの時代に、私は今時ロードマップを頼りで走る。負け惜しみではないが、目的地を大きな地図で目安を着け、道路Noで道を選択。これで大丈夫です。

縄文ロマン南かやべ 道の駅
 ここの道の駅は名ばかりの道の駅。建物の端っこの方にトイレ、道路情報資料(パンフレット)、それに少々の土産物コーナーに一人だけの従業員。
それに比して縄文文化交流センター http://www.hjcc.jp/ が施設の大部分を占めている。むしろ資料館が主で道の駅は借家住まいだ。
ここに国宝 中空土偶[愛称 : 茅空(カックウ)]が鎮座しているのです。この土偶も上野に出張中でレプリカを拝見。
函館市周辺は縄文時代の遺跡だらけ。この道の駅敷地も遺跡内かも知れない? 
地続きの垣ノ島遺跡 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/remains_is_kakinoshima01.htm は、2%の発掘しかしていなのに世界遺産候補地なのです。2%を試掘しただけで凄い遺跡だということが分かったらしいのです。

 北海道から帰りは苫小牧港からフェリーで大洗港に帰るつもりが、胆振地方を震源とする大地震が9月6日早朝に発生。そのため帰路を変更して再度この縄文文化交流センターに立ち寄った。丁度この「垣ノ島遺跡現地説明会」が催されていた。そこで急遽それに参加して、学芸員から現地で事物を目の前にして説明を受けたのです。さすがプロ。函館市とか北海道に限らず考古遺跡に詳しい。説明会後二人で雑談。環状列石の話が出た途端に「余山貝塚のあれは環状列石だと僕は思うのです」。これには驚いた!! 余山貝塚は銚子市にある貝塚。古くから調査がされてきた貝塚です。私は銚子市の高校に通ったせいもありますが、余山貝塚は何度も行った貝塚です。現在の考古学界でどのような位置づけか分かりませんが、函館に来ていきなり余山貝塚の名前が出てくるとは思いませんでした。
帰宅後改めて余山貝塚を検索し、早速9月25日に久し振りに現地見学。9月30日にはボランティア清掃活動があるというので参加予定。改めて地元の遺跡を見直ています。

     
 函館市旧南茅部町漁港の肴釣り(外港防波堤テトラポット)  函館市大船川河川公園でのキャンプ  根魚の刺身(懐石料理で次々に アライ、焼き魚、煮魚が)


大船遺跡
 縄文文化交流センターから北に数キロ離れた所に大船遺跡 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/jomon/remains_is_ohfune01.htm があります。近年整備をして遺跡公園になっています。ここも世界遺産候補地です。
此処では竪穴式住居が大型。大集落。それにびっくりしたのは石皿の大量さ。各地の遺跡でも何個かは見受けますが、土手の様に積んだ石皿の姿は壮観です。 下の写真はその一部です。建物の裏側にもL字形に堤が続いています。この大量の石皿。これが全て縄文人の調理器具です。肉や木の実を磨り潰したというのです。垣ノ島遺跡見学会で学芸員にこの事を話したら「もっと有るのですが、その一部をあそこに積んであるのです」には2度びっくりです。
石皿の横に写っているのが資料館というか管理棟です。トイレ、休憩スペース、展示スペースなど。

余談ですが、私は外の住居跡や園内を見学後、この資料館に入り陳列されている遺物などを見ていました。
この遺跡に到着後おそらく2時間くらい経ったと思いますが、管理人が「休んでいるのですか?」と汗を拭きながら慌てた様子で館内に入ってきました。
丁度私が椅子に座って壁の説明資料を見ていた時のことです。
私「はい。いろいろ拝見させていただいています」。管理人「いや ご覧になっているなら良いのですが…車が長い時間駐車しているものですから…心配して来ました」。私「ご心配をおかけしました。いろいろ興味を引くものが有るもので、ついつい長くなってしまいました」。
管理人「いやいや何時まで居ても良いのです」。管理人は芝の刈り込みをしていたのですが、私の車が長い時間駐車しているので心配になって来たのでした。普通の人は施設をざっと見て、館内をちょこっと見て帰るようです。30分位でしょうか。私は2時間以上かけて1施設を観て回りました。
それからしばらくして此処を後にしました。何せいろいろあって見飽きないのです。

大船川河川敷の河川公園キャンプ場には4泊した。敷地隣りが市の南かやべ保養センターの温泉つきで、快適なキャンプ場であった。https://onsen.nifty.com/hakodate-onsen/onsen000060/kuchikomi/(口こみへリンク)
九州(鹿児島県)から来られた小母さんが、この根魚の肴が気に入ってくれて、薪が無くなるまで食べてくれました。(懐石料理で次々に アライ、煮魚、焼き魚で)

   
 石皿の堤  草刈りをする管理人(車の前衝部の人)

北黄金貝塚
 伊達市中心部から海岸沿いに国道37号線を東に進むと 北黄金貝塚https://jomon-japan.jp/jomon-sites/kitakogane/ があります。
ここから出土した遺物や人骨からは、本州の縄文時代から弥生、古代へと進む文化との共通性と、異なる性質とから、やがてアイヌ文化に移行する分岐点が見える遺跡として重要だそうです。
本州人が虫歯が有ることに対して虫歯が無いそうです。それは食材や調理の仕方に有るようです。本州人は木の実や穀類が主食。北海道は獣肉、魚介類が主食であった。というのです。
今後研究者により、この辺りがもっと詳しく解き明かされていくことでしょう。
私がこの貝塚を見学する日は生憎の天気。台風20号が津軽海峡辺りを通過した影響か、刺激され前線が活発になったのか小雨の降る中、傘をさして歩きましたが、資料館が主で肝心な水場は見ないでしまいました。
水場には道具類の葬送儀式が伺われる石器の壊れたものが敷き詰められていたそうです。石器(道具)も最後は壊してお礼の儀式をしたというのでしょう。

鮭釣り見学
 海沿いに苫小牧に向かう。途中豊浦町と白老町でキャンプ。
豊浦町漁港と白老漁港で鮭釣りを見学。豊浦漁港横の河口では数十人が並んで浮き釣りをしていた。見ていると時々釣れて、大きなタモですくい取っていた。聞けば4〜5日前の日曜日は釣れて、多い人は10尾位も釣れたという。
白老漁港では早朝時には誰も釣れた様子はなかった。
今後機会をつくり私も挑戦しよう。釣り具は持参したのだから。函館市の漁港ではアイナメなどの根魚は私の酒の肴になったから。

キウス周堤墓群
 千歳市北部にキウス周堤墓群 http://hokkaido-travel.com/spot/visiting/ho0897/ がある。此処も世界遺産候補地です。
周堤墓とは、縄文時代後期(3200年前頃)に造られた墓で、北海道だけに見られる独特のスタイル。
地面を円形に掘り下げ、掘った土を周りに積み上げて土手(周堤)を築き、すり鉢状に凹んだ墓を造成したもの。
最大の第2号周堤墓を築くには、推定で最大5900立方メートルの土が必要で、仮に縄文人15人で造成してもまるまる2年を費やす計算となるとか。
以上[北海道STYLE]より引用しました。

   
 周堤墓群入り口付近 周堤墓解説板 

 本州では土を積み上げた墓を古墳と言いますが、北海道のこれは地面を掘り下げ、掘った土を周囲に積み上げ円形の堤状にして、中に墓穴を掘り遺体を埋葬したようです。
大きさは大小あり、直径が数十メートルもあるものもありました。上の左写真で、道路で分断された周堤墓が残念でした。しかし、こういう工事により発見される遺跡も数多くありますので、土木工事の功罪は半々??でしょうか?
5〜6キロ離れた所に市立埋蔵文化財センター展示室 https://www.city.chitose.lg.jp/docs/95-43785-169-915.html が有るのでそれを見学しました。
この墓から出土した遺物もあり、展示の仕方が変わっていて面白かったです。遺跡の中に自分が居るような感じでした。

旅は続く
 この後、北海道の中心地札幌を目指す。
札幌では東区に在る 北洋建設(株) を表敬訪問。
土建会社で会社の規模は大きくは有りませんが、社員の構成(募集)に注目です。
ちょっとしたことで罪を犯し、刑務所で罪を償う人は大勢います(多分)。彼らが刑を終え社会に復帰しても「刑務所帰り」と後ろ指を指され、職探しに苦労しています。結局再犯を犯し刑務所との往復人生。
再犯するのは職が無いから。再犯するのは生活に困窮するから。という事に着目してこの会社は積極的に刑務所出所者を雇っています。
罪の種類によっては雇わないという事もあるそうですが…。

ここの小澤社長は余命3年とか!! 脊髄小脳変性症という小脳が委縮する難病なのだそうです。
私が訪ねた時も退院したばかりで自宅療養中でした。
会社を訪問して社長のお母さん(会長)に挨拶。入退院の事をお伺いしたので、辞して帰ろうとしたのですが、お母さんが社長に電話をして「茨城県の人が激励に来ているから会えないかい?」と話され、会社近くの社長宅を伺いました。
全国組織で「刑務所出所者を更生させるために積極的に雇とおうじゃないか」というのがあるそうですが、その組織の中心的メンバーでもあるそうです。
病のため話すことも苦労されているので、早々に帰ろうとしたのですが、1時間くらいお邪魔してしまいました。
出来るようでできない出所者の更生事業。全国の刑務所へ面接に行き、雇用を決めると自腹で旅費を提供するとのこと。全く頭が下がりました。
この会社や小澤社長の件はネットや新聞で知りました。

この後江別市の道立北海道博物館を横目に北上。
計画段階では北海道博物館で道内の概要を掴み、地方の博物館を見学しようとしていました。
旅の途中でそれは止めて、各地の博物館を先に見てから中央の博物館を見ようと変更したのでした。
理由は中央の大きな博物館を先に見てしまうと、地方の小規模資料館を見る心が雑になってはいけないという思いからです。
出土した遺物もさることながら、現地の遺跡を足で踏み、目で見て、その場の風に吹かれることが遺跡見学の醍醐味だと考えています。

苫前町郷土資料館
 苫前町は一昨年も訪問した。大正4年に発生した羆事件が気になってのこと。
その折資料館を見なかったので今回再訪したのです。
事件現場は前回行ったので、今回は資料館へ直行。
郷土資料館週刊 日本を歩く  http://glocalwalker.hatenablog.com/entry/2017/01/21/195112 は旧役場跡ということで街の中。
郷土資料館らしく考古学資料から近代までの町の系譜が分かる構成になっている。
北海道の海辺の街は一時期栄えたニシン漁の活況時代。その後の過疎に対する取り組みなど。特に鉄道の廃止が、かなりダメージを受けているという印象だ。右肩上がり時代の鉄道開通式の賑やかな写真は、何か寂しさを感じる。

   
 北海太郎  左の説明板 猟師:辻 優一氏  大川高義氏


この資料館での目玉は羆。
北海太郎という大羆のはく製と渓谷の次郎のはく製。私は 吉村 昭 の小説「羆嵐」を読んで苫前町を知った。
大正4年12月に開拓集落を襲った羆1頭。
羆や野生動物の住処に、人間が開拓という形で入り込んだのだからトラブルは活かし方ないか。
その前もその後も、北海道では羆とのトラブルがよくニュースになっている。
木彫りの羆が鮭をくわえているのは置物としては良い物である。が、山中で羆には遭いたくないものだ。
資料館では映画ビデオで、三国廉太郎主演の羆嵐を観る事も出来た。
石器時代の石鏃、石斧などの素材はさすがに黒曜石が多い。北海道は黒曜石の露頭が何カ所もあるようだ。
札幌市で地質調査などを生業にしている友人の話では「十勝地方を歩くと、黒曜石があっちこっちで拾えます」とのこと。ちなみに北海道では黒曜石を十勝石と呼ぶそうです。

天塩町歴史資料館
 天塩山系、天塩川は地理の時間で覚えた記憶です。広大なサロベツ原野の南端です。
小説「羆嵐」の舞台が天塩山系であることを知り、天塩町に興味を惹かれました。
天塩川は日本海に流れ込む際に大きく蛇行。海岸までは西に下って砂浜近くで直角に南下。河川敷には公園が整備されていて美しい河原です。
河川敷には公園と温泉があり、キャンプ場は良い環境です(海岸で防風林は無いので、海風の強い日は要注意)。この日は幌延町のキャンプ場を予定しているので、此処のキャンプ場はスルーしました。(幌延町のキャンプ場は排水工事をしていて使用できず、結局稚内市の森林公園まであしを延ばしました)
歴史資料館は街中にあり、駐車場案内がイマイチ私は理解できませんでした。が、街路の角を曲がり1宅地進むと立派な駐車場が併設されていました。
建物はクラシックな感じの赤レンガ造り。土曜日にもかかわらず見学者は私一人でした。展示内容はごく普通の資料館という感じ。やはりニシン漁がかつては地域振興の目玉でありました。

   
 枝幸漁港鮭釣り オホーツ海砂浜鮭釣り の小父さん


鮭釣り

 枝幸漁港で連続3日間鮭釣りに挑戦しました。
9月4,5,6日です。
3日の昼過ぎ枝幸漁港に着きました。岸壁に数十人が並んで浮き釣りをしていました。途中の砂浜でしていた人達は投げ釣り。一人10数本の竿を立てての釣り。壮観でした。上の写真の小父さんの後の人がそれです。
岸壁の浮き釣りは一人1本が原則。陽が傾くまで見学していたのですが、ポツリポツリ釣れていました。明日からここで挑戦しようと決めて、鮭釣り針や餌を街中の釣具屋で揃えました。
ウスタベイ岬のキャンプ場にテントを張り朝を待ちます。

1日目
4時前には起きて港に向かいました。既に大勢が釣りをしていました。
私もその中の人となる。見よう見まねの鮭釣り。釣れない!! 小雨降る中頑張るがダメ。台風21号が九州、四国に接近中。予報では日本列島を縦断しそうです。岬に張りっぱなしのテントは飛ばされる!! テントに戻り撤収。夕方から道の駅マリーンアイランド岡島駐車場に緊急避難。釣り場で見覚えのあるキャンピングカーや車も此処で台風避難の模様。

2日目
道の駅岡島から出勤。
夜中に大分車が揺れたが、思いの外雨も少なかった。夜明けとともに漁港で鮭釣り。この日もダメ。数十人居て全員釣れないし、風も強い。時折雨も降る。
この夜は釣り場傍の岸壁に駐車して釣り座の場所取り。(皆さんそうしている)

3日目 9月6日4時にスタンバイ。近くのにわか釣り仲間同士で「地震があったらしい。大分大きな地震が苫小牧方面であったようだ。携帯に緊急連絡情報が」などを話しているうちに私の電話も鳴る。我が家から「苫小牧で大地震。大丈夫?」。此処道北の枝幸町は地震を感じなかったのです。
夜明けとともに知人からも何本か地震の問い合わせがあり、慌ててカーラジオのスイッチを入れて情報収集。
厚真町を中心とした胆振地方で大きな地震があったことをやっと掴みました。
しかし釣り人達は自分の浮きに集中、熱中。生憎の雨の中。皆さん何日もここに張り付いていた様子ですが、釣れないし、地震で停電、路面陥没、通行止め、稚内の〇〇漁港では釣れているという情報。などいろいろな情報が飛び交い、大分釣り人が減った。
9時ごろになり私も諦め納竿した。3日間で釣果ゼロ。「まぁ全員釣れないのだから」と自分に言い聞かせ、枝幸漁港を後にして紋別方面に車を走らせた。

国道238号線の大きな交差点では、警察官が手信号で交通整理。ラジオニュースで道内全域停電を知る。厚真町にある北海道電力の苫東厚真発電所がパンクして全道の発電所が影響しあい、全道停電というシステムなのだそうです。長期停電になりそうだという。
ガソリンは満タンなのだがスーパーマーケットが開いていない。でも何とかなるだろう。米味噌醤油は持参しているから。とこの時点では深刻には考えていなかった。
停電は2日位でかなり復旧した。しかし停電の影響でスーパーに行っても牛乳が無い。食材の補充が無い。などの影響が1週間以上続きました。
鮭釣りは3日間挑戦しましたが釣果はゼロでした。ネットのブログでも釣れた!! 嘘だろう!!などが飛び交っているので、何の釣りでもそうですが、釣りとは釣れたり釣れなかったりだと改めて知った3日間でした。

湧別町郷土館

 湧別町では、もう数年前になりますが、オホーツク海沿岸を襲ったブリザードで漁師の父娘が遭難し、父親が死亡。娘(小3)は奇跡的に生還というニュース。
 体張り9歳の娘守った父が凍死 風雪猛威、命奪う - 日本経済新聞 (nikkei.com)
遭難事故が起きた時から、かつて2号線と言われていた道道656号線をこの目で見てみたいと思っていた。
湧別中心街からサロマ湖への道だ。オホーツク海浜までは1km程の距離で、海岸線に平行。海から近いことを除けば、普通の農道だ。
平成13年3月2日、発達した低気圧が日本海側からオホーツク海に抜け、希にみる大ブリザートのため、オホーツク海沿岸では8人の犠牲者が出た大きな事故でした。湧別町では岡田父娘がこの時遭難したニュースは、皆様もご記憶の事でしょう。
これが気になっていて2号線という道路はどのような道路なのか? を見にサロマ湖までを往復しました。海沿いには防風林もあり、その内陸側は一面の畑。牧草地。
所々に牛舎がありました。そのうちのサロマ湖に近い牛舎の入り口の扉が開かず、二人は外側で倒れたという事です。
ブリザートは映像などで見たことはありますが、この長閑な畑が広がる一帯が吹き荒れる風雪で一寸先も見えなくなり、地元生まれ地元育ちの壮年漁師が遭難するとは思えませんでした。

郷土館湧別町に二つの博物館あり: これこれ好きだったんですよ (seesaa.net) は中心街の通りに面してあります。
立派な建物です。入館には体育施設内に事務室があり、入館希望を告げて鍵を開けていただくシステムでした。
おそらくこの時期(9月初旬)は見学者が少なくて、警備上の措置かも知れません。
オホーツク海に生息する海獣などの剥製や石器時代の遺物に始まり、近代までの漁業の道具などが陳列されています。各地にある郷土資料館と同じ形式です。
見学が終わると事務室に行き、見終わった旨を報告してここを後にしました。

遠軽町ジオパーク
 今朝は地震騒動で早朝からあたふたしていた。
その後車を走らせ南下。サロマ湖岸の湧別町の漁業組合直売所で鮮魚を購入しようとしたが、全道停電の影響で休業。職員は外の広場の芝刈りをしていました。
仕方なく街中のコープで買い物をし、遠軽町の太陽の丘キャンプ場に向かいました。コープの店中も停電。レジが使えないので店員が工夫をして、お客さんに付き添い、買い物したら値段をメモり電卓で集計して清算するというやり方に感心してしまいました。
前回の旅で道を間違えて遠軽町の駅前までは走った道。キャンプ場はとてつもなく広い公園の一角。丁度コスモス祭りに備えて整備中でした。
この祭りも地震の影響で日延べになったと聞きました。
キャンプ場は先行の2組が既にテント設営が済んでいました。私も場所を選んで早速テントを張りました。
この夜は街の明かりが全く無く、素晴らしい星空でした。この様な星空は2011年3月11日の夜以来です。あの夜も寒い夜でしたが、星空はとても奇麗でした。

翌日の7日はいよいよ白滝へ。
白滝のジオパークの埋蔵文化財センター http://geopark.engaru.jp/ へ朝一で。この遠軽町は平成の合併で遠軽町、生田原町、丸瀬布町、白滝村が合併して今の遠軽町となった。
白滝村は一番西の端の村。遠軽町役場からは30数キロの山間にあります。白滝総合支所と同じ建物内に埋蔵文化財センターはありました。
ジオパークの説明には映像を使い、火山噴火で黒曜石が出来るまでを解説してあり良く理解できました。資料が沢山あり、すっかりここで時間を使ってしまい、石器を作る体験は出来ませんでした。
遠軽町中心街の郷土館を見学。https://www.northerncross.co.jp/bunkashigen/parts/4521.html
この時見学者は私だけ。ゆっくり見れて、更に土産として館長さんから拳大の黒曜石(館近くの湧別川原で集めたという)を頂いてしまいました。いい記念になりました。
遠軽町は1896年明治29年)、プロテスタント日本基督教会(現・日本キリスト教会)が、札幌で活動していた宣教師の信太壽之ら東北学院仙台市)の神学部出身者を中心に創設した北海道同志教育会キリスト教徒によって開拓が始まった道内でも珍しい歴史を持つ[12]。(ウィキペディアより)
この郷土館は瞰望岩の直下にあります。

後日談
 地震のため道東や十勝方面行きを止め、再度ここ遠軽町を通り旭川へ抜けた際、石器作りを体験しました。教授料と材料費計400円で、すっかり石器時代の職人になった感じでした。用意された黒曜石片をエゾシカの角を30cm程に切った叩き棒(ハンマー)で、薄く剥ぎ取っていくのです。そうすると自分でもビックリするような出来栄えの、石器時代の槍の穂が出来ました。懇切丁寧な指導員のマンツーマンのご指導のお蔭です。
帰宅後、この大切な槍の穂先が無いのです。
途中で紛失しないように、破損しないように手拭いに包んで保管した私の石器が見つかりませんでした。先日、日頃持ち歩いているナップザックの中の巾着用の布袋からこの石器が突如出現しました。
改めて写真を掲載します。
黒曜石は噴出した溶岩が冷却するときの冷えるスピードにより、真っ黒や赤い縞が入るそうです。今回私が作った石器の材料はその赤の斑入りでした。
赤い斑入りの黒曜石は、盆石などでも珍重されるようです。(ラッキーでした)
指導をして下さった学芸員の話では、このモデルは旧石器時代の槍の穂先だそうです。
サイズ:87×33×7mm(材料は黒曜石)
自慢話: 指導して下さった方の話ですが、私の鹿角の打撃棒(ハンマー)の打つ強さが一定でとても仕上りが良いそうです。
このまま遺跡に落としたら「旧石器が出土」とお騒がせしないように我が家に厳重に保管しておきましょう!!

     
 上から  縦断面  横断面


瞰望岩(がんぼういわ) http://engaru.jp/asobu-manabu/21kyoutsu/kankousisetu/sizen/ganbouiwa/ganbouiwa.html
遠軽町のシンボルのこの岩はアイヌ語で「インカルシ」と言って「見晴らしのいい場所」という意味だそうです。それに漢字を当てて遠軽になったと説明があります。写真をご覧いただくと、平地にニョキッと噴出した溶岩の山という感じです。平地に溶岩ドームでしょうか。
アイヌの人達に外敵を見張る砦(チャシ)のような、狼煙台のような使い方をされていたようです。
現在も遠軽町のランドマークです。この後ろ側が広大な遠軽公園です。

   
 遠軽公園の広いキャンプ場  町のシンボルの瞰望岩

太陽の丘キャンプ場には2泊して北見市に向かう。
途中湧別漁港直売所に寄り(停電は2日で回復)、ホタテ貝をはじめ肴やおかずを購入し、サロマ湖に突き出た岬、キムアネップ岬のキャンプ場http://lip-hokkaido.com/camp/2016/08/saroma-kimuaneppu.html へ走る。
此処は蚊やブヨなどの吸血虫が多い場所として名を馳せている。
この夜はテント2、車中泊2であった。私の他のテント泊者は新潟大学の岩石研究の学生1です。角楢小屋で交流のあった新潟大学関係者の事を尋ねたが知らないという。
車中泊者は別々の方々で、小父さんと小母さん各1。
小母さんは「1週間以上、人と話をしないでいると、口の周りが強張りロレツが回らくなる」と言って、肴にウナギのかば焼きを持参して私の焚火台(七輪)の火を囲む。私のテントは虫除けに大型の蚊帳つきなので、火を焚いても虫が群がる心配が無いので薪が尽きるまで燃やす。この人は6月から北海道を一人旅しているという関東地方のナンバープレート。気のせいかロレツの回りがおかしいかも…?。

翌朝は早々にテントを撤収して、旧常呂町のカーリンホールへ向かう。
着いてガッカリ!! 大地震、全道停電のあおりで、氷の表面が解け「10日まで休み」の張り紙。今日は9日。今日、明日は別の所で時間調整。
網走市に行くことにしました。
ところ遺跡の森 http://www.city.kitami.lg.jp/docs/7209/ は2年ぶりの訪問。
前回対応していただいた担当者は転勤になったという。やはり組織で働く人は移動はやむを得ないこと。
今回はゆっくり見学する事が出来た。前回は博物館用双眼鏡を車に置いてきてしまい、遺物を良く見る事が出来なかったが、今回は手に取って見ている感じ。
住居跡を見学するため森に入った。途端に吸血虫の襲来。キャンプ場と違うので防虫スプレーやネットを車に置きっぱなし。今回も車に防虫セットを置き忘れ。これには参った。笹を折り、扇風機のように顔や身の回りを回転させて追い払う。しかし、吸血虫に私が追い立てられて、あたふたしながらの見学となったのです。
網走への途中、能取湖(のとろこ)のサンゴ草(アッケシ草)が色付いたという噂さを聞き立ち寄るが、雨模様のせいか色合いがパッとしない。

網走市
 社会科や歴史の教科書には、おそらく出てなかったと思うのですが、北海道北海岸(オホーツク海沿岸)にオホーツク文化という独特の生活スタイルの人々がいた。ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%AF%E6%96%87%E5%8C%96
をご覧ください。
学んだ日本史では、古墳時代から平安時代の頃に、オホーツク海沿岸を拠点に独特の文化を営んでいました。
海のオットセイやアザラシ、鯨などの海獣や羆を狩猟して食料としていた民族です。
縄文文化とは異質という。北海道では続縄文時代と重なる時代です。羆を崇拝することから、一説にはこの人々がアイヌ民族へと移行したのではないかとも言われています(アイヌ民族のルーツは未だ不明なのだそうです)。住居跡からは、羆の頭骨が沢山敷き並べて崇拝した跡が出土しています。羆祭り(イヨマンテ)をしていたのでしょうか。

モヨロ貝塚 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A8%E3%83%AD%E8%B2%9D%E5%A1%9A へのリンク
は網走川の河口左岸の小高い砂丘にあります。オホーツク文化を決定づけた遺跡です。貝塚の発見はアマチュア考古学者の米村喜男衛という床屋さんとのこと。

   
 駐車場からエレベーターで2階〜渡り廊下で  崇拝する石製の熊の頭部の出土品

青森県生まれの考古学好きの床屋さんの物語は、ネットで検索してみて下さい。
明治生まれの素人考古学大好き人間が、努力して努力して、これだけの事が出来てしまったのです。米村喜男衛で是非検索してください。

ところカーリングホール
 11日。カーリングホールは今日から営業しているはず。行きました。開館していました。
丁度、北見工業大学カーリング部の女子達が練習中。「そだねぇ〜」と言っているかどうは、ガラス越しで聞こえませんでした。
2階観客席で暫く見学しました。他には中年のご夫婦が。
昨日10日(カーリングホール休館日)は、韓国オリンピックを前に日本カーリング女子もお参りしたという常呂神社詣で。お祓いを受けてあるというお守り(ストラップ)を購入してしまいました。(ミーハーだから)

***  2018/12/03追記
新語・流行語大賞の発表が今日3日にあり、今年の大賞に「そだね〜」がなりました。

   
 カーリングホール外観  そだねぇ〜

北見峠越え
 地震の影響で道東、十勝方面の旅は避け、旭川市へ峠越え。
国道333号線で再度遠軽町を抜けJR石北本線と平行して走る。白滝を過ぎるといよいよ峠の登り道。
峠は標高857m。
この道路は別名「監獄道路、囚人道路」とも呼ばれるそうです。それはこの道路が明治のころ造られましたが、網走監獄の囚人を酷使して造ったことに起因しています。
ウィキペディアに簡潔に解説してあります。北見峠  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E8%A6%8B%E5%B3%A0
一昨年、博物館網走監獄を見学した折、この事は見ていたのですが、峠に慰霊碑が有ることは知りませんでした。また、現在の国道39号線が「監獄道路」だとばっかり思っていたのです。
この碑の前では四国遍路の札所で行っていた「般若心経」を丁重にお唱えさせていただきました。

     
 北見峠  監獄道路殉難者の慰霊碑 一面の笹原 

北海道を周遊しながら「チシマザサの生えているところがあれば良いがなぁ」と思いながら走っていました。北見峠にはチシマザサ(ネマガリダケ)が見事に繁茂していました。
9月は縁巻用の1年生の切り時期。記念の意味も含めて少し切らせていただきました。
笹薮は羆が出て来はしないかとヒヤヒヤものでした。(帰宅後前処理をして大切に保管しました)千島という名前からして緯度の高い、寒冷地向きの笹なのでしょう。関東・東北地方にも生えていますが、標高の高い山地(1,000〜1,500m)でないと良い物が採れない。此処の峠は1,000m以下ですが良い笹竿のが採れた。

以後、旭川市、黒松内町の道の駅で車中泊をし、再度函館市旧南茅部町の大船川河川公園キャンプ場でテント泊。
テントを設営してから実績のある漁港へ肴釣り。大物は釣れませんでしたが、肴には十分な量の根魚が釣れました。少し大きめのは刺身。から揚げ、煮魚と今夜も一人ではもったいないほどの魚でした。この夜の宿泊者は私だけでした。
街灯はあるのですが、ランプを朝まで点灯しておきました。勿論、隣の保養センターの温泉で旅の疲れを癒しました。
朝になり、ゴミ持ち帰りの看板があるので、魚の骨などの処分を考え漁港まで行き、ゴメ(カゴメ)に食べてもらいました。ゴメの食べ方は惚れ惚れします。
大きな頭も一飲み。猿山のようにボス的なのが居て独り占めにするのです。

前にも少し書いたが、道の駅縄文ロマン南かやべ に再度寄ったら垣ノ島遺跡の現地説明会開催中。2時間ほどの待ち時間があったが、12時20分からのに申し込んだ。

垣ノ島遺跡(ウィキペディアから引用)
 垣ノ島遺跡(かきのしまいせき)は、北海道函館市に所在する縄文時代遺跡
道内での同時代の遺跡として最大規模であり、縄文時代早期前半(約9000年前)の墓制、駒ヶ岳噴火による集落断絶、後期初頭の盛土遺構から後期後半(約3500年前)に至るまでの縄文集落の変遷と生活痕跡が確認できる。
2011年平成23年)2月7日、国の史跡に指定された[2]北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群を構成する遺跡の一つ
ウィキペディア全文 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%A3%E3%83%8E%E5%B3%B6%E9%81%BA%E8%B7%A1

函館から船に乗って大間に着いた〜
大間で1泊して太平洋岸を南下。
東日本大震災の被災地で未訪問の宮古市以北を今回周ろう。
八戸市の蕪島の鼻を回る。そこからは絶景だ。いわゆるリアス式海岸。
しかし道は狭い。クネクネしていて道幅が狭いので、交通事故には細心の注意をしながら南下する。県道番号は1番だから、青森県では最重要道路だろう。
はしかみ という所から国道45号に乗る。
種市ー久慈(岩手県)ー野田ー普代ー田野畑ー宮古市田老と南下する。
田老地区の道の駅グリーンピアで、あの「バカタロウと言われた防潮堤」を見学。
何度も津波で痛めつけられた田老地区。そのため防潮堤にしては馬鹿でかい防潮堤を造り備えたが、先の津波では壊れ、役立たずと言われたものだ。しかし現在はそれにも増した堅牢な防潮堤を建設中である。

北上山地民俗資料館
 宮古市旧川井村にこの資料館があります。
この種の民俗資料館は各地にあります。しかしこの資料館は別格です。資料の多さ。手入れの行き届いた道具類。特に何種類もあるノコギリの手入れは素晴らしい。木挽きが使う大鋸やキコリが使う大きなノコギリ。鉞や斧多種。それらを目立てをしたり研いで錆びないように処置をしてある。
各地の資料館では、錆びて赤くなった鋸などが展示してあるのを見るが、此処は今すぐ使える状態であることに驚くのです。さすがは北上山地の資料館。
旧川井村の時、村民に呼びかけて集めたそうですが、その頃は道具の手入れのできる職人が健在であったのでしょう。
その職人さん達が大事にしていた道具を、寄贈に際しては、最後の手入れをしてして渡して下さったのかもしれない。展示物を拝見すると、これを使用していた人達の気持ちまでが伝わってくる。
良い物を拝見させていただきました。

資料館ではこの道具類の中に、夏屋地区で生産されていた「夏屋砥石」の原石と製品も見れました。
お目当てはこの砥石にあったのです。ネット検索で、かつて夏屋砥石という中砥が有ったことを知りました。その砥石の現物を見てみたいと思っていたのです。資料館に行けば若しかしたら見れるかも? と期待していたのです。それが砥石を見る前に、キコリの道具類の素晴らしさにに腰を抜かしてしまったのです。でも、砥石が見れて良かった!! 
夏屋砥石の里をお聞きして、この辺りに工場が有ったのだろうという谷も見てきました。意外であったのは夏屋地区に人家が多くあり、空家らしきものが目につかなかったことです。この中に砥石工場が有れば大満足でしたが、それは時代の流れで「天然石の砥石業」はもうほぼ過去のものです。茨城県内でも日立市の助川砥石は資料としてのみ存在しています。

川井村から国道340号線で遠野市に南下し、市立博物館で柳田國男の世界を堪能。河童は茨城県牛久沼の小川芋銭でお馴染みです。
この夜は北上市和賀川グリーンパークでテント泊。
国道4号線で南下中、道路標識に岩出山、鳴子温泉を目にして、急遽右折してしまいました。
岩出山はかつて石器時代遺跡ねつ造で名を馳せた「座散乱木遺跡」のあるところ。ここへは30年くらい前に、わざわざ現地を見に行った苦い記憶がある。
頭の隅に座散乱木遺跡が蘇ったのかもしれない。結局鳴子温泉大衆浴場で汗を流し、山形県小国町へ向かった。
小国町の山小屋で2晩過ごし、我が家に帰りました。
40日に及ぶ長旅はこうして終息しました。


まとめ
 暑い盛りに出発し、秋風が漂う頃帰宅した40日に及ぶ遺跡見学の旅。
年明けに思い立ち、春先に末端神経顔面麻痺を患い出遅れた出発。
旅スタイルがキャンプなので、時季の野菜や果物を購入調理して、それはそれで楽しいものです。特に漬物は茄子や大根を梅酢で漬け込み、夏の口中がだるい時、重宝をしました。
地域が変わると農産物も変化し、値段も大分変るという事も実感できました。茄子とトマトは北海道に渡ると急に値が上がるという感じでした。
それにしても新鮮な野菜類を、道の駅直売所やスーパーで購入しながらの旅は良いものです。

遺跡と博物館
 東北北部から遺跡巡りを始めました。近所に岩手県一戸町出身の方が居ります。その方から一戸町には縄文の遺跡があることを伺っていました。一戸町はスズダケを使用した笊、籠が有名で、以前鳥越地区の「鳥越もみじ交遊舎」を訪ねたことがあり、多少の馴染みもありました。
御所野遺跡は整備された公園」という感じです。一面の芝生で、生憎の雨模様でしたので芝地には入らず、復元住居は遠目に見ましたが、此処で初めて屋根に土を被せた家を目にしました。
八戸の是川遺跡は以前から気になっていたところ。数年前に国宝の土偶を上野の博物館で見た時以来です。

津軽海峡を渡り、函館東部の旧南茅部町の遺跡群。見応えがあります。
人間は食料が有れば寒い土地でも暮らせるものなのですね。木の実は主食とはしなくても、海の海獣や魚貝類、山の獣を主食に暮らした祖先達。
噴火湾沿いを東進して苫小牧に着く。その後札幌を経て日本海沿岸を北上。稚内から宗谷岬を廻り、オホーツク海沿岸を南下。
オホーツク海沿岸の文化は石器時代から縄文、続縄文、オホーツク文化などが微妙に影響し合い、本州とは異なる文化や時代を経ている。

北東北、北海道南部地域の縄文遺跡を世界遺産に登録しようという動きが活発です。
平成30年7月19日の文化審議会世界文化遺産部会において「北海道・北東北の縄文遺跡群」が平成30年度の世界文化遺産推薦候補に選定されたニュースが日本中を駆け巡りました。
今回これらの候補遺跡を主に旅を続けました。訪ねたいずれの遺跡も素晴らしい。東北、北海道の遺跡は今まであまり注目をされてきなかったように思います。三内丸山遺跡がスポットを浴びて以来、今回の候補地の遺跡は元より、東北・北海道の遺跡にも注目がされるようになりました。
世界遺産登録までにはまだまだ地域や国レベルの努力が必要でしょうが、一日も早い登録を期待している一人です。

この度の北東北、北海道の遺跡、博物館巡りの旅は、地道に郷土の歴史を掘っている人達の熱い思いを感じた旅でもあります。
ビックリしたのは走行距離。8月8日にオイル交換をして旅に備えた。帰宅して距離メーターを見ると何と5、000kmも走行したのだ。ジグザグコースが原因でしょう。大間までが1,050km。北海道周遊が2,450km。大間〜自宅が1,320km。計4,800km。これは予想外でした。
3,500〜4,000km位と踏んでいたのが何と5,000kmにも及ぶ走行距離。1回の旅では最長距離となりました。

                                    2018/10/01



準備編
2018/1/16
追記  3/06
追記  5/17
追記  5/24
追記  7/20
追記  8/01


はじめに

 年が改まり早くも半月経過です。
昨年は長期の放浪はしませんでした。
今年は北海道方面に行きたくなりました。
北海道の放浪は過去2度(2015,2016)行きました。
今までの旅を振り返り
 ・ 何か目的があったのか? を考えてみました。
2度とも未知なる大地を歩いてみたい(走ってみたい)!! だったかな?
それはそれで良かったのですが、イマイチ漫然とした旅であったかなぁ。

2016年の旅では、和人とアイヌの関係が気になって、それぞれの地で博物館や遺跡を見学しました。その結果は、和人がアイヌの人達を騙すような取引をしていた事が分かりました。
特に場所請負制度というもので、アイヌの人達から甘い汁を全道で、長期に渡り吸っていたのでした。その元締めが蠣崎氏の松前藩です。
江戸時代から明治時代に至るまでこの松前藩(和人)の横暴は続いたのでした。

今回はこれらの遺跡巡りもさることながら、先史時代から現代に至るまでを見てみたい。
先ずは博物館に行き、各地の基礎勉強。そして遺物や遺跡を見学。
その中から気に掛る事物を深堀してみたい。

3月6日(追記)

 寒かった今年の冬も3月の声を聞いて退散支度。
月初めの1,2日は発達しながら低気圧が日本海上を東北・北海道を通過し、オホーツク海上で962hPaまで発達しました。
2013年にも同様の低気圧により北海道・オホーツク沿岸で車の遭難、人的な被害も多数発生しました。
中でも湧別町の漁師とその娘(小3)が車で帰宅中に車が雪に埋もれ、近くの知人宅へ避難する途中で、経験したことの無いブリザードに倒れ、父親死亡。娘さんは父親の掛けてくれた防寒ジャンパーと父親の腹の下で寒さを除け、かろうじて生還。
5年前大きなニュースになりましたので、皆様の記憶にもあることでしょう。今回の低気圧接近時に気象庁が「数年に一度あるかどうかの猛烈な低気圧にご注意」という表現は2013年の被害がベースだということです。
それも去り、目まぐるしく天気は変わる今日この頃ですが、庭の梅の花も散り、鹿島地方は春になりました。
 
冬の間に下調べをしていた北海道・東北への旅。
概ね構想がまとまりそうです。
今回も大洗港からフェリーで苫小牧に渡り、札幌・江別市界隈で北海道全体の遺物を展示している大型博物館を見学。
そこから各市町村の郷土博物館巡りを続けながら北上 ー 苫前町郷土資料館 ー オホーツク海沿岸を南下 ー 遠軽町白滝地区の黒曜石(ジオパーク) − 「そだねー」の北見市常呂町カーリングホールを表敬訪問(野次馬根性) ー さらに南下して網走市の各種北方文化展示施設を見学 ー ここから南下ルートはこれから更に詰め、函館から青森県へ。

今回は考古学のお勉強に疲れたら海釣り、渓釣りをして、酒の肴は自給自足
前回の旅ではキトキトの魚になかなか会えなかったので、今回は自分で獲る。釣りレコなどを拝見するとクロガシラカレイやアブラコ(アイナメ)という種のカレイや根魚があっちこっちで釣れそうです。
大きな獲物は刺身やカルパッチョで。小さな獲物はから揚げ、煮つけ、塩焼き。 塩を振り干物も良いかも。(干物の道具立ても必要か??)
こう考えると秋まで北海道で暮らしてしまおうか? などと妄想をしているのです。

遺跡見学
 特に遠軽町白滝地区には黒曜石の露頭が有るようです。が、2016年の大雨被害で林道の復旧工事が完了せずに、ジオツアーは今年も開催のめどが立たないと「ジオパーク交流センター」の担当者からメール返信がありました。
しかし露頭見学を除けば其処以外のいろいろな施設や催しが有るようです。
黒曜石の矢じり作りなどは興味が有ります。子供にかえって挑戦してみましょう。ネットで「黒曜石の世界」を検索すると、素晴らしい黒曜石のオブジェが閲覧できます。これはもう芸術品です。石包丁はキャンプなどのアウトドア―で実際に使えそうです。(ネット上で見ただけだけど)
20年ほど以前に山形県の朝日連峰で知り合いになった新潟大学の学生であったAさんからのメールでは、日高地方を歩くと黒曜石があっちこっちで拾えるそうです。
彼は立派な地質学者(地質調査の技術者)で、北海道に帰りコンサルタント会社の技術者として活躍中です。ので信頼できる話です。
渓流釣りで、河原で黒曜石(北海道全域では十勝石という)を拾うのも楽しみです。

5月17日(追記)

 先週「目の異常」に気が付いた。正面を向いたまま右斜め前を見るとぼやけるというか二重に見えるような感じ。
正面や左側は問題ないのだが、右斜め前だけがおかしい? 
車運転時交差点で左右確認。その際に右側を確認しようとすると像がぼやけると言えば分り易いか。
一時的かな? と思ったのですが、その土曜日にかかりつけの眼科医院で調べていただきました。「眼科的には問題ありません。おかしいと思うのであれば脳神経科で診てもらいなさい。緑内障の方は視力も眼圧も心配ないです。」
そこで今週月曜日14日に脳神経科のある病院で診てもらいました。CT検査画像を見て「この検査の結果は異状は無いと思います。心配したのはくも幕下出血です。念のためにMRIをしましょう」となり、予約をお願いしました。

脳神経科で診ていただいた14日は目の異状は無かったのですが、表情が出た時に納得のいく検査をしておけば、後々も後悔しなくて済みます。
今日17日は西條秀樹が脳梗塞→心筋梗塞で逝ったニュースが報道されています。脳の状況は素人の私には全く分からない。先生にお任せです。
この種の検査は大変混んでいて、検査日は6月12日で 1カ月 後です。
6月早々には北海道に向かうつもりでいましたので、この検査日にはちょっと不満ですが、まぁ止む得ません。
その前日には運転免許証の書き換えのための「高齢者対象の自動車学校での高齢者講習会」も入りましたので、これも何かの巡り会わせ。慌てずスッキリさせてからの出立としましょう。

遅れれば遅れたとして釣りの獲物も変わります。秋を感じればサンマや鮭釣りができるようです。
鮭釣りも一度はしてみたい釣りです。これから情報を整理してそれにも備えましょう。
高齢者運転車が高速道路を逆走するニュースが珍しくない昨今。私も高齢者の仲間なので、よそ様にご迷惑のかからないよう心構えをしっかり持って、適性検査や運転技術判定を受講します。

5月24日(追記)
 
 その後、22日の朝食時に左上唇に違和感。鏡で確認すると上唇の中心から少し横にしこりが有るような、腫れが有るような感じ。「何だろう?」という程度であまり気にしなかった。
23日の朝食時、食べ物が左口中で、上も下も唇と歯茎の間に溜まって噛めない、飲めないので箸で右側へ描きだし食べた。
これは異常なのでK病院へ朝一で行く。血圧検査、採血、点滴、MRI検査の上診察。先生は「脳の異状は見受けられません。病名は末梢神経顔面麻痺です。薬を3週間飲んでください。強い薬です。1週間目は量が多く毎朝8錠です。2週目はその半分に減らします。3週目は更に半分にします。ステロイドが入っています」という診断です。
つまり最初の投薬は3週間。21日かかります。これは決定的な現実です。
北海道行きや朝日連峰登山道整備はその後の話です。
大幅修正が必要です。取りあえず1週間目の薬の効き方状況を見てから考えましょう。回復具合に応じて色々考えます。
最悪は北海道は秋の陣でもやむを得ないとしましょう。この病はかなりの確率で回復は出来そうですから。次回の診察では血液検査の結果が分かるでしょう。その後も見えてくるでしょう。

7月20日(追記)

 7月12日最終診断
この日主治医から「治療は今日で終わりにします。30日分の薬を飲んだらそれで終わりです。あとはリハビリの担当者からリハビリ治療の判断を受けて下さい」。とのお話がありました。
これに続けてリハビリ担当の理学療法士さんに主治医の話をして判断を仰ぎました。
ベッドに仰向けになり診療。そして「リハビリも今日で終わりにします。顔の歪みもほとんど元に戻りました。あとは投薬が無くなるまで、日に何度かのマッサージをしてください」
ということで今回の末端神経顔面麻痺は治りました。

初めはかなりショックを受けましたが、種々の検査を受け「心配した脳の異状は見受けられません。加齢による脳の委縮は有りますが、これは心配ありません」との診断は、近年何となく気になっていた@痴呆(ボケ) Aアルツハイマー の心配はない。血液検査の結果は高血圧、糖尿病なども心配なし。
今後はこれに驕れることをせず、節度ある生活を続ければもう少し長く健康で過ごせそうだということが分かりました。
災い転じて残り人生の指標が何となく見えた一件です。

この結果を受け、13日から恒例の朝日連峰登山道整備に参加すべく山形県小国町に出発したのです。
その結果は「18登山道整備」に記載しました。

これで障害は消えました。
これから北海道へ出発するための準備に入ります。
今のところ出発は月遅れのお盆を迎え、仏様にご挨拶を済ませ次第出発と考えています。
今回は極力装備品を少なくするため努力します。そうすれば車内がゴチャゴチャしないで済みます。有れば便利」という考えは止めて、最小限の装備で最大の能力を発揮することです。


8月01日(追記)

 いよいよ8月です。ということは今年も残り5カ月になったことになります。暑い暑いといっていても残り月数を思うと1年は本当に短い。
さて、今回末の孫が同行することになりました。彼と連れ立って東北の夏を巡り、北海道に渡り、9月の始業に間に合うように苫小牧からフェリーで大洗港便に乗せようと思います。
いわき市「くらしの伝承郷」にて じゃんがら念仏踊り の見学を皮切りに北に向かいましょう。

異常気象といわれる今年の夏。6月下旬に梅雨が明けるという異常さで夏到来。
もう1ヵ月も暑い暑いの連呼です。この暑さから逃れるのも今回の旅の一つになりそう。オホーツク海沿岸では本州の秋のような陽気の様ですから。
旅の予定も大分煮詰まりました。
細々エクセルで表を作りました。盛り沢山は禁物ですが、メニューとして幾つも用意しました。それを現地に行ってから出来そうなもの。やりたいものを選択。
用意した物はキャンプ用具一式。釣り具。それにエクセルの資料。あとは特に無し。
これをこじんまりと車に収納して出発です。
本州では異常気象の連続ですが、果たして北海道は如何か??


高齢者運転講習会

 今年は自動車運転免許証の書き換え年。
自動車教習所で講習を受け、実技指導を受けて修了証を持参して警察署で書き換え手続きをしました。
教習所では講話を聴き、その後3人一組で教官を加え4名で車に乗り込んで、一人15分程度の運転をしました。
私の組では私が一番手。教官からの指示に従い、外周や車庫入れその他をやりました。小一時間後に教室に戻り教官から講評。
私の運転では特に指摘事項は有りませんでした。他の人のを聞いていると、一旦停止の仕方やスピードの塩梅などにチェックが入りました。
私はランクルを日頃運転しているので、車庫入れはサイドミラーのみでバックします。乗用車で実施した今回の講習でもサイドミラーで車庫入れ。
慣れればこれの方が失敗しません。何しろ後輪を見ての運転ですから。乗用車には慣れていませんでしたが、サイドミラーでのバックは慣れたもの。
修了証を持って警察署に行って手続き。これがあっという間に完了してしまいました。心配になり「講習は受けなくてよろしいのでしょうか?」と聞いてみると「自動車学校で受けたでしょ」との回答で納得して帰宅しました。
初めての高齢者免許証書き換えはこうして無事に終わりました。
安心して北海道に渡れます。